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◆私は海でしょうか、

2014年09月16日 16時44分49秒 | 聖書

海の巨獣でしょうか、あなたが私の上に見張りを置かれるとは。(ヨブ七・一二)

これは、ヨブが主に対してした奇妙な質問であった。彼は自分が全く無価値な者で、そのように厳重に見張られ、懲らしめられるに値しないと思った。そのように拘束されることが必要であるほど、手に負えない者ではないことを彼は望んだのである。この質問は、無理のないものである。しかし彼が願うような答えは得られそうもなかった。
人は海ではない。しかし海よりもさらにやっかいな存在である。海は従順にその境界線を守り、境界線が砂の帯にすぎなくても、その制限を越えることはない。海は力強いが、神の指図に従い、荒れ狂うあらしもみことばを守っている。月に対して従順であり、規則正しく満ち潮引き潮をくり返す。このように、能動的にも受動的にも海は従順である。しかし、人はいらだって境界を越え、義務を果たすべき時に眠り、活動的にならなければならない時は怠惰である。神の命令があっても、行くことも来ることもせず、してはいけないことをなし、しなければならないことを放任することを好む。
大洋の中の一滴一滴、水泡の一つ一つ、泡立つ波の起伏、一つ一つの貝がらや小石、これらはすべて自然界の法則の力を感じ、ただちにそれに従い、かつ動いている。ああ、私たちの性質が、この千分の一でも神のみこころに従うことができたなら! 私たちは言う! 海は気まぐれで、偽りが多いと。しかし海は不変である。私たちの父祖の時代から、否、それ以前の時代から海はその位置を変えず、同じ調子で同じ絶壁を洗っている。私たちは、海がどこにあるかを知っている。海はその床を離れず、その波の青も変わらない。だが人はどこにいるのか――愚かな気まぐれな人は。賢者であっても推測できようか。人が次の瞬間、どんな愚行によって不従順に誘惑されるかを。私たちは波立つ海よりも反抗的であり、見張りを必要とする。
主よ。あなたのご栄光のために、私たちを統べ治めてください。アーメン。

 


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