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◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、

2018年05月21日 08時26分09秒 | 聖書
(Ⅰペテロ二・三英訳)
「もし」とある以上、だれもが知っているというわけではない。「もし」とあるのは、ある人々は主が恵み深い方であることを味わい知っていないという可能性があることを意味する。「もし」であるから、これは一般的なあわれみではなく、特別なあわれみである。そこで内的経験において、神のあわれみを知っているかどうかを、自らに問う必要がある。霊的な恵みで、自ら顧みる必要のないものは何一つない。
このことを、熱心な祈りをもって探求しなければならないが、「主が恵み深い方であることを味わい知る」ことについて、「もし」といった程度で満足してはならない。熱心で、聖なる自己否定をしている信者の心中にも、時に疑いが頭をもたげるかもしれない。しかし、絶えずこのような疑いをもち続けるのは悪いことである。
私たちは死に物狂いの戦いにより、信仰の腕をもって救い主をとらえ、「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださる」と言い得るまで、決して心を安んじてはならない。主にある友よ。あなたが全くイエスに依存しているとの確信を得るまでは、心を安んじてはならない。間違うことのない聖霊があなたのたましいとともにあかしをされ、あなたが神の子であることが証明されるまでは、どのようなことがあっても満足してはならない。軽々しく考えてはいけない。「おそらく」「たぶん」「かもしれない」などと言って、あなたのたましいを満足させてはいけない。
永遠に変わることがない真理の上に家を建てよ。ダビデのように、確かな神のいつくしみを得よ。あなたのいかりを神殿の幕の内側につなげ。あなたのたましいが切れない鎖でそのいかりにつながれているようにせよ。にえきらない「もし」を越えて前進せよ。
疑惑と恐怖の荒野にとどまっていてはならない。不信仰のヨルダンを越え、平和のカナンに入れ。そこにはカナン人がいるが、不断に乳と蜜が流れている。
 

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