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今日の聖人の記念日

2017年07月27日 06時33分50秒 | キリスト教

 聖パンタレオン

?-305年ごろ

 パンタレオンは、ニコメディアのローマ貴族の家に生まれた。父の意思によって医学を学び、またある司祭との出会いからキリスト教について学び、洗礼を受けた。医者となってからは、人々からも慕われ、評判が高まり、時の皇帝の宮廷づき医師となった。そして父の財産を継ぐと、それを貧しい人々や病人、孤児などに与えた。

 ニコメディアでキリスト教の迫害が始まると、彼の名声をねたんでいた医師たちは、彼がキリスト信者であると訴えた。そのため、彼は残酷な拷問を受け、処刑された。パンタレオンは、その名(憐れみに満ちるという意)が示すとおり、医学と愛の行いによって多くの人々を信仰に導いた。医師の守護の聖人とされている。


◆妻をめとらば

2017年07月27日 06時32分37秒 | 聖書

家と財産とは先祖から受け継ぐもの。
思慮深い妻は主からのもの。    (箴言一九14)
日本人に生まれるのも、男や女に生まれるのも、貧乏人や財産家に生まれるのも、頭がよく生まれるのも、ハンサムに生まれるのも、人間にはすべて選択がききません。神のおぼしめしのままです。ところが結婚は、人間にできる大きな選択のチャンスです。ですから、大いに心して結婚相手を選び、結婚がなされなければなりません。
箴言にも、けんかと争いの絶えない妻といっしょに暮らすのは、雨もりの家に住むようだと言っています(一九13)。立っていても座っていても、仕事をしていても眠っていても、その不運から逃れられないのです。また聖書は、そんな妻といっしょに住むより、屋根の片すみに住み、荒野にひとり住むほうがましだとも言っています(箴言二一9、19)。逆にいえば、思慮深い妻を得た者の人生は祝福です。
ところで聖書は、この自由選択できると考えられる妻についても、「思慮深い妻は主からのもの」と語ります。この「主からのもの」ということばは、もとの文では非常に強調されています。人間は、容貌とか、財産・門地・学歴などで配偶者を選んでいるかもしれません。しかし、やはり神が、最もよい適当な配偶者を与えてくださるのです。アブラハムは息子の妻を捜した時、ひたすら神に祈り、財産や門地や容貌ではなく、神の導く人を求めました。そして息子のイサクも、この問題を自分の判断や欲求に任せたのでなく、ひたすら神から待ち望んだのです。配偶者について、そのように神に伺い、神の目にかなった人を神に従ってめとるという態度をとるべきことを知りましょう。
もうおそすぎると言わないでください。ご自分の息子娘たちのために、ほんとうに虚心坦懐に神の前に出て、よりたのむべきではないでしょうか。
 

◆尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。

2017年07月27日 06時31分43秒 | 聖書
(Ⅱペテロ一・四)
もしあなたが実際に神の御約束の尊さを知り、心にそれを楽しみたいと願うならば、神の御約束を熟考せよ。御約束は酒ぶねの中のぶどうのようだ。それを踏めば果汁が流れ出る。聖なるみことばをくり返し熟考することは、しばしばその成就への序曲となる。御約束を思い巡らすうちに、あなたの求める恵みが、知らぬうちにあなたを訪れる。多くのクリスチャンが御約束を探して聖書を熟読しているうちに、御約束を保証する恵みがいつしかたましいの内部に浸透してくるのを経験した。そして彼らは御約束を心の近くに置くように導かれたのを喜んだ。
しかし、御約束を静思するだけでなく、それを神のみことばとしてたましいに受け入れなければならない。そしてたましいにこのように言え。「もし私が人と約束するならば、相手の能力、品性を注意深く考える。神の御約束についても同様である。私は恵みの偉大さに目を見張ってはならない――その結果よろめくかもしれない。むしろ約束した方の偉大さに目を留めなければならない。そうすれば勇気が与えられるであろう。私のたましいよ。おまえに語りかけておられるのは神であり、おまえ自身の神、偽りを言うことのできない神なのだ。おまえが今考えている神のみことばは、神の存在が真実であるように真実なのだ。神は変わることのない方である。一度言われたことを取り消されたことはなく、慰めのみことばのただ一つでも撤回されたことはない。また力において欠けているところはない。おまえにこのように語っておられるのは、天地を造られた神である。神はまた知恵において欠けておられない。恵みを与える時期を誤ることもなさらない。神は恵みを与えるべき時と、保留すべき時とを知っておられる。したがって、御約束が真実不変な全知全能の神のみことばであるのを見る時、私は御約束を信じるのであり、また信じなければならないのだ」と。
私たちがこのように御約束を黙想し、御約束の与え主に思いをいたすならば、その御約束の美しさを経験し、その成就を得るであろう。
 

詩篇51篇5-9節

2017年07月27日 06時30分06秒 | 聖書


51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。


ダビデは、自分が生まれながらの罪人であると語っています。

ですから罪を犯してしまうのであって、自分ではそれを変えることができないというのです。

人は生まれながらにして、罪の奴隷であるからです。

このような自分を、変えてくださる道があるのでしょうか。

ダビデは主に「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。」と、語っています。

つまり、「主が自分の罪を洗い清めてくだされば、主の前に清い者とされます」というのです。

私たちにとってもイエス様による罪の贖い(あがない)と、信じる者に対する救い以外に、清められる道はありません。



テトス2章14節

2017年07月27日 06時27分51秒 | 聖書


★キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。


■O:今日のコラム
私たちの愛する主イエス・キリストは、愛する私たち一人ひとりが神のきよさ・神のみたけにまで達するために、ご自身の命を贖いの代価として捧げられました。その贖いのために十字架に架けられたイエス様を見上げる時、 私は涙が出てきて、感謝の祈りがこみ上げてきます。そしてこの贖いは私のため、イエス様は私の身代わりとなって死んでくださったという告白が出てきます。

しかし、ある時それだけでは十字架の贖いのおもてしか私は理解していないのではないか、と思うようになりました。なぜならガラテヤ2章19~20節には、
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と書かれているからです。

つまりイエスキリストは私のために十字架につけられましたが、私も主とともに十字架につけられたということです。この真理が頭の理解ではなく、心深くにストンと落ちるように理解するようになりました。

当然私はもうこの真理を捕らえた、完全に理解したとは思っていません。事実、まだまだ悟りきれていない、真理に到達することのできていない領域があります。しかしながら、私の中で御言葉と御言葉が一つになっていくとき、私の中にはもっともっと真理が知りたい、もっともっと御言葉が受肉されて御言葉を行う者になりたいという飢え渇きと願いが起きます。

そのように祈り、御言葉を黙想しているとき、「苦しみ」について主が語っているように感じました。私の個人的な見解ですが、苦しみには2つあると考えています。それは罪を犯したがゆえに打ちたたかれて受ける苦しみと、不当に受ける苦しみです。どちらも苦しみですが、前者は受けるべき苦しみつまりは刈り取りであり、後者は受けるべきでない苦しみです(1ペテロ2:19-24参照)。

前者に関しては、言い訳はできないと思います。なぜなら自分という自我のゆえに、受けるべくして受けるものだからです。私たちの神様は誘惑される方ではありません(ヤコブ1:12-15参照)。

しかし私はいつの間にか、自分の苦しみを「不当な苦しみ」として取り扱ってきたところがあったと思わされました。まるで信仰の試練であるかのように、自分がキリストの苦しみを通っているかのように思っていました。本当に私はどれほど愚かで、わきまえのない者かと思いました。だからこそ自分を点検して、悔い改めに入っていくときこそ、罪について義についてさばきについて教えてくださる聖霊様がいなければ、私は真に悔い改めることはできないと激しく思わされます(詩篇51:6、箴言1:20-33、ヨハネ16:7-8参照)。

私たちはキリストと共に共同相続人ですから、キリストにある苦しみ、つまり十字架の道を歩む必要があります(ローマ8:17参照)。イエス様は罪人ではありませんでした。すなわち十字架に架かる必要は全くありません。恵みを受けるに値しない私たちのために、受けるべきでない苦しみを通られました。このことを私は本当に分かっているのか、何回も自問自答しました。聖霊様にあって祈る中で「キリストの道を行かせてください。」、「十字架の道を行きます。」という言葉を決まり文句のように祈っていた私がいることに気づかされました。本当に主の御前に悔い改めるべきは私です。

そのようにわきまえのない私を、父は愛する子として取り扱ってくださり、私の中にある自我・罪・汚れを、懲らしめを通して明らかにして、それらを捨てさせ、主のように生きる者へと造り変え続けてくださっていることを覚えます。この大きな大きな恵みを心から感謝します。私たちは幼子としての子で終わりではなく、成熟した子へと成長するように召されています!(ヘブル12:4-13参照)

テトス2:11~13によれば、「恵み」は、私たちに不敬虔とこの世の欲を捨てること、慎み深く、正しく、敬虔に生活すること、祝福された望み、すなわち顔と顔を合わせて主に出会うその時を待ち望むように、教えさとすものです。つまり悔い改めと祈りと御言葉に励み、地の塩・世の光として歩み、再臨の希望を持って進むことです。

そのように歩むために、私たちを主のきよさへと至らせる神の力である恵みを受け取っていこうではありませんか。そして主と共に十字架につけられ、葬られ、復活の恵みにあずかっている者として、キリストの苦しみをも通る者として歩んでいこうではありませんか。



■A:考えてみよう
レビ記19章2節には、「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」と書かれています。私たちは自分の努力によっては神様のきよさに到達することは不可能です。ですから主の聖さにあずかるためには、主の前に出るしかありません。なぜなら主の聖さは主から来るからです。

今日も主の前に出て、主の愛をまず初めに受け取りましょう。そして聖霊様を歓迎し、御言葉によって自分自身の心を探っていただきましょう。もし示されることがあるならば、それを悔い改めましょう。そして赦し変わらず愛してくださる主に感謝を捧げましょう!

また導かれるならば、私たちが受けるべき苦しみと同時に、「イエス様のように、受けるべきでない苦しみという十字架の道を歩まさせてください」と祈り、その決心を主に捧げましょう。




■P:祈り
愛する父なる神様、イエス様、聖霊様、あなたの御名をほめたたえます。今日も生かされていることを心から感謝します。

主よ、私は自分の自我が招いた苦しみを、あたかも信仰の試練として、またキリストの苦しみを通っているかのように考え、生きていたことを認めます。自分の苦しみをそれ以上の何かりっぱな苦しみを通っているかのように考え、生きていたことを認めます。そして主よ、それらを悔い改めます。今日方向転換させてください。あなたが私の主であり、神であり、王であり、救い主であることを宣言します。私の心の王座を主が治めてください。

そしてイエス様、あなたがこの地上で受けるべきでない苦しみを通り、十字架に架かられたことをより深く理解させてくださって、その道を歩む決心と行いをすることができるように、聖霊様助け導いてください。私が苦しみを避けることなく、それから逃げることがありませんように、弱い私を助けてください。

これからは苦しみを誇張することをせず、イエス様、あなたが残されたその足跡に従って主と共に歩むことを決心しますから、どうぞそのように一歩一歩進めるように私に力を与えて導いてください。あなたに留まり続けることができますように。

今日という日に御声を聞き、主のために実を結ばさせてください。私はあなたに愛され、あなたを愛する者です。あなたのために生きます。

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月26日(水)のつぶやき

2017年07月27日 01時24分38秒 | キリスト教

◆彼らを、君主たちとともに……

2017年07月26日 15時42分45秒 | 聖書
王座に着かせられる。(詩篇一一三・八)
私たちの霊的な特権は最高のものである。「君主たちとともに」とは、選ばれた社会の地位を言う。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」選ばれた社会といっても、これほどすばらしいものはほかにない。私たちは「選ばれた種族、王である祭司」である。私たちが近づいているのは、「天に登録されている長子たちの教会」である。
聖徒たちは宮廷の聴衆である。一般人が遠く離れて立っていなければならない時、「君主たち」は王国の中に入ることを許可される。そのように神の子たちは天の宮廷に自由に出入りすることができる。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」使徒は言った、「ですから、私たちは……大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。
「君主たち」の間には豊かな富がある。しかし、信者の富に比べれば何であろう。「すべてのものはあなたのもの、あなたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからである。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
「君主たち」は特別な権力をもつ。天国の君主は大いなる力をもつ。彼は自分の領土に支配権をふるう。彼はイエスの御座に座る。なぜなら、小羊は「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされ」、私たちはとこしえに支配をするからである。
君主たちはまた、特別な名誉をもつ。私たちは、恵みによって置かれた高い所から、すべてのこの世の権威を見下ろす。神は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これに比べれば、人間の権威は何であろう。私たちはイエスの誉れに共にあずかる。これに比べれば地上の光輝などは考える価値もない。イエスとの交わりは、王冠に輝く高貴な宝石にまさり、主と結合されることは、麗しく輝く宝冠である。
 

「カインのようであってはいけません・・

2017年07月26日 15時41分58秒 | 聖書

なぜ兄弟を殺したのでしょう。
自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです」(Ⅰヨハネ3:12)

カインとアベルがそれぞれ地の作物、羊の初子を持って来た。
アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかった。
神が目を留められなかった事に、カインは激しく怒った。
それは、カインの心の状態に問題があった。

受け入れられなかったという事は、何か自分の側に問題があるわけで、神に伺って、正しく献げ直せば良かった。
もし、神をお喜ばせしたいなら、そうしたはずだ。
しかし、そういう事もなく、激しい憤りに支配を許してしまった。

アベルだけが受け入れられた事への、激しい妬みからだ。
妬みは、誰にでも巣くう根深い罪だ。
そのままにしておいてはならない。
妬みは憎しみへと進み、憎悪を増幅させて行くと殺人へと発展する。

相手がいなければいいと、心の中で相手を抹殺する。
ダビデを妬んだサウル、主を妬んだ祭司長、パリサイ人たちしかりだ。
心の奥の妬みは、主の前に悔い改めよう。主は赦して下さり、解放される。

カインはアベルを殺害した。
憐れみの主は、「弟アベルはどこにいるのか」と御声をかけ、悔い改めの機会を与えられた。
しかし「知りません」と心頑なにし、しらばっくれた。
その罪の結果を聞き、「私のとがは、大きすぎてにないきれない」と言った。

尚も、神の憐れみは尽きる事なく、カインを愛しておられた主は、彼が殺される事のないよう、一つのしるしを下さった。
罪は悲惨だ。主の血潮のもとへ行く時、慈しみとご愛に包まれる。
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妬みの苦い思いが来る時、相手を見ないで、妬む自分の心の内を見てみよう。
そして素直な思いを主に告げよう。次々と襲ってくる罪から守られる。
罪を犯しても赦して下さる主から離れてはいけない。



今日の聖人の記念日

2017年07月26日 06時57分52秒 | キリスト教

聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ

 

 ヨアキムとアンナは、聖母マリアの両親と伝えられ、その生涯は、外典「ヤコブ原福音書」(2世紀)に述べられている。それによると、ヨアキムはナザレトで生まれ、アンナと結婚したが、長い間子どもに恵まれず、子どもが授かるように神に祈りをささげていた。アンナは40歳のころにマリアを産み、マリアを女性として申し分なく教育した。ヨアキムとアンナはイエスが誕生したときまで生きていたといわれる。アンナは、ブルターニュの守護の聖人とされている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるアンナの聖画はルーブル美術館に保存されている。


◆ぜいたくが似合う人

2017年07月26日 06時56分38秒 | 聖書

愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。
奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。(箴言一九10)
愚かな人にぜいたくは似合わないとは、辛らつなことばです。ソロモンは、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言一一22)と言いました。これも、ぜいたくが似合わない姿です。成りあがりの金持ちが、料亭に行って、玄関で札に火をつけて自分の履き物を捜させたという昔の話を聞いたことがあります。これもやはり、ぜいたくが似合わない姿です。
ぜいたくが似合うとは、どういうことでしょうか。何年か前、私は旅の途中にちょっと寄り道をして、鹿田という昔ながらの陶器づくりの村へ行ってみました。そこでは、動力機械で陶土をくだかず、昔どおりに水車で土をくだいて陶土をつくっていました。豊かな水が川から流れ、水車の水受けの古い木箱に注ぎます。そして、水がその箱をいっぱいにしてあふれるようになると、ゴットンと音がしてその箱は傾き、今までためていた水をみな注ぎ出してしまいます。すると、ゴットンときねが動いて土をくだくのです。あふれて、与えつくして、お役に立つ。――これこそ、ぜいたくが似合う姿ではないかと思ったのです。
そういう人は、すべてのよきものはいつも神から来ることを知って、神を見あげ、神に期待しています。あふれるほどの神の恵みを心に受け、物質的にも与えられると、惜しげもなくそれを与えつくし、また、からになって神を見あげます。
愚かな者はそうではありません。自分のものでもないのに、自分のもののようにむさぼり、誇り、ためこみます。豊かな人生は、愚かな者にはふさわしくありません。すべてのよいもののもとである神、すべての主人である神をないがしろにして、自分が主人になって暮らす生き方は、人間としてふさわしい生き方ではないのです。
 

◆あなたがたは、あらゆる努力をして、

2017年07月26日 06時55分56秒 | 聖書
信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(Ⅱペテロ一・五―七)
あなたがもし聖霊の感化と助けにより信仰の全き確信の恵みを得ることを願うならば、聖書に記されているように「あらゆる努力を」せよ。
あなたの信仰が正しいものであるように心せよ。すなわち、単に教理を信じるというのではなく、キリストにより頼み、キリストのみに信頼する信仰でなければならない。勇気をもって励め。神があなたに獅子の容貌を与えてくださり、あなたが正義の自覚をもって、恐れることなく、大胆に前進できるように願い求めよ。聖書をよく学び、知識を得よ。教理に関する知識は、信仰を堅固にするのに非常に役立つ。みことばを理解する努力をせよ。みことばを心の中に豊かに蓄えよ。
そして次に、「知識には自制を」加えよ。自分の肉体に注意をはらい、外側の自制を保て。あなたのたましいに心して、内部の自制を保て。くちびると、生活と、心と、思いとの自制を得よ。
それに、神の御霊により忍耐を加えよ。患難に耐え、鍛えられて金のようになって出てくる忍耐を与えられるように求めよ。苦難に際してつぶやかず、また落胆しないように忍耐をまとえ。忍耐の恵みを得たならば、次に敬虔を求めよ。敬虔は信仰心以上のものである。神の栄光を現すことを、生涯を通しての目的とせよ。神の御前で生活をせよ。神に近く住み、神との交わりを求めよ。そうすればあなたは敬虔を得る。
そしてそれに兄弟愛を加えよ。すべての聖徒を愛せよ。さらに、すべての人に手を広げ、それらのたましいを愛する愛を加えよ。あなたがこのような宝石によって飾られ、これらの天来の徳を実践するならば、その程度に応じて「あなたの受けた召しと選び」を明確な証拠の上に立って知るようになる。
もしあなたが確信を得たいと願うなら、「あらゆる努力」をせよ。なぜなら不熱心と疑いは常に伴ってくるものだからである。
 

詩篇51篇1-4節

2017年07月26日 06時53分12秒 | 聖書


51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。


ダビデはここで、自分が悪者であると告白しています。

彼は、ウリヤを自分の欲望のために殺害してしまい、それを預言者ナタンから責められて、自分の罪深さを自覚しました。

ですから、「その罪を許してください」と懇願しているのです。

自分では、罪の罪過を消し去ることができない。

「どうぞ、主の哀れみの故にお許しください」というのです。

私たちも同じです。

私たちは皆、多くの罪を毎日犯し、また主の御心をないがしろにしている者です。

主の御心を軽視しがちです。

ところが、御言葉によって私たちの罪が指摘された時、私たちは驚き、惑うのです。

こうした汚れと罪に満ちている私たちの罪の赦しは、主の哀れみに頼る以外にはないのです。



テトスへの手紙1章3節

2017年07月26日 06時51分11秒 | 聖書


★ 神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです ーこのパウロから、


■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!

新約聖書の中で「時」という時、クロノス、カイノスということばを聞くことが多いと思います。クロノスとは私たちが日常使ういわゆる時間を表します。カイロスとは、神によって定められたある特別な意味を持った時、好機、機会、神の決定的な働きが行われる時をさします。テトス1:14で言われる「ご自分の定められた時」はカイロスです。

私たちは神の定めの中に生きています。全ての領域において、神の定めの「時」があることを覚える必要があります(伝道者の書3:1-11参照)。

私たちはコンビニが24時間開いていて、お湯を注いだり、レンジで温めれば簡単に食事ができ、分からないことがあればスマホで調べたらある程度のことは解決できる、電車もほぼ時間通りに動くそのような便利な時代に生きているので、「待つ」ということがあまりないように感じます。

そのような中で生きていると、待つことは愚かなことのように思うものです。しかし、神の国の文化は全てにおいてこの世とは真逆です。神の国の文化は幼子が神の国にふさわしい者とされ、弱い者が強いとされ、人の目には不足と思えることが満ちあふれる恵みへと変えられます。

神の計画、約束、私たちに与えられた召しが開かれ進むこと、人間関係、経済、健康、あらゆる回復。それら全てにおいても「神の定めの時」があります。私たちは忍耐を持って、その時が必ず来ると信仰と希望を持ち、神の定めの時を待つ必要があります。

最大の「神の定めの時」はイエス様が再び戻って来られる時です。この定めの時、私たちは最愛の花婿なるお方と顔と顔を合わせて向かい合うのです!

その定めの時が来るまで私たち教会は全てを尽くして聖められることを追い求め、完全な者へと造り変えられ続けましょう!

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)

「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:27)

「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:14)

話しは戻りますが、なぜ私たちは神の定めの時があると分かっていながらも待つことが出来ないのでしょうか?待つことが出来たとしても、その待っている期間の心の状態はどうでしょうか?神に喜ばれる心でしょうか?不平不満を言ったり、「なんでもっと早くしてくれないんですか?!」そのような心はないでしょうか?

理由は人によって様々だと思いますが、大きくは2つだと思います。

1つ目は、心の王座に自分自身が座っていること。
神は神であられます。唯一の神、万物の全てを創造され、治めておられるお方です。他に理由はないです。神は神なるお方で、全ての賛美、栄光、誉れ、力、礼拝を受けるに相応しい唯一のお方です(黙示録4-5章参照)。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)

「その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(1テモテ6:15-16)

私たちは口では「イエス様が主です。」と告白していながらも、実際心の王座は自分が治め、好き勝手に行動していることが多々あると思います。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」(イザヤ64:8)

今一度、自分自身の心を聖霊様に探っていただき、点検し、心の王座を主イエス様に明け渡しましょう。

2つ目は、苦しみを避けたい心。
先日、私たちの礼拝のメッセージでも語られましたが、私たちは神に愛される神の子です。

「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ3:17)

肉の親が子を懲らしめるように、天の父も私たち子を懲らしめます(ヘブル12:5-12参照)。その懲らしめの中の1つが忍耐を学ばせることだと思います。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:4)

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:36)

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)

忍耐は確かに喜ばしいものではありません。事がささっと進めば楽チンです。しかし、その忍耐を完全に働かせて、主の訓練を乗り越えていくときに私たちは1つ、主の似姿へと変えられていきます。

様々な試練を通る時ブツブツと不平不満を言うのではなく(言いたくなる気持ちは私自身も理解できます)その時むしろ感謝し、その苦しみの時こそ御座の前で祈り、最愛のお方と時間を過ごす時間にしましょう!

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:18)






■A:考えてみよう
・私の時ではなく、神の時に思い、考えを合わせていくことができますように。
・心の王座をイエス様に明け渡し、神を神として、唯一のお方を敬って歩むことができますように。
・神の子とされたことが私たちのアイデンティティーとなり、神の子とされたゆえにあらゆる試練、苦しみを喜ぶことができますように。「造り変えられることが私たちの喜びです!」と告白していきましょう!!!

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。