座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆彼らを、君主たちとともに……

2017年07月26日 15時42分45秒 | 聖書
王座に着かせられる。(詩篇一一三・八)
私たちの霊的な特権は最高のものである。「君主たちとともに」とは、選ばれた社会の地位を言う。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」選ばれた社会といっても、これほどすばらしいものはほかにない。私たちは「選ばれた種族、王である祭司」である。私たちが近づいているのは、「天に登録されている長子たちの教会」である。
聖徒たちは宮廷の聴衆である。一般人が遠く離れて立っていなければならない時、「君主たち」は王国の中に入ることを許可される。そのように神の子たちは天の宮廷に自由に出入りすることができる。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」使徒は言った、「ですから、私たちは……大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。
「君主たち」の間には豊かな富がある。しかし、信者の富に比べれば何であろう。「すべてのものはあなたのもの、あなたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからである。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
「君主たち」は特別な権力をもつ。天国の君主は大いなる力をもつ。彼は自分の領土に支配権をふるう。彼はイエスの御座に座る。なぜなら、小羊は「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされ」、私たちはとこしえに支配をするからである。
君主たちはまた、特別な名誉をもつ。私たちは、恵みによって置かれた高い所から、すべてのこの世の権威を見下ろす。神は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これに比べれば、人間の権威は何であろう。私たちはイエスの誉れに共にあずかる。これに比べれば地上の光輝などは考える価値もない。イエスとの交わりは、王冠に輝く高貴な宝石にまさり、主と結合されることは、麗しく輝く宝冠である。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カインのようであってはいけません・・

2017年07月26日 15時41分58秒 | 聖書

なぜ兄弟を殺したのでしょう。
自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです」(Ⅰヨハネ3:12)

カインとアベルがそれぞれ地の作物、羊の初子を持って来た。
アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかった。
神が目を留められなかった事に、カインは激しく怒った。
それは、カインの心の状態に問題があった。

受け入れられなかったという事は、何か自分の側に問題があるわけで、神に伺って、正しく献げ直せば良かった。
もし、神をお喜ばせしたいなら、そうしたはずだ。
しかし、そういう事もなく、激しい憤りに支配を許してしまった。

アベルだけが受け入れられた事への、激しい妬みからだ。
妬みは、誰にでも巣くう根深い罪だ。
そのままにしておいてはならない。
妬みは憎しみへと進み、憎悪を増幅させて行くと殺人へと発展する。

相手がいなければいいと、心の中で相手を抹殺する。
ダビデを妬んだサウル、主を妬んだ祭司長、パリサイ人たちしかりだ。
心の奥の妬みは、主の前に悔い改めよう。主は赦して下さり、解放される。

カインはアベルを殺害した。
憐れみの主は、「弟アベルはどこにいるのか」と御声をかけ、悔い改めの機会を与えられた。
しかし「知りません」と心頑なにし、しらばっくれた。
その罪の結果を聞き、「私のとがは、大きすぎてにないきれない」と言った。

尚も、神の憐れみは尽きる事なく、カインを愛しておられた主は、彼が殺される事のないよう、一つのしるしを下さった。
罪は悲惨だ。主の血潮のもとへ行く時、慈しみとご愛に包まれる。
------------------
妬みの苦い思いが来る時、相手を見ないで、妬む自分の心の内を見てみよう。
そして素直な思いを主に告げよう。次々と襲ってくる罪から守られる。
罪を犯しても赦して下さる主から離れてはいけない。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おはようございます。

2017年07月26日 06時58分52秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の聖人の記念日

2017年07月26日 06時57分52秒 | キリスト教

聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ

 

 ヨアキムとアンナは、聖母マリアの両親と伝えられ、その生涯は、外典「ヤコブ原福音書」(2世紀)に述べられている。それによると、ヨアキムはナザレトで生まれ、アンナと結婚したが、長い間子どもに恵まれず、子どもが授かるように神に祈りをささげていた。アンナは40歳のころにマリアを産み、マリアを女性として申し分なく教育した。ヨアキムとアンナはイエスが誕生したときまで生きていたといわれる。アンナは、ブルターニュの守護の聖人とされている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるアンナの聖画はルーブル美術館に保存されている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆ぜいたくが似合う人

2017年07月26日 06時56分38秒 | 聖書

愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。
奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。(箴言一九10)
愚かな人にぜいたくは似合わないとは、辛らつなことばです。ソロモンは、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言一一22)と言いました。これも、ぜいたくが似合わない姿です。成りあがりの金持ちが、料亭に行って、玄関で札に火をつけて自分の履き物を捜させたという昔の話を聞いたことがあります。これもやはり、ぜいたくが似合わない姿です。
ぜいたくが似合うとは、どういうことでしょうか。何年か前、私は旅の途中にちょっと寄り道をして、鹿田という昔ながらの陶器づくりの村へ行ってみました。そこでは、動力機械で陶土をくだかず、昔どおりに水車で土をくだいて陶土をつくっていました。豊かな水が川から流れ、水車の水受けの古い木箱に注ぎます。そして、水がその箱をいっぱいにしてあふれるようになると、ゴットンと音がしてその箱は傾き、今までためていた水をみな注ぎ出してしまいます。すると、ゴットンときねが動いて土をくだくのです。あふれて、与えつくして、お役に立つ。――これこそ、ぜいたくが似合う姿ではないかと思ったのです。
そういう人は、すべてのよきものはいつも神から来ることを知って、神を見あげ、神に期待しています。あふれるほどの神の恵みを心に受け、物質的にも与えられると、惜しげもなくそれを与えつくし、また、からになって神を見あげます。
愚かな者はそうではありません。自分のものでもないのに、自分のもののようにむさぼり、誇り、ためこみます。豊かな人生は、愚かな者にはふさわしくありません。すべてのよいもののもとである神、すべての主人である神をないがしろにして、自分が主人になって暮らす生き方は、人間としてふさわしい生き方ではないのです。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆あなたがたは、あらゆる努力をして、

2017年07月26日 06時55分56秒 | 聖書
信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(Ⅱペテロ一・五―七)
あなたがもし聖霊の感化と助けにより信仰の全き確信の恵みを得ることを願うならば、聖書に記されているように「あらゆる努力を」せよ。
あなたの信仰が正しいものであるように心せよ。すなわち、単に教理を信じるというのではなく、キリストにより頼み、キリストのみに信頼する信仰でなければならない。勇気をもって励め。神があなたに獅子の容貌を与えてくださり、あなたが正義の自覚をもって、恐れることなく、大胆に前進できるように願い求めよ。聖書をよく学び、知識を得よ。教理に関する知識は、信仰を堅固にするのに非常に役立つ。みことばを理解する努力をせよ。みことばを心の中に豊かに蓄えよ。
そして次に、「知識には自制を」加えよ。自分の肉体に注意をはらい、外側の自制を保て。あなたのたましいに心して、内部の自制を保て。くちびると、生活と、心と、思いとの自制を得よ。
それに、神の御霊により忍耐を加えよ。患難に耐え、鍛えられて金のようになって出てくる忍耐を与えられるように求めよ。苦難に際してつぶやかず、また落胆しないように忍耐をまとえ。忍耐の恵みを得たならば、次に敬虔を求めよ。敬虔は信仰心以上のものである。神の栄光を現すことを、生涯を通しての目的とせよ。神の御前で生活をせよ。神に近く住み、神との交わりを求めよ。そうすればあなたは敬虔を得る。
そしてそれに兄弟愛を加えよ。すべての聖徒を愛せよ。さらに、すべての人に手を広げ、それらのたましいを愛する愛を加えよ。あなたがこのような宝石によって飾られ、これらの天来の徳を実践するならば、その程度に応じて「あなたの受けた召しと選び」を明確な証拠の上に立って知るようになる。
もしあなたが確信を得たいと願うなら、「あらゆる努力」をせよ。なぜなら不熱心と疑いは常に伴ってくるものだからである。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇51篇1-4節

2017年07月26日 06時53分12秒 | 聖書


51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。


ダビデはここで、自分が悪者であると告白しています。

彼は、ウリヤを自分の欲望のために殺害してしまい、それを預言者ナタンから責められて、自分の罪深さを自覚しました。

ですから、「その罪を許してください」と懇願しているのです。

自分では、罪の罪過を消し去ることができない。

「どうぞ、主の哀れみの故にお許しください」というのです。

私たちも同じです。

私たちは皆、多くの罪を毎日犯し、また主の御心をないがしろにしている者です。

主の御心を軽視しがちです。

ところが、御言葉によって私たちの罪が指摘された時、私たちは驚き、惑うのです。

こうした汚れと罪に満ちている私たちの罪の赦しは、主の哀れみに頼る以外にはないのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テトスへの手紙1章3節

2017年07月26日 06時51分11秒 | 聖書


★ 神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです ーこのパウロから、


■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!

新約聖書の中で「時」という時、クロノス、カイノスということばを聞くことが多いと思います。クロノスとは私たちが日常使ういわゆる時間を表します。カイロスとは、神によって定められたある特別な意味を持った時、好機、機会、神の決定的な働きが行われる時をさします。テトス1:14で言われる「ご自分の定められた時」はカイロスです。

私たちは神の定めの中に生きています。全ての領域において、神の定めの「時」があることを覚える必要があります(伝道者の書3:1-11参照)。

私たちはコンビニが24時間開いていて、お湯を注いだり、レンジで温めれば簡単に食事ができ、分からないことがあればスマホで調べたらある程度のことは解決できる、電車もほぼ時間通りに動くそのような便利な時代に生きているので、「待つ」ということがあまりないように感じます。

そのような中で生きていると、待つことは愚かなことのように思うものです。しかし、神の国の文化は全てにおいてこの世とは真逆です。神の国の文化は幼子が神の国にふさわしい者とされ、弱い者が強いとされ、人の目には不足と思えることが満ちあふれる恵みへと変えられます。

神の計画、約束、私たちに与えられた召しが開かれ進むこと、人間関係、経済、健康、あらゆる回復。それら全てにおいても「神の定めの時」があります。私たちは忍耐を持って、その時が必ず来ると信仰と希望を持ち、神の定めの時を待つ必要があります。

最大の「神の定めの時」はイエス様が再び戻って来られる時です。この定めの時、私たちは最愛の花婿なるお方と顔と顔を合わせて向かい合うのです!

その定めの時が来るまで私たち教会は全てを尽くして聖められることを追い求め、完全な者へと造り変えられ続けましょう!

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)

「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:27)

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14)

話しは戻りますが、なぜ私たちは神の定めの時があると分かっていながらも待つことが出来ないのでしょうか?待つことが出来たとしても、その待っている期間の心の状態はどうでしょうか?神に喜ばれる心でしょうか?不平不満を言ったり、「なんでもっと早くしてくれないんですか?!」そのような心はないでしょうか?

理由は人によって様々だと思いますが、大きくは2つだと思います。

1つ目は、心の王座に自分自身が座っていること。
神は神であられます。唯一の神、万物の全てを創造され、治めておられるお方です。他に理由はないです。神は神なるお方で、全ての賛美、栄光、誉れ、力、礼拝を受けるに相応しい唯一のお方です(黙示録4-5章参照)。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

「その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(1テモテ6:15-16)

私たちは口では「イエス様が主です。」と告白していながらも、実際心の王座は自分が治め、好き勝手に行動していることが多々あると思います。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」(イザヤ64:8)

今一度、自分自身の心を聖霊様に探っていただき、点検し、心の王座を主イエス様に明け渡しましょう。

2つ目は、苦しみを避けたい心。
先日、私たちの礼拝のメッセージでも語られましたが、私たちは神に愛される神の子です。

「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ3:17)

肉の親が子を懲らしめるように、天の父も私たち子を懲らしめます(ヘブル12:5-12参照)。その懲らしめの中の1つが忍耐を学ばせることだと思います。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:4)

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:36)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)

忍耐は確かに喜ばしいものではありません。事がささっと進めば楽チンです。しかし、その忍耐を完全に働かせて、主の訓練を乗り越えていくときに私たちは1つ、主の似姿へと変えられていきます。

様々な試練を通る時ブツブツと不平不満を言うのではなく(言いたくなる気持ちは私自身も理解できます)その時むしろ感謝し、その苦しみの時こそ御座の前で祈り、最愛のお方と時間を過ごす時間にしましょう!

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:18)






■A:考えてみよう
・私の時ではなく、神の時に思い、考えを合わせていくことができますように。
・心の王座をイエス様に明け渡し、神を神として、唯一のお方を敬って歩むことができますように。
・神の子とされたことが私たちのアイデンティティーとなり、神の子とされたゆえにあらゆる試練、苦しみを喜ぶことができますように。「造り変えられることが私たちの喜びです!」と告白していきましょう!!!

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月25日(火)のつぶやき

2017年07月26日 01時25分48秒 | キリスト教
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする