こんにちは。
あわただしい書き入れ時の週末を過ぎました本日です。
お蔭様の商いをさせていただき、ありがとうございます。
これで、しばらく糊口をしのげます。
遠い昔の話。
・・・父・・・そうさな、あたしがまだ10歳そこそこなころ、小さなちゃぶ台で家族5人、そろってご飯を食べているときに、父が言いました。
「売るという文字の意味は、買ったものの一割を得ることなのだ。」
・・・
古い”賣”という文字。
買うという字に、十一を足して、売るという文字になっている。
当時幼心に、「あぁ、商いは、そういうものなのだなぁ」と、感じたあたしでした。
商売家に生まれながら、後継ぎではないから公務員となった父は、それでも戦後を食っていかねばならず、実家の支援を受けて母に商売をやらせた。
そんな父は、商売で儲けるという意味では、まことに疎かったと今では思います。
(大正8年生まれ・・・戦後、商売家もクソもない時代だったですね)
食べるために、仕入先様の言いなりの値段で買って、その一割を上乗せして、それでも元が高かったようで、
「お宅は、高いね」といわれていたらしい。
(ということを、呉服屋を継いだあたしは後日知った)
それでも何とか持ちこたえていたのが、母の人柄だったようだ。
正直の化身みたいな人で、それを補う、今で言うところの「おもてなし」をしていた。
{お客様のご注文に、商売抜きでぎりぎりまで誠意を尽くした人でした)
そんなで戦後を乗り切った二人です。
そんな両親のおかげで、あたしたち姉弟は育ったです。
姉二人と共に、両親の背中を見て育ちました。
そのおかげで、ここまでこれました。
父は一昨年、97で亡くなりまして、母が今90で施設で過ごしています。
そんな母の手元にあったのが、この小さな紙片です。
(俳句に身をささげた父には大量の文書が残っていますが、すでに父亡き後、母が介護の施設に移動する際、彼女が手元に残したらしい。それを知ったのはずいぶん前でしたが、書くのにここまでかかりました・・・そこまでの想いがありました。)
一川に 一草に 秋深みけり
(いっせんに いっそうにあき ふかみけり)
秋天に 声放らば ありがとう
(しゅうてんに こえはなたらば ありがとう)
秋光を しなわせて水 はるかなり
(しゅうこうを しなわせてみず はるかなり)
思慮をいる 色なき 風のごときもの
(しりょをいる いろなき かぜのごときもの・・・思慮?漢字が読めない)
今という 今が一番 山粧ふ
(いまという いまがいちばん やまよそおう)
落し水 土のにほひの 野に流す
(おとしみず つちのにほいの のにながす)
一枚の 招待状は 花野より
(いちまいの しょうたいじょうは はなのより)
人間を 雀略させて 案山子かな
(にんげんを じゃくりゃくさせて かかしかな)
父が亡くなったのが2月始めで、その前年の秋ごろの句と思われます。
(とは言え、父は母の句をよく添削していましたので、父らしいけれども母らしいという微妙なところを息子は感じ取っています。)
どうにも世話が出来なくなって、父に施設に入ってもらったのが、ちょうどこの頃だったと思います。
その当時の父の句を、なぜか母が、持ち続けていました。
記憶と記録です。
あたしの父母への想いなんざ、誰にもわからなくていいのです。
ただ、あたしの記憶と記録は、残せるものならば残していきたいと思っています。
昭和25年 4月10日発行 の父の遺品の、同人誌。
その中の、父の句。
物象の みな影うすし 秋一日
(ものごとの みなかげうすし あきひとひ)
ゆくは行き 来るはきにけり 除夜の鐘
(ゆくはゆき くるはきにけり じょやのかね)
当時の父 32歳。
今思いますが、あたしはまごうことなく、父の血を受け継いでしまいますた。
じいちゃん・・・老成が早すぎますって!
そして、
その花と その葉の艶と 寒椿
(そのはなと そのはのつやと かんつばき)
・・・
彼は逍遥と、その人生を楽しんだようです。
偶然見つけた紙片。
これが、父の辞世だと思った出来事。
あたしの、記録です。
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