都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「ピーマン」という名前はフランス語で唐辛子を意味する「ピマン(Piment)」に由来するそうです。「ピーマン」はフランス語では「ポワーヴロン(Poivron)」というそうです。
英語では「ベルペッパー(Bell pepper)」、なかでも緑色のものは「グリーンペッパー(Green pepper)」と呼ばれています。英語では「胡椒」も「唐辛子」も「ペッパー」です。
「ピーマン」は唐辛子の一種で、アメリカで品種改良された言わば「辛くない唐辛子」です。この唐辛子の原産は熱帯アメリカで、コロンブスのアメリカ大陸発見によりヨーロッパに渡り普及しました。唐辛子が日本に伝わったのは16世紀頃だそうです。
一方の「ピーマン」が日本に伝わったのはだいたい明治の初め、19世紀の中頃らしいのです。
しかし、当時のピーマンは大型で肉厚の品種。独特の香りが強いため、それほど普及しませんでした。一般家庭の食卓に登場するようになったのは第二次世界大戦後のことなのです。
戦前は、ピーマンが日本の食卓に上ることはほとんどなく、その存在すら忘れられていたそうです。それが、日本人がピーマンを食べるようになった理由だそうです。
日本の役人たちもその存在をすっかり忘れていたのです。
当時、食料品には経済統制の網がかけられ、ほとんどの食品は自由に売買することができませんでした。だが、「ピーマン」はその対象外だったのです。
もともと、ほとんどが売買されていなかったため、役人が見落としたのです。
いつの世にも頭のいい人はいるものです。これに目をつけたのが、東京近郊の農家だったそうです。米や他の野菜は自由に作ることは出来ませんが、「ピーマン」は規制されていないために、勝手に作って勝手に売買できたのです。戦後の食糧難の時に、「ピーマン」は焼け跡の闇市で飛ぶように売れたのだそうです。
こうして日本人は「ピーマン」の味を覚え、その後、日本人の嗜好がしだいに肉食へと変わるなか、消費量が急速に伸びたのは、昭和30年代後半からです。
肉と合うピーマンはしだいに日本の食卓の野菜に加わるようになったのです。
しかし、当時の「ピーマン」は子どもの嫌いな野菜のナンバーワンでした。
そもそも「ピーマン」はカロテンやビタミンCが豊富。ピーマン100グラム中のビタミンC含有量は約80ミリグラム。レモンの2倍に当たるビタミンCが詰まっています。中ぐらいの大きさの「ピーマン」4個で1日の所要量をとることができます。
現在、その栄養分はそのままに。品種開発され、クセが少なく、肉の薄い、緑色の中型「ピーマン」が誕生し、出回るようになりました。さらに、緑色の「ピーマン」は未熟なうちに収穫したものですが、完熟させると、赤、オレンジ、黄色になるものもあります。
よりクセがなく、柔らかく、甘い味のカラフルな完熟品が出回るようになり、サラダや料理の色どりなどにも使用範囲が広がっています。
現在は多くの日本人に食べられる野菜になっているといえるでしょう。もし、役人が食料統制に「ピーマン」を加えていたら、私たちは「ピーマン」を食べていなかったのかもしれないのです。
したっけ。