座間コミニティー

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◆あなたの善なる霊……。

2014年02月16日 17時53分24秒 | 聖書

(ネヘミヤ九・二〇英訳)

聖霊を忘れる罪は非常によく見られる。これは愚かであり忘恩の行為である。聖霊は、十分に私たちの賞賛に値する方である。なぜなら、聖霊はこの上なく善なる方であられるからである。
神として聖霊は本質的に善であられる。聖霊は純潔であり、まことであり、恵みそのものであられる。
聖霊はいつくしみ深い善であられる。聖霊は優しく私たちの道草を忍び、私たちの反抗する意志と戦い、罪に死んだ私たちを生かし、愛に富んだ乳母が子どもを育てるように、天国に備えて訓練される。この忍耐強い神の御霊は、なんと寛大であり、優しいことか。
聖霊は働きにおいて善であられる。聖霊は良い思いを暗示し、良い行動を促し、良い真理を啓示し、良い約束を適用し、良い才能を助長し、そして良い実を結ばせてくださる。霊的な善のうち、聖霊が作り保持されないものは一つもない。そして、天国に住む贖われた人々の完全な人格も、そのみわざの結果である。
聖霊はその務めにおいて善であられる。聖霊は助け主、導き手、案内人、聖め主、生かす方、とりなし手であり、どの職責も十分に果たしておられる。そのみわざの一つ一つは、神の教会にとって最高の善の芳香を放つ。聖霊の感化力に自らをゆだねる者は良い者となり、聖霊の励ましに従う者は良い事をなし、聖霊の力の下に生きる者は良いものを受ける。
このような善なるお方に感謝をもって仕えよう。聖霊のご人格を敬い、万物の上にいます神として、永遠にほむべきお方として聖霊をあがめよう。聖霊の力を認め、すべての聖い計画において聖霊にお仕えし、それによって、私たちが聖霊を必要とすることを告白しよう。不断に聖霊の助けを求め、決してその御心を痛めることのないようにしよう。そしてことごとく聖霊を賛美しよう。聖霊を信じない、また敬わない教会は、決して栄えることはない。聖霊はこの上なく善であり親切であられるゆえに、聖霊を軽んじたり無視したりすることによって、その御心を痛めるのは、実に悲しむべきことである。

 

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第1サムエル記3章10-14節

2014年02月16日 08時49分09秒 | 聖書

3:13 「わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。」


 サムエルは主から再び声があった時に、エリに言われたとおりに、「お話しください。しもべは聞いております。」と答えました。

すると主は彼に向かって、主がエリの家族になそうとしておられることを告げました。

それはエリの息子達を滅ぼし、エリの家を立つことが出来ないようにするということでした。

 エリにとってはつらいことでした。

それは、自分だけに語られていたのでありましたら、まだ辛抱が出来ます。

しかし、サムエルにもそのことが告げられました。

それはまた、サムエルにとっても、つらいことでした。

 なぜ主は、サムエルにもこのことを告げたのでしょう。

それは、エリの家族が裁かれるのは、家族の者が神様を侮るようなことをしたのに、彼がやめさせなかったからでした。

そして、そのことを、サムエルにも注意させるためであったのです。


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◆い の ち の 泉

2014年02月16日 08時46分58秒 | 聖書

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。      (箴言四23)

心こそあなたのいのちの泉です。力のかぎり見張って見守らなければならないのに、案外私たちは、不健康な心・病む心を放ったらかしにしているのではないでしょうか。
身体が健康なら何を食べてもうまいのです。水をぐーっと飲んでもそうです。ところが不健康な時は、水まで胸につかえます。肉体が健康なら、寝てさわやか、起きてさっぱり、歩いても軽やか、走ってもOKです。
健康な心は一日を迎えて喜びがあり、一日を終えて満足があります。仕事に取りかかれば張りがあり、これから人と会うという時にも、喜びや希望や期待があります。あなたはどうですか。あなたの心は健康でしょうか。あるいは、病み、うんでいますか。痛んだり傷ついたりしているでしょうか。
病んでいる心は、ラッキョウのようです。むいてもむいても皮ばかりで、愛が出てきません。与える心・仕える心はなく、いくらむいてもエゴばかりです。
健康な心とは、その真ん中に神が住んでいて、愛の泉がわきあふれています。それは、あなたの頭のてっぺんから足の裏までを知って、なおあなたに愛想を尽かさず、あなたを愛してくださる神を知った心、神のために生きようと決心した心です。
力のかぎり見張って、あなたの心を見守りなさい。いのちの泉はあなたの心からわくのです。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)と、イエス・キリストは言われました。

 

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◆私は、

2014年02月16日 08時46分09秒 | 聖書

どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。(ピリピ四・一一)

このことばによって、満ち足りるということが決して生来の性質ではないことがわかる。むさぼり、不平、つぶやきなどは、地にいばらがあるように、人間が生まれながらにもっているものである。私たちはあざみやいばらの種を蒔く必要はない。それは土壌にもともとあるのだから、自然に生え出す。同じように、人間は不平を言うことを教えられなくても、一人前に不平を言う。しかし地から生じる価値あるものは、手をかけて育てなければならない。麦を得ようとするならば、地を耕して種を蒔き、花がほしければ、花園を造って世話をしなければならない。
さて、満ち足りることを知るのが天国の花の一つである。そしてもし私たちがそれを得ようとするなら、育てなければならない。それは、私たちのうちに自然に生えることはない。生まれ変わった新しい心の畑にのみそれは生えるのであって、神が蒔かれた恵みを受け、それを育てるためには特別な注意が必要である。
パウロが言っているのは、彼が以前にそれを知らなかったことを意味している。その大真理の奥義に達するまでには相当の苦しみを経験しなければならなかった。たしかに、彼はある時はそれを知ったと思っても、また失敗したことであろう。そしてついにその奥義に達し、このように言い得るようになった時、すでに白髪の老人となって墓場のかたわらに立っており、ローマにあるネロの牢獄につながれた囚人となっていた。私たちも、パウロの信仰の程度まで達することができるなら、喜んでパウロの持病をもち、彼とともに寒い牢獄で暮らすであろう。
学ぶことなくして満ち足りることを知り得ると思ったり、訓練なしに学び得るというような安易な考えをもったりしてはならない。それは、生来の力ではなく、訓練によって少しずつ得られる技術である。私たちは経験によってそのことを知る。
兄弟よ。つぶやくのは無理もないが、つぶやきをやめて満ち足りることを学ぶ大学の勤勉な学生であれ。

 

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マタイによる福音書21章13節(ヨブ記23章)

2014年02月16日 08時44分39秒 | 聖書

★ 「そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
 
■O:今日のコラム

同21章においてイエス様はいちじくの木を呪いました。いちじくは実が葉と同時に生じる性質があるそうです。しかしそのいちじくは葉があるのに実がなっていなかったのです。

主は収穫を期待しておられる農夫です。良い実が実ることをとても喜んでくださる方。

だからよく繁った葉っぱのような主の宮を見て、良い実もなっていると期待したことでしょう。その良い実とは、祈りの家となっていることです。

イエス様は空腹を覚えていちじくを求められたのと同じように、主の宮が祈りの家となっていることを切望していたのです。

■A:考えてみよう

あらゆる時にイエス様との親密さを求めよう。

■P:祈り

イエス様、あなたの心が、あなたの願いが、この地になりますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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