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「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した』・・

2017年06月06日 15時36分03秒 | 聖書

『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった』」(Ⅰサムエル12:13)

いつの場合も、罪が赦され、解き放たれるためには、まず自分の内にそれがある事を認めることが必要だ。
認めない限り一歩も進まない。

ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したが、それを隠していた時には「1日中うめいて、骨々は疲れ果て、骨髄は、ひでりでかわききった」と。
苦しい悶々状態だった。
しかし、告白し、罪を認めた時、とがめは赦され心底からの安堵と解放を経験した。

私たちはどうだろう。
自分を正当化する肉の性質がある。
自分が怒るのは、相手がそのような言い方をするからだ。
相手がそんな言い方をしなければ怒らないのに。
自分が怒るのは相手のせいであり、相手が悪い。

又、私がそんな言い方をしたのは、疲れていたからだ。
疲れてさえいなければそんな物言いはしない。
自分でなく疲労のせい。
言い訳や弁解を捜すなら、幾らでも出て来る。

自分は正しくて相手が悪く、状況が悪い。
そう言っている限り、自分は何も変わらない。
変えられるためには、「それをしたのは私です」「その通りです」と言い訳せずに認めることだ。
その時、「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」が自分の身に成就する。

自分の心を振り返ってみよう。
どれほど多くの自己正当化、言い訳、弁解、責任転嫁が出ているだろう。
あの場面も、この場面も・・。
気づけて「それは私です」と認めよう。その時、必ず自分が変えられて行く。

とにかく、いっさいの自己弁護、言い訳を止めてみよう。
自分で自分を護る事を止める時に、主が弁護して下さる事、赦されている事、神の大きな愛の御手に包まれている事を知る。

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自分で何とかしている間は見えない。
自我に触れるので、肉は決して認めたくないが、認める時、十字架から赦しが流れて来て、紛れもなく、自分のための十字架だとわかる。
心砕かれる中に、神の深いご愛と慈しみに、頭でなく心が触れる。

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