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◆着物ではなく、

2013年12月18日 10時28分34秒 | 聖書

あなたがたの心を引き裂け。(ヨエル二・一三)

着物を裂くとか、その他の外面的な行為によって宗教的感情を表現するのは、容易になし得ることであり、しばしば偽善的なものである。しかし、真の悔い改めははるかに困難であり、はるかにまれなものである。
人は非常に煩雑な儀式に心をひかれる。それは肉を喜ばせるからである。しかし真の宗教は肉の人にとってはあまりに地味であり、またあまりに内省的であり、徹底的である。彼らはそれよりもずっと華美で、浅薄な世的なものを好む。外面的儀式は一時的には快い。目と耳は喜び、うぬぼれは強くなり、独善の心が起こる。しかしそれらは結局ごまかしである。死の瞬間、あるいはさばきの日に、たましいは儀式よりもはるかにまさる何ものかに頼る必要があるからである。生きた信仰がなければ、すべての信仰は全く無益である。誠実な心がないままでささげられた礼拝のすべては偽物であり、王の栄光をあざ笑うものである。
心を引き裂くことは神によって与えられ、厳粛に実感させられるものである。それは個人的に経験されるひそかな悲しみである。単なる形式としてではなく、個々の信者のたましいを揺り動かす聖霊の働きとして経験される。それは単に話したり信じたりすることではなく、生ける神の一人一人の子どもが、鋭く敏感に感じなければならないものである。またきわめて屈辱的なものであり、高慢な、へりくだることを知らないたましいは受けることができないものである。そして全く罪をきよめるものであり、祝福に満ちた慰めの準備となる。またこれには明らかな区別があり、神に選ばれた人々のみがあずかることのできるものである。
今朝の聖句は、私たちの心を引き裂くことを命ずる。しかし私たちの心は、生来のままでは大理石のように堅い。それをカルバリに携えて行かなければならない。まさに死のうとしておられる救い主の御声は、かつて岩を裂いた。その力は今も変わらない。
おお、御霊なる神様。私たちに救い主の死の叫びを聞かせてください。そうすれば、人々が悲しみの日に着物を裂いたように、私たちの心も裂かれます。

 


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