座間コミニティー

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申命記1章1-4節

2012年11月23日 15時13分29秒 | 聖書

1:3 第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。


今日から申命記が始まります。

この申命記は、旧約聖書で5書と言われる律法の書の、最後のものになります。

律法の書ですから、神様の戒めを扱っているわけです。

神様がモ-セを通して、イスラエルの民がカナンの地に入って生活をする時に、どのように神様の御心に従って歩んだら良いのかを教えています。

 主は御心を、モ-セを通して民に与えてくださいました。

それを読みまた学び、従うことによって、主に喜ばれる民としての歩みが導かれる、と語っているのです。

律法というのは、法律のことです。

ですから、時に、面倒に思えることがあります。

しかし、ここではあえて翻訳者が、それを法律と呼ばないで、律法と呼んでいるのは、それが、人が作った戒めではなく、神様が人に与えてくださった戒めであるということによっています。

神様を愛する者は、神の求められることを知りたいと思います。

その御心に、喜んでお従いしたいと思うからです。


民数記36章10-13節

2012年11月23日 15時05分44秒 | 聖書

36:12 彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族にとついだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。


相続地の問題をモ-セの所に持ってきたのは、マナセの部族に属す人でした。

彼はモ-セから聞いたことを、嫁ぐ予定の女性に告げました。

するとその女性は、マナセの部族から出ているいくつかの氏族の内の1つの氏族の人と、結婚をする道を選びました。

その結果、土地はマナセ族に属する土地として守られることになりました。

女性達は、ツェロハデの娘達であると言われています。

その女性達は5名もおりました。

ですから、彼女たち全員が他の部族と結婚をして、土地が他の部族に移ったらとんでもないことになっていたのです。

 彼女たちはどう決断したのでしょう。

主がモ-セに語られたことを聞いて、その言葉に従ったと言われています。

つまり、自分たちの部族に属する氏族の子孫の中の人と結婚をしたのは、主が何と語られたのかを知ったからであると言っているのです。

彼女たちの判断の基いは、このことに関わる、主の御言葉にあったのです。


◆あせる人・忠実な人

2012年11月23日 14時48分37秒 | 聖書

忠実な人は多くの祝福を得る。
しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。(箴言二八20)

「あせる」気持ちは、よく分かります。思いがけない情況の中に投げこまれる時、私たちは、どうしてもあせります。そんな一時的なことではなく、人生の生き方そのものがあせっている人がいます。金もうけがしたくて、えらくなりたくて、人からほめられたくてあせります。自分の欲求をしゃにむに満足させようとして、あせるのです。
「あわてるこじきは、もらいが少ない」といいますが、聖書は、「富を得ようとあせる者は罰を免れない」と言うのです。なぜでしょうか。
第一に、自分の欲望の満足のためにあせる人は、分別を失って不正を働く危険がいつもつきまといます。第二に、ギャンブルの精神というか投機心が働き、必要なプロセスを無視してしまいます。実力以上のことに手を出して失敗します。
それに対し、「忠実な人は多くの祝福を得る」と言います。その「多くの祝福」を数えてみましょう。いつも、自分自身が平安な気持ちでやっていけます。信頼され、人の役に立ちます。聖書によれば、神のおほめのことばと報いは、「忠実な人」に与えられるのです。
いったい「忠実な人」とはどんな人を指し、忠実さとはどんなことでしょうか。
第一に、忠実を尽くして仕えるべきお方、神を見いだしています。自我が主人ではありません。第二に、与えられた使命を知り、小さなことでも大きなことでも、それを果たすことです。十円では大した物は買えませんが、電話をかけるには十円玉でなければなりません。自分の持っているものは、大きくても小さくても、みな神から与えられ、神から預かったものと認め、それを神の喜びたもうように守り用いる。――それが忠実ではないでしょうか。

 


◆神と交わりがある……。

2012年11月23日 14時46分01秒 | 聖書

(Ⅰヨハネ一・六)

信仰によってキリストに結び合わされた時、私たちはキリストとの完全な交わりに入る。その時、主と私たちの関心事が共通となる。
私たちはキリストの愛において主と交わる。キリストが愛される者を、私たちもまた愛する。主は聖徒を愛し、罪人を愛し、また滅びようとするあわれな人類を愛して、この地上の荒野が主の花園に変わることを求められる。私たちもそうである。
さらに、私たちはキリストの願いにおいて主と交わる。主は神の栄光を望んでおられる。私たちもまたそのために労する。主は、聖徒たちが主のおられるところでご自身と共におることをお望みになる。私たちもまた、そこで主と共におることを願う。主は罪の駆逐を望まれる。主は御父の御名がすべての被造物によって愛され、あがめられることをお望みになる。私たちも日々、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈る。
私たちは、キリストの苦難において主と交わる。私たちは十字架につけられてはおらず、無残な死を遂げると定まってもいない。しかし主が非難を受ける時、私たちも非難される。主に従うという理由で非難され軽蔑されて、この世を敵にまわすのはすばらしいことである。弟子はその師にまさるものではない。
私たちはそれぞれ分に応じて主の働きをすることによって主と交わり、真理のことばと愛の行為をもって人々に奉仕をする。私たちの食物、飲み物は、主と同じように、私たちを遣わされた方のみこころをなし、そのみわざを完成することである。
私たちは、キリストの喜びにおいて主と交わる。主の幸福の中にあって幸福である私たちは、主のあがめられることを喜ぶ。この世では、キリストの喜びを私たちのうちに満ちあふれさせる以上に、きよく心を感動させる喜びはない。
主の栄光は、私たちの交わりを完成しようとして待っている。やがて主の教会は、愛される花嫁また王妃として、主とともに御座に着くのである。