主の御目はどこにでもあり、
悪人と善人とを見張っている。 (箴言一五3)
私の書斎に、両面いっぱいに一つの目が描かれている一枚の変わった絵がかかっています。ずっと前に宮崎県のある町の旅館にとめていただいた時、その地方で名の通った前衛画家である、そこのご主人が、アトリエを見せてくださいました。たくさんあった絵の中で私のひきつけられたのが、この絵だったのです。「これ、何の絵です?」「何の絵に見えます? みな、見る人が別のことを言うのですよ。」「私には目に見えますよ。神さまの目です。いつも私をじっと見守り、また見張っていらっしやる神の目です。」「ほほう、そうですか。じゃ、その絵は先生にさしあげます。」そういうわけで、いま私の書斎に掲げられているのです。
私の友人の益田泉さんは、戦後、シベリアの強制収容所に入れられて、心も体も凍りつくような苦しい経験をされました。森林伐採の強制労働に耐えられず、次々と死んでいく人の死体をうめようとしても、凍りついた土地を掘ることもできなかったそうです。そんな苦しい日々に、子どものころ覚えた「主の祈り」を、いつも唱えたそうです。すると不思議に、「独りじゃない。神さまがじっと私のことを見ていてくださる」と分かったということです。日本に帰ってからクリスチャンになり、教師になり、たくさんの寂しい人・苦しんでいる人の友となっていらっしゃいます。
そうです。神はあなたの外も内もみな知って、愛のまなざしで、じっとあなたを見張っていてくださるのです。自分の罪や弱さをごまかそうとしたり、おれはおれでやっていけるというごうまんな心で歩むのではなく、この愛のこもった神のまなざしを常に受けて歩む時、静かで平和な充実した人生があるのです。神と人とに秘密を持とうとする自我心と罪の心には、神の目はつらいかもしれません。しかし、神を信じ仰ぐ心には、太陽のようにあたたかい神の御目です。
私の友人の益田泉さんは、戦後、シベリアの強制収容所に入れられて、心も体も凍りつくような苦しい経験をされました。森林伐採の強制労働に耐えられず、次々と死んでいく人の死体をうめようとしても、凍りついた土地を掘ることもできなかったそうです。そんな苦しい日々に、子どものころ覚えた「主の祈り」を、いつも唱えたそうです。すると不思議に、「独りじゃない。神さまがじっと私のことを見ていてくださる」と分かったということです。日本に帰ってからクリスチャンになり、教師になり、たくさんの寂しい人・苦しんでいる人の友となっていらっしゃいます。
そうです。神はあなたの外も内もみな知って、愛のまなざしで、じっとあなたを見張っていてくださるのです。自分の罪や弱さをごまかそうとしたり、おれはおれでやっていけるというごうまんな心で歩むのではなく、この愛のこもった神のまなざしを常に受けて歩む時、静かで平和な充実した人生があるのです。神と人とに秘密を持とうとする自我心と罪の心には、神の目はつらいかもしれません。しかし、神を信じ仰ぐ心には、太陽のようにあたたかい神の御目です。