座間コミニティー

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申命記32章19-25節

2013年05月19日 12時57分10秒 | 聖書

32:21 「彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。」


 民が、主の御心を覚えないで偶像に犠牲を捧げ、それによって主のねたみを起こさせたと語っています。

ねたみという、人間的な感情表現を用いて語っていますが、それは神様の強い思いを表しています。

偶像などは存在しないのに、それを神として崇めて犠牲を捧げることは、全く愚かなことであると言われるのです。

せっかく、主がこの民を多くの民の中から選んで、真の神を知らせ、またその民とご自分の民としてくださったのに、その恵みを無視して、神でもないものの所に行くことは、誠に悲しみであり、また怒りであることを語って、このように言っておられるのです。

 彼らは、主の怒りによって滅ぼされると告げられています。

それは、彼等をご自分の民としてくださった主に逆らう者となってしまったからです。

誠に大きな、憂うべきことであるのです。


◆行動の基準

2013年05月19日 12時52分02秒 | 聖書

すべて利口な者は知識によって行動し、
愚かな者は自分の愚かさを言い広める。(箴言一三16)

格好よく生きることが、今はモットーになっているようです。みんな格好よく生きたいのです。しかし、私たちの格好よさが、神の前にどんなにばかげた愚かなものに見えることもありはしないかと、私は思うのです。
「裸の王さま」という寓話をご存じですか。人の甘言にのせられて、自分ではにしきの衣をまとっていると思いこんだ王さまが、のっしのっしと裸で歩きまわって、笑いものとなります。この王さまは、自分で自分の愚かさを言い広めたのでした。
格好いい生き方とは、ある人には、気のきいた服装をしてスタイルよく歩くことかもしれません。ある人には、金まわりがよくて欲しいものは何でも手に入るような、カーあり別荘ありゴルフありの生き方かもしれません。ある人には、肉の願望を思うままわがままに満足させて自由奔放に生きる生き方でしょう。ある人には、成功し、名声・名誉があり、人にほめられる人生でしょう。
しかし、そんな格好いい人生が、神の目の前に永遠を前にして、どんなにしばしば、空虚な裸のみじめさを現し、実体のない絶望に終わる人生であるかが分かっている人も多いと思います。
充実した、ほんとうに満足のある生き方は、神を知る知識を基準として行動し生きる人生です。イエス・キリストは、うつろな心をほんもので満たしてくださいます。イエス・キリストは、寂しい心を慰めであふれさせてくださいます。うつろさも寂しさも、実は神から離れ背いている罪から来ます。しかし、イエス・キリストは、この罪を完全に取り除いてくださるのです。

 


◆私は奴隷たちが馬に乗り、

2013年05月19日 12時49分36秒 | 聖書

君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。(伝道者一〇・七)

ずる賢い者が、しばしば高い地位に上り、真に偉大な者がかえって目立たないことがある。これは摂理によるなぞである。このなぞがいつか解かれれば、正しい者の心を喜ばせるであろう。しかし、このようななぞは日常茶飯事である。たとえそのようなことになっても、私たちはだれもつぶやいてはならない。地上におられた時に、主は地上の王たちの君であられたにもかかわらず、しもべたちの召使いとして労苦と奉仕の道を歩まれた。それならば、主に従う者である私たちが、いやしい、いとうべき者としてさげすまれたといって、驚くことがあろうか。
世の中は逆であり、先の者が後になり、後の者が先になっている。見よ。悪魔の奴隷の子がこの世でどれほど幅をきかせているかを。ハマンが宮廷に仕えている時、モルデカイは門前にうずくまっている。サウルが一国の王として支配する時、ダビデは山中をさまよっている。イゼベルが宮殿で大言壮語している時、エリヤはほら穴でつぶやいている。高慢な反逆者のようになりたいと願う者はあるまい。また、さげすまれた聖徒たちをうらやまない者はないだろう。
車輪が一転すれば上下は逆転する。だから、信者よ。忍耐せよ。永遠が一時の不都合を調整するのである。
私たちはまた、私たちの情熱や肉欲が得意になって馬に乗り、私たちの気高い能力がちりにまみれて歩いているというような過ちに陥らないようにしよう。恵みが君として支配し、肢体は義の武器とならねばならない。聖霊は整然とした秩序を愛される。それゆえ、聖霊は私たちの力と才能を本来の位置に置き、私たちを王なるキリストに結びつけるこれらの霊的機能に最高位を与えてくださる。神のご配慮を妨げず、むしろ肉体を服従させる恵みを求めようではないか。私たちが新しく造られたのは欲情の奴隷となるためではなく、私たちが王として、キリスト・イエスにあって、霊とたましいとからだの三重の王国を治め、父なる神の栄光を現すためである。