(2022年6月20日)<生きる器械(身体)の実態からして自立系を司るのは神経系で、その働きによって最も低い刺激状態に戻る>が前回(17日)の最後の文。これを理解する鍵となる語が 原文にある « homéostat » 。
スタンダード辞典を開くと「サイバネティクスでのホメオスタット」と記される。これでは分からない。Petit Robertを開けると「前もって設定される均衡の基準値に立ち戻る複雑系」幾らか理解できた。 « Cybernétique » サイバネティックは「機械の立ち行きは通信系と基準値への復帰規制で制御される」みたいな説明があった(同)。すると « homéostat » の意味は生きる器械である人体が「刺激を受け快楽を追求し愉悦状態が亢進されても神経の働きで、基準として設定されている最も低い水準に戻る 自律系」となる。
ラカンは快楽原理を神経が制御する自立として説明した。その運動は行ったり来たりに自動制御される。この動きをして「快楽頂点と最低水準の緊張」概念を打ち立てたフロイトに独創があり、それをして「循環弁証法」と名付けた。
この行ったり来たりが誤解を生む。<Freud leur a offert là l’occasion d’un malentendu de plus, et tous en chœur s’y précipitent dans leur affolement> ここでフロイトはさらなる誤解の元凶を彼らに与えてしまった。皆が立ち騒ぐ狂乱の様は音の揃わない合唱隊だった(同)。
彼らとはフロイトの賛同者、前述の対比関係、特に最低緊張 « le plus bas de la tension »とはなにかで論争が巻き上がった様子をかく述べたのである。
最低緊張の解釈にラカンは2の候補をあげる。 一の候補は « pur et simple, c’est-à-dire, la mort » 単純簡明にそれは死。そして « les processus de la décomposition qui suivent la mort » 死に続く肉身の解体にたどり着く。身体を精神に置き換えれば「精神の死、崩壊」とも捉えられる(ラカンはそれに言及していない)。二の候補は « une certaine définition de l’équilibre du système » 生体系をサイバネティックとして均衡する点。基準としてそこに戻る。いわば « homéostat » の特異点。
第一の解釈では快楽の原理をフロイトが提唱した「死の本能」が結びつけられる。この解釈がフロイト追随者に喧伝されていた事情をラカンがかく語り、それが前引用の « affolement » 狂乱の意味合いに繋がります。快楽の果ては死の本能―と語るとなんとも(当時1950年代に流行った)実存主義です。時代にもてはやされた解釈でした(70年前のフランス論壇の傾向を知らない、ネット情報のかき集めです)。
<C’est supposer le problème résolu, c’est confondre le principe du plaisir avec ce qu’on croit que Freud nous a désigné sous le nom de l’instinct de mort>これで解決と問題を片付けただけで、フロイトが我々に諭したと人が信じるところの死の本能と快楽の原理の連関に混乱を招いただけだった。
コリアンダーの花、葉っぱをサラダに加味しようと鉢に植えたらすぐにトウが立って花になった。季節ですね。
歯切れが悪い。気付いて言い訳気味に<Je dis ce qu’on croit, parce que quand Freud parle d’instinct de la mort, il désigne heureusement quelque chose moins absurde, anti-scientifique> 人が信じるところのと申したが、フロイトが死への本能を語るときは、まあ幸運なことに(=本当の死ではない)非合理ではないが、非科学的な何かを当てているのだから(103頁)。
それを生物学的死と信じたら誤り、別の意味の死をフロイトは諭したのだと言いようだ。別の非科学的な何かとは« tend à ramener tout l’aminé à l’inanimé » 生体系全体を活発から不活発へ導くモノであるとした、精神作用である。次の文に移る。
« Ce n’est pas la mort des êtres vivants. C’est le vécu humain, l’échange humain, l’intersubjectivité » それは生きる個体の死ではない、人の体験の死だ、人の交信の死だ、主体内部活動の死なのだ。
ラカンが蘊蓄を傾けた « homéostat , cybernétiques »と「体験の死、交信の死等など」を結びつけるとフロイトが語る死は「交信と制御」を遮断した不活性の肉体、そして精神も不活性化に陥ると読み取れる。「快楽と不活性状態は循環弁証法の関係にある。快楽を求める本能には反作用として不活性に向かう本性が潜むのだ。その過程は遮断、交信停止を神経系が人体に押し付ける」。これが緊張の最下点 « le plus bas de la tension »なのだとフロイトが説明したのだ、とラカンが言っている。
第一原理 « le principe du plaisir » の定義を以下とする、 « Au niveau du système nerveux, quand il y a stimulation, tout opère, tout est mis en jeu, les efférents, les afférents, pour que l’être vivant retrouve le repos. C’est le principe du plaisir selon Freud » 神経系の段階で、刺激が発生したらすべてが、導出血流(efférents)も導入血流(afférents)も、一体となって起動して後、休息に戻る。これがフロイトの快楽説である(106頁)。
この後、熱力学と通信理論を精神に擬える試みを語る。エントロピー、ベル研究所(アメリカ)の通信(パケット)技術など例を説明する。これらを持って人体内のhoméostatの基準点、神経の交信の巧妙さを説明しようとしている。精神の事情である快楽の追求と、近代科学との関連を、それらラカン説明に見いだせない部族民は脱線と憤ってしまうが、エントロピーを理解しない者の泣き言であろう。
しかるにここで万事解決には至らない―ラカン先生は自ら論議の種を掘り起こす。Hyppoliteが抜けたので彼が指摘しそうな項目を取出した、フロイトのもう一つの原理 « le principe de réalité » 現実原理との不整合が発生しているのだ。
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 2 了 (6月20日、次回22日)
スタンダード辞典を開くと「サイバネティクスでのホメオスタット」と記される。これでは分からない。Petit Robertを開けると「前もって設定される均衡の基準値に立ち戻る複雑系」幾らか理解できた。 « Cybernétique » サイバネティックは「機械の立ち行きは通信系と基準値への復帰規制で制御される」みたいな説明があった(同)。すると « homéostat » の意味は生きる器械である人体が「刺激を受け快楽を追求し愉悦状態が亢進されても神経の働きで、基準として設定されている最も低い水準に戻る 自律系」となる。
ラカンは快楽原理を神経が制御する自立として説明した。その運動は行ったり来たりに自動制御される。この動きをして「快楽頂点と最低水準の緊張」概念を打ち立てたフロイトに独創があり、それをして「循環弁証法」と名付けた。
この行ったり来たりが誤解を生む。<Freud leur a offert là l’occasion d’un malentendu de plus, et tous en chœur s’y précipitent dans leur affolement> ここでフロイトはさらなる誤解の元凶を彼らに与えてしまった。皆が立ち騒ぐ狂乱の様は音の揃わない合唱隊だった(同)。
彼らとはフロイトの賛同者、前述の対比関係、特に最低緊張 « le plus bas de la tension »とはなにかで論争が巻き上がった様子をかく述べたのである。
最低緊張の解釈にラカンは2の候補をあげる。 一の候補は « pur et simple, c’est-à-dire, la mort » 単純簡明にそれは死。そして « les processus de la décomposition qui suivent la mort » 死に続く肉身の解体にたどり着く。身体を精神に置き換えれば「精神の死、崩壊」とも捉えられる(ラカンはそれに言及していない)。二の候補は « une certaine définition de l’équilibre du système » 生体系をサイバネティックとして均衡する点。基準としてそこに戻る。いわば « homéostat » の特異点。
第一の解釈では快楽の原理をフロイトが提唱した「死の本能」が結びつけられる。この解釈がフロイト追随者に喧伝されていた事情をラカンがかく語り、それが前引用の « affolement » 狂乱の意味合いに繋がります。快楽の果ては死の本能―と語るとなんとも(当時1950年代に流行った)実存主義です。時代にもてはやされた解釈でした(70年前のフランス論壇の傾向を知らない、ネット情報のかき集めです)。
<C’est supposer le problème résolu, c’est confondre le principe du plaisir avec ce qu’on croit que Freud nous a désigné sous le nom de l’instinct de mort>これで解決と問題を片付けただけで、フロイトが我々に諭したと人が信じるところの死の本能と快楽の原理の連関に混乱を招いただけだった。
コリアンダーの花、葉っぱをサラダに加味しようと鉢に植えたらすぐにトウが立って花になった。季節ですね。
歯切れが悪い。気付いて言い訳気味に<Je dis ce qu’on croit, parce que quand Freud parle d’instinct de la mort, il désigne heureusement quelque chose moins absurde, anti-scientifique> 人が信じるところのと申したが、フロイトが死への本能を語るときは、まあ幸運なことに(=本当の死ではない)非合理ではないが、非科学的な何かを当てているのだから(103頁)。
それを生物学的死と信じたら誤り、別の意味の死をフロイトは諭したのだと言いようだ。別の非科学的な何かとは« tend à ramener tout l’aminé à l’inanimé » 生体系全体を活発から不活発へ導くモノであるとした、精神作用である。次の文に移る。
« Ce n’est pas la mort des êtres vivants. C’est le vécu humain, l’échange humain, l’intersubjectivité » それは生きる個体の死ではない、人の体験の死だ、人の交信の死だ、主体内部活動の死なのだ。
ラカンが蘊蓄を傾けた « homéostat , cybernétiques »と「体験の死、交信の死等など」を結びつけるとフロイトが語る死は「交信と制御」を遮断した不活性の肉体、そして精神も不活性化に陥ると読み取れる。「快楽と不活性状態は循環弁証法の関係にある。快楽を求める本能には反作用として不活性に向かう本性が潜むのだ。その過程は遮断、交信停止を神経系が人体に押し付ける」。これが緊張の最下点 « le plus bas de la tension »なのだとフロイトが説明したのだ、とラカンが言っている。
第一原理 « le principe du plaisir » の定義を以下とする、 « Au niveau du système nerveux, quand il y a stimulation, tout opère, tout est mis en jeu, les efférents, les afférents, pour que l’être vivant retrouve le repos. C’est le principe du plaisir selon Freud » 神経系の段階で、刺激が発生したらすべてが、導出血流(efférents)も導入血流(afférents)も、一体となって起動して後、休息に戻る。これがフロイトの快楽説である(106頁)。
この後、熱力学と通信理論を精神に擬える試みを語る。エントロピー、ベル研究所(アメリカ)の通信(パケット)技術など例を説明する。これらを持って人体内のhoméostatの基準点、神経の交信の巧妙さを説明しようとしている。精神の事情である快楽の追求と、近代科学との関連を、それらラカン説明に見いだせない部族民は脱線と憤ってしまうが、エントロピーを理解しない者の泣き言であろう。
しかるにここで万事解決には至らない―ラカン先生は自ら論議の種を掘り起こす。Hyppoliteが抜けたので彼が指摘しそうな項目を取出した、フロイトのもう一つの原理 « le principe de réalité » 現実原理との不整合が発生しているのだ。
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 2 了 (6月20日、次回22日)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます