蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 5(最終回)

2019年02月01日 | 小説
(2月1日)
初めに;
昨年(2018年)3月からの表題投稿を加筆し書き換え、誤読を訂正しての再投稿となります。

前回(1月30日)に<<Ce n’est pas tout>>それだけではないで終えている。
続きは;
<<Il ne faut pas que la raison dialectique se laisse emporter par son elan, et que la demarche qui nous mene a la comprehension d’une realite autre attribue a celle-ci, outre ses propres caracteres dialectique, ceux qui relevent de la demarche plutot que de l’objet : de ce que toute connaissance de l’autre est dialectique, il ne resulte pas que le tout de l’autre soit integralement dialectique(288~299頁)

難文です。
理解への鍵は<de ce que toute connaissance de l’autre est dialectique>にあります。「他者すべてを知るとは弁証法」と訳す。ここでの弁証法は理解する仕組み、思考回路と読みます。これは思想としての弁証法。他者に接するとは「理解しinterioriser、還元しexterioriser、本質を探るtotaliser」ここに「他者認識」における弁証法理性が成り立つ。レヴィストロースはこの弁証法理性(dialectiqueのそもそもの意義は“対話”=プラトンの用法を想定している)を容認する。
しかるに、(サルトル)弁証法は、個人の経験が社会化し、集団(serie)が自律に行動し、時代を次段階に引き上げるという。この「歴史の必然、真理」なる弁証法(ヘーゲル、マルクスの用法)をレヴィストロースは認めない。
<<il ne resulte pas que le tout de l’autre soit integralement dialectique。だからといって「他者のすべて」は弁証法に包括されない。弁証法(思想だから)はモノ(他者)を組み込まない。

難物な引用文の訳を試みると;
弁証法論理を跳躍のままにさせては(過大評価しては)ならない。
その論理は(他者である)現実を理解する手助けになるが、理解した事実を(属性まで変えてしまう)弁証法の思考に成果に寄与せてはならない。理解した事実は(弁証法思考)本来の付加物ではない。理解から引き出される諸々は弁証法の本来性質でもないので、弁証法に帰趨させてはならない。(他者のすべてを弁証法に組み込むとは、止揚にいたる行程と、その結果(属性が変わる)を是認することである)

解説;Demarcheを進展と訳した。フランス革命を例とすると、弁証法理性で歴史進展の様を理解するは正しいけれど、この進展した事実を弁証法の必然として説明してはならない。他者(モノ)は弁証法(思考の一様態)には包括されない。フランス革命での他者は、例えば新体制がある。それを歴史必然の弁証法の枠に閉じこめてはならない(と小筆は解釈する)。

存在(etre)は弁証法になり得ない。弁証法はあくまで思索の手だてとして人が応用する思考過程である。サルトルの思考の組み立て方の差異、思考と存在をとらえる手法の対比をレヴィストロースは再度、確認している。


写真:晩年(2004年95歳)のレヴィストロス、2009年10月30日パリにて死亡

12 誤謬あるいは論理の破綻

<<Ce paralogisme est deja apparent dans sa facon d’invoquer une histoire dont on a mal a decouvrir si c’est cette histoire que font les homes sans le savoir=後略=(299頁)
paralogismeは2の意味をもつ。1は誤り、誤謬、2は「本人が気付かない」論理の破綻、これを論過と云う(白水社大辞典)。ここでは論過をとる(哲学用語として主唱したのはカント=哲学事典の受け売りです)。レヴィストロースが「君は気づいてないが論理の進め方に間違えがある」指摘する相手はサルトル。引用のdans sa facon のsaはサルトル、sans le savoirのle はparalogisme。すなわち「気づかないままに犯す論理破綻に気づいてない」。

訳;サルトルは己れ一流のやり方で一種の歴史解釈を提案しているが、論理の破綻が窺える。なぜなら、彼が語る歴史とは1誤りと知らずに人々が進めた歴史なのか、(この後は後略した部分の訳)2歴史家が(その誤り)を知りつつ(無理に)解釈する歴史なのか、3あるいは「哲学者」が解釈した(誤りの)歴史なのかを判別できない。
論過を諭すがごとく丁寧に3通り上げているが、文脈からして最後の「哲学者が誤り解釈した」歴史を選ぶのが自然である。哲学者にle定冠詞が被さるがこれは「一般的」哲学者ではなく「ここで話題の哲学者」のサルトルを指す。本人自身が誤りなのである。

論過に気づかず何を歴史にサルトルが押しつけたのか。前文を読む;
<<A force de faire de la raison analytique une anticomprehension, Sartre en vient souvent a lui refuser toute realite comme parite integrante de l’objet de comprehention (299頁)
2行目a lui refuserのluiはla raison analytique.
訳;分析的理性を「反知性=anticomprehension」と規定したいあまり分析的理性から、現実を、それこそが理解するための重要物なのだが、それを排除した。(弁証法を盛り立てるあまり、知らないうちに、分析的手法の成果を見ぬふりをした)

さらに;
未開社会を再び取り上げます。
サルトル論法、生まれ損ないの畸形では「未開社会」は説明しきれない。そこで;
<<Il croit que son effort de comprehension n’a de chance d’aboutir qu’a la condition d’etre dialectique ; et il conclut a tort que~(同書299頁)
拙訳;サルトルは(何事に付けても)弁証法的でなければ、いかほど努力しようと理解に至らないと知るから、以下の如く、誤って結論に到達した;
(前の引用que~に続いて)<<le rapport, a la pensee indigene, de la connaissance qu’il en a est celui d’une dialectique constituee a une dialectique constituante, reprenant ainsi a son compte, par un detour imprevu, toutes les illusion des theoriciens de la mentalite primitive.
訳;サルトルが信ずる先住民の思考とは「仕上がっている弁証法」であり(これと西洋文明を対比するのが)彼の理解の根幹である。しかし(この対比は)幻想にしか過ぎない。「未開人の精神」なる、廃った遺物を、回り道に迂回させて、(辻褄を合わせるため)計算(compte)に引き入れたのだ。

引用の解釈; indigene(先住民)の思考は「未開」から派生しているとの学説をレヴィストロースは否定している。これを主唱したのはLevy-Bruhl(1857~1939)なる民族学者、20世紀初頭には多くの賛同を得た(らしい)。しかし、人類学の先達(金枝編のフレイザー、北米インディアン研究のボアズなど)によって否定された。
コトもあろうに、サルトルがその説に食らいついた。

<<Que le sauvage possede des <<connaissances complexes>>et soit capable d’analyse et de demonstration lui parrait moins supportable encore qu’a un Levy-Bruhl(299頁)
拙訳:未開人は複雑性への理解を持つであろうこと。彼らが分析し説明する事実があろうとも、それら事実はサルトル氏にとって「Levy-Bruhlとか名乗るヤツ」よりも助けにならない。
<soit>は接続法、すると対となる前文の<possede所有する>も接続法。云っている内容は事実だから、事実を接続法で示す意味は<a la troisieme personne, un souhait,un desir, un regret. 第3者に期待、願望、遺憾を表す=文法書Le bon usageから>。固有名詞(Levy-Bruhl)に不定冠詞のunを付ける用法は「軽蔑の強調」(Le bon usage)。

筆法に託すは怒り、勢いいや増し、レヴィストロースはさらに。
<<Parmi les philosophes contemporains, Sartre n’est pas le seul a valoriser l’histoire aux depens des autres sciences humaines, et a s’en faire une conception presque mystique. ( 野生の思考La pensee sauvage 305頁)
引用文2行目の <et そして>> で前文とは切り離され、文意は反転する。故にmais(しかし)を使いたいのだが、なにせ修辞の大家レヴィストロースはこうした場合、必ず「故にet」でつなぐ。彼の頭の論理進行の具合を見るようです。
さて<<mystique>>とは神秘的、しかし分からない。leGrandRobertを開くと「感情直感に判断を委ねる教条」とあって、この意を採る。
訳;同時代の哲学者、その数あまた、サルトルのみが他の科学をないがしろにして歴史を持ち上げている訳ではない。(そして)直感に頼る神秘主義を標榜するのは彼のみだろう。(etそしてを、maisしかしに置き替えれば)分かりやすい。耳に優しいその言い回しはbanal平凡となる。

この後歴史学と民族学の差異に入る;
歴史学とは、地域に孤立する社会の時系列の繋がりを主題とするに対し、民族学は地域に分散し孤立していない、それぞれの社会の共時系を比較するとする。ゆえに、歴史学と民族学にはsymetrie(対称)が保たれるとする。
<<Ce rapport de symetrie entre l’histoire et l’ethnologie semble etre rejete par des philosophes qui constestent que l’etalement dans l’espace et de la succession dans le temps offrent des perspectives equivalentes.(同305頁)
拙訳;歴史学と民族学のこの均衡関係を否定する一派がいる。
ものごとの空間での伝播、それと時間をつないだ関連、これが同じ次元で継続するのだと主張する人たち(=弁証法の論理)。故に、歴史と民族の対称関係などないと否定する(進展など経時的事象のすべては弁証法の枠の内)哲学の信奉者からは、受け入れられない。
以上が未開社会批判への反論です。

次の文節で弁証法メカニズム、サルトル流の要のtotalisation批判に移る。
ちょっとした解説を;
(幾度か述べたが)実存主義とは存在が先にあって、存在から個人は思考せよとの脅迫を受ける。そこで個人は思考Cogitoを形成する。この仕組みをサルトルは歴史に応用した。すなわち歴史=弁証法=が個の前に、あるいは集団の前に、真理として存在する。思考する義務に個が目覚めるとは、真理に参画することとなる。弁証法をかく、経験する(engagement)わけだが、それはinterioriser、exterioriser、あるいはtotalisationのあらゆる段階でも、個人、自身の精神現象にとどまる。
しかし個の範囲での精神は歴史を動かす力になりえない。そこで社会の実相realite socialeとなる場(serie、バスの行列とかフットボール観衆とか)で集団(serialite)として行動する。Cogitoのsocialisationとは、集団がCogitoに“憑依“され、歴史的行動に入る。歴史の真理に参画する人はそう義務づけられる。

しかし、個のCogitoが集団のCogitoに変遷するなどあり得ないとレヴィストロースは批判する。その文章が以下;
<<Il y aurait beaucoup a dire sur cette pretendue continuite totalosatrice du moi, ou nous voyons une illusion entretenue par les exigences de la vie sociale (同306頁)
拙訳;いわゆるあの「総括する自己と連続性(集団)」をとりあげれば批判を種々、加えられることだろう。そこは社会生活の各種の規制、強制に曝される幻想としか思えない。

最後に;
本文初頭で引用されている一文節を載せる。繰り返しになるが;
<<Ce qui rend l’hisoire possible, c’est qu’un sous-ensemble d’evenementsse trouve , pour une periode donnee, avoir la meme signification pour un contingent d’individus qui n’ont pas necessairement vecu ces evenements , et qui peuvent meme les considerer a plusieurs ciecle de distance.(307頁)。訳:歴史を歴史たらしめるには、幾つかの事象、ある時期に現れ、おおよそ共通の意味を持ち、まとまりも持たない(contingentの意は明確意志を持たない)幾人かに共有される事から始まる。
<<L’histoire n’est q’une juxtaposition de qulques histoires locales.(307頁)
訳;歴史とは地域的な「歴史=小さな歴史」の積み上げでしかない。

本章のこれ以降の10頁は民族学、社会人類学の論点に移る。小筆の理解を越えるので本解説から割愛した。レヴィストロース野生の思考(La pensee sauvage)第九章Hisotoire et dialectiqueからサルトルへの批判を紹介しました。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 了

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