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申命記33章6節

2013年05月26日 10時43分15秒 | 聖書

33:6 「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」


 ルベンというのは、イスラエルの民の内で長子でありました。

彼等はガドとマナセの半部族と一緒に、ヨルダン川の東の土地に住むことを求めました。

土地が、羊を飼うのに適していたからです。

しかし彼等は、カナンの地を攻略する時には、民と一緒になって戦うということが求められました。

彼等はその通りに戦いました。

 ルベンは、生きて死なないようにと言われています。

つまり、消滅しないようにというのです。

またそれが、人数が少なくなったとしても、生き残るようにと願われています。

実際の所、彼等の人数は少なくなって、後にガドの部族と一緒になってしまったようです。

しかし、その部族自体が消滅してしまうというようなことにはなりませんでした。

彼等に対してのモーセの祈りは、彼等が所有の地を、約束の地であるカナンの地以外の所に取ったということにかかわりがあるようです。

それが、消滅にならないようにという祈りとなっていったのです。

 モ-セの優しい心使いが語られているのです。


◆まっすぐに見えても

2013年05月26日 10時37分20秒 | 聖書

人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。   (箴言一四12)

まっすぐに見える道をまっすぐに行き死んでしまう。――こんなことがあるでしょうか。あるのです。数年前、ハイキング中の小学校五年生の子どもたちが標識を見落とし、曲がるべき所を曲がらず、まっすぐ行ってしまいました。先頭の子が一六五メートルの崖下に転落して、即死でした。何と気の毒なことでしょう。親や先生の苦しみは、想像に余ります。
ここをまっすぐ行けばいいんだ。みんなも行っているじゃないか。――そう考えていると、思わぬ死の穴が待っています。多くの大人は、金もうけに熱心です。事業・仕事・働きには一生懸命です。そうして、このようにまっしぐらに生きていればOK、とにかくこの道こそ、一直線にまっすぐ幸せにつながっていると考えています。そして、何のために生きるのか、人間はどこから来て、どこへ行くのかについては考えようとしません。人生のほんとうの目的・いのち・死などということに、あまり心を用いません。みんなが歩いていく広い道だからといって、また、それがまっすぐに見えるからといって、そこが安全ではないのです。
人生の道を歩く時は、道標に従って歩くべきです。そして、ほんとうに道を知っている人に聞くべきではないでしょうか。人生のほんとうのリーダーは、だれでしょうか。この人がいいだろうか。あの人についていけばとうろうろしているうちに、結局だれからも放り出されて独りぼっちになった話もよく聞きます。
だれが何と言おうとも、神に聞き従う生活には確かさがあります。どんなに弱く知識がない幼児でも、親といっしょにいて親に従って歩めば安全です。私たちを生んでくださった造り主である神は、ひとり子イエス・キリストをお与えになったほど、私たちを愛していてくださいます。この神に聞き従うことこそ、いのちの道なのです。

 


◆あなたの重荷を主にゆだねよ。

2013年05月26日 10時35分26秒 | 聖書

主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇五五・二二)

思い煩いや心配は、たとえ正当な理由があっても、度を過ごすと罪の性質をもつようになる。心配するなとの教えは、救い主が再三再四くり返し熱心に説かれたものであり、使徒たちによってもくり返された。この教えを無視する者は必ず過ちに陥る。なぜなら思い煩いの本質は、私たちが自分を神よりも賢いと思い、自分自身を神の位置に置いて、神が私たちにしようとされることを、自分のほうから神のためにしようとすることだからである。私たちのことを神がお忘れになることがあると想像して、神の代わりに考えようとし、あるいは、神が私たちの重荷を負うことができないとか、それを欲しておられないとか考えて、自分の重荷を自分で負おうとして苦しむのである。主の明らかな教えに対するこのような不従順、主の領分に割り込もうとする高慢はすべて罪である。
それだけでなく、思い煩いはしばしば罪の行為に発展する。素直にすべてを神の御手にゆだねられず、自分で重荷を負おうとする者は、自分の労を軽くするために悪い手段を取るように誘惑されがちである。この罪の結果、神を相談相手とすることに見切りをつけて、代わりに人間の知恵を求めるようになる。これは「泉」に行かず、「こわれた水ため」に行くことであり、昔のイスラエル人の陥った罪に陥ることである。
思い煩いは神のいつくしみを疑わせ、その結果、神に対する私たちの愛は冷却する。私たちは神に不信を抱くようになり、聖霊を悲しませ、祈りは妨げられる。一貫した行動がとれなくなり、生活は自己中心になる。
このように神に対する信頼の欠如は、私たちを神から離れさせ放浪させる。しかし、もし私たちが神の御約束を単純に信じてすべての重荷を御手にゆだね、神が私たちを顧みてくださるので、「何も思い煩わない」ならば、私たちは神の近くを歩むことができ、また多くの誘惑に対する力を与えられる。
「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」