座間コミニティー

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◆わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、

2017年12月21日 15時56分46秒 | 聖書
じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。(エゼキエル一六・一〇)
見よ。なんというたぐいなき寛大さをもって、主はその民の衣装を準備されたことであろう。そこには、熟練した神のわざが、たぐいないあや織りの着物を仕上げている。神の性質はことごとくそれに参加し、すべての神の美しさがそこに現されている。私たちの救いにまさる芸術はなく、聖徒たちの義のように巧妙な作品はない。義認は、世々の教会の学者のペンを奪うとこしえに賛嘆されるべきテーマである。くすしくも神はそれを「仕組まれた」。
このすべての精巧さに加え、有用性と耐久性がある。これは、私たちにじゅごんの皮のはきものをはかせることに比較できる。じゅごんの皮は幕屋をおおうものであり、最も美しく最も丈夫な皮であった。信仰によって神より与えられる義は、とこしえに続く。そして、この神の作品をはいている者は砂漠を安全に旅することができる。獅子とコブラを踏むことすらできる。
私たちの聖なる衣服の潔白と威厳は、亜麻布に表されている。主がその民をきよめられるとき、彼らは祭司のように純白の衣を着る。その白さは雪も及ばない。それらは、人と天使の目に美しいものであり、主の御目にすら一点のしみもないものである。しかしまた、王より賜った衣は、亜麻布のように優雅であり、高価なものである。それはどんな費用も惜しむことなく、善と美とを尽くしたものである。
ではどうなのか。それに対して何の感想もないと言うのか。たしかに、感謝の念を抱き、喜びを表すべきである。私の心よ。おまえの夕べの賛美をやめてはならない。おまえの笛の調子を整えよ。そしておまえの琴をかき鳴らせ!
 たましいよ。おまえは不思議な衣を着ている
 これぞ、偉大な聖い三一の衣である
 たましいよ。妙なる賛美の調べのうちに
 おまえのすべての力を和合させよ
 

「しかし、

2017年12月21日 15時55分52秒 | 聖書

あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」(詩編130:4)

ある学生が、学校のクラブで部長をしていた。
ある時、健康上の事で、リーダーを辞退し、他の人に代わってもらった。
責任を感じていたので、ほっと安堵し、気持ちが楽になった。
しばらくして、どうしても新しい部長のために、祈れない自分に気づいた。祝福を祈れない。

どうして祈れないのか、心をよく探ると、自分の底にある妬みに気づかされた。
皆の人気が新しいリーダーに向かい、相談事を持って行く事に嫉妬していた。
自分から辞退した事であり、肩の荷が下りたと感じていただけに、認める事ができなかった。

主の御前に、心から悔い改め、赦しを受け取った。祝福を祈る者に変えられた。
自分ではなく御霊の働きであった。
別の人は、教会の奉仕において、意識する相手と、競争し、張り合っている自分に気づかされ、愕然とした。

ライバル視し、負けたくないと思っている。「まだ肉に属しているからです。
妬みや争い・・ただの人のように歩んでいる」その通りであった。
肉は奉仕をすら、自分のプライドのために用いてしまう。

恐ろしい自分の姿に、ことごとくを主の御前に告白し、心底悔い改めた。
奉仕をする資格はない、止めようと思った。
しかし、その時、新たな奉仕の依頼が来た。主を畏れた。常に悔い改めて歩もう。
豊かな赦しがいつも備えられている。
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罪を示されるその憐み、そして罪を赦す権威ある神に告白できる恵み、十字架でもうその罪は赦しているよと言って下さる主の愛。
その主にあって相応しい歩みをして行きたい。


今日の聖人の記念日

2017年12月21日 06時39分35秒 | キリスト教

聖ペトロ・カニジオ司祭教会博士

1521年-1597年

 ペトロは、当時ドイツ領であったニンヴェーゲン(現在のオランダ)で生まれ、信仰深く育てられた。ケルン大学に入り、初め法律家を志したが、神学の研究に傾倒し、司祭となって生涯を神にささげたいと思うようになった。そのころ、ドイツを訪れたイエズス会員のペトロ・ファーブルと出会って、ペトロは自らの道を見つけ、1543年にイエズス会に入り、ドイツ最初の同会員になった。当時のドイツは、町や人、教会も荒廃するというひどい状態にあり、司祭もおらず、修道者は人びとの軽蔑の対象とすらなっていた。
 ペトロは、司祭になった翌1547年にトリエント公会議に出席し、カトリック擁護の立場を強調した。大学で教鞭を取る一方、神学やカトリック要理に関する著作の出版や説教によって、人びとを信仰へと導いた。また、ケルンに最初のイエズス会修道院を設立したり、各地に大学や施設を建てるなど、その地方の教会の刷新に多大なる貢献をした。  ペトロの数多い著作の中では『カトリック小教理問答』は有名で、200版を重ね15か国語に翻訳されている。  彼は、8世紀にドイツにカトリックをもたらした「ドイツ第1の使徒」聖ボニファティウスに並び、「ドイツ第2の使徒」と呼ばれている。


◆力 を 費 や す

2017年12月21日 06時38分10秒 | 聖書

あなたの力を女に費やすな。
あなたの生き方を
王たちを消し去る者にゆだねるな。(箴言三一3)
王の母が、王である息子に与えたいましめの第一は、「あなたの力を女に費やすな」でした。
男一匹、何のために心を燃やし、力を傾けるべきですか。男ばかりではありません。女の人も、いったい何のために情熱を燃やし、生涯をかけ、時間もエネルギーも費やすべきですか。自分自身を注ぎこむ使命・目的・生きる目標があることこそ、すばらしいことです。
預言者イザヤは、「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか」(イザヤ五五2)と語りました。愚かな私たちは、価値のないもののために、多くの力を費やしています。
歴史をふり返ると、つまらない女に身を入れて、自分をも国をも滅ぼしてしまった王が何人もいます。夏の桀王は、末喜に入れあげて滅びました。殷の紂王は妲己、周の幽王は褒Ⅷに迷いました。美人や遊女を傾国・傾城というのは男の身勝手ですが、世には、女のために情欲を燃やして、肉体の力も心の力も金の力も使いはたした男が多くいます。聖書の中でも、サムソンとデリラの場合、ヘロデ王とへロデヤの場合などがあります。
あなたは、何のために、時間とエネルギーを使っていますか。できれば、リストにしてみてください。
* つまらない価値のないもののために、力を費やしていますか。
* 自分のためにのみ、精力を使っていますか。
* それとも、ほんとうの価値のあることのため、永遠のため、神のため、愛のために心を燃やしていますか。
パウロは、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ一二11)とすすめました。
 

◆神が……

2017年12月21日 06時37分19秒 | 聖書
とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。(Ⅱサムエル二三・五協会訳)
この契約は神の側より申し込まれたものである。「神が……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」私のたましいよ。立ち止まれ。永遠の父なる神が自ら進んでおまえと契約を結ばれた。しかり、一言をもってこの世界を造られた神がそのようになされた。神はその栄光のからだをかがめて、おまえの手を取り、おまえと契約を結ばれる。もし私たちがその真の意味を理解するならば、それは私たちの心を永遠に喜ばせるであろう。驚くべきへりくだりの契約よ。
「神が……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」国王は私と契約を結ぶことはない。もし結んだとすれば、それは特典である。まして、地の諸王の王、永遠の主、とこしえのエロヒム(神)が、「とこしえの契約をわたしと結ばれた」のである。
しかし、その適用が個別的なものであることを知れ。「神が……とこしえの契約をわたしと結ばれたからだ。」ここに、個々の信者に対する甘美な慰めがある。神がこの世のために平和をもたらされたとしても、それは私にとって無である。私は、神が私のために平和をもたらされたかどうかを知りたい。神が契約を結ばれたということは、私にとってほとんどかかわりないことである。私が知りたいのは、神が私と契約を結ばれたかということである。神が私と契約を結ばれたとの確信は尊い。もし聖霊なる神が私にこの確信を与えてくださったならば、神の救いは私のものであり、神の心は私のものであり、神ご自身が私のものであり、そして神は私の神なのである。
この契約の期限はとこしえである。とこしえの契約とは、初めがなく、決して終わることのない契約である。変わりやすいこの世にあって、「神の不動の礎は堅く置かれて」いることを知り、「わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない」との御約束をもつのは、なんとすばらしいことか。臨終のダビデのように、たとえ私の家族が私の望むように神と共にいなくても、私はこの歌を歌うであろう。
 

詩篇82篇5-8節

2017年12月21日 06時35分39秒 | 聖書

82:8 神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。


主を知らない人々は、偶像を自分たちの神々として崇めます。

それが自分たちを支配する者だと思っているからです。

また他の人々は、権力者を自分たちの保護者として頼ります。

権力ある者が、歴史を導き作ると思っているからです。

 しかし、聖書は語ります。

国々の歴史を導き、世界の歴史を導いておられるお方は主なる神であり、このお方の御心が、この世界の歴史の中で実現していくのだと。

世界は無目的に動いているのではない。

人がもたらす混乱が、世界を支配するのではない。

人格を持ちたもう神とその神の御心が、最終的にこの世界の内に実現されるのだと語っています。

だからこそ、ここで作者は「神よ、立ち上がって下さい。」と祈っているのです。

その最終の時を早くもたらして下さいと、祈っているのです。

この世界の歴史の支配者は主であり、またその歴史は、主の御心を実現していくことにあるのです。


ヨハネの福音書11章4節

2017年12月21日 06時32分01秒 | 聖書

★イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」


■O:今日のコラム
今日の箇所は有名なラザロの復活の箇所です。ラザロの死には目的がありました。御言葉を見ると、それが「神の栄光のため」であることがわかります。ラザロは病で苦しみ死にました。墓に葬られ、そこに4日間もいました。

しかし、イエス様はラザロを復活させました。彼の復活によって多くの人がイエスを信じ、神の栄光が現れていきました。ラザロは「死と葬りと復活」を経験したので神の栄光を現すことができたのです。彼の身をもって、彼が今復活して生きているという事実をもって神の栄光を現すことができたのです。

私たちクリスチャンも死ななければ神の栄光を現すことはできません。クリスチャンはバプテスマを通して「死と葬りと復活」を経験します。もはや、自分が生きているのではなく、イエス様が私たちの内に生きておられるのです。イエス様が私たちの内に生きているのならば神の栄光を現すことができます。

ラザロは復活しましたが、それは永遠の命ではありません。また寿命が尽きると死んでしまいました。ラザロの復活の出来事は、これから起こるイエス様の十字架の型です。

イエス様は公生涯の中で、数多くのしるしを成されました。カナの婚礼の水をぶどう酒に変える奇跡から始まり、最後のしるしとしてラザロの復活があります。

全てのしるしを通して、神の栄光が現れ、多くの人々がイエスがメシアであると信じるようになりました。その中でもラザロの復活は影響力が大きく、多くの人々がイエスを信じるようになりました。そのことによって、祭司長、パリサイ人のねたみが頂点に達し、イエス様を殺す計画を具体的に立てることになりました。

「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:53)

イエス様は神様です。全てのことを知っておられます。ラザロの復活の出来事の先に、十字架の道があることを知っていたのです。

「神の栄光」とはなんでしょうか?神の栄光が現れる瞬間とは、神の御心が成されたときであると言えます。

神である天の父の御心は何でしょうか?創世記の初めから天の父の御心は変わりません。それは、失われた魂が天の父の元に戻ってくることです。天の父が取った方法は、失われた神の子供たちを取り戻すために、イエス様を十字架につけることでした。

イエス様の十字架によって救いの道が開き、信じる者は天の父の元に戻って来るのです。このことは、天の父の長年の願いです。そのことによって神の栄光が現れるのです。

私たちが栄光という言葉を聞くと、何か輝かしいものをイメージしますが、聖書はそのようには言っていません。死ぬときに栄光が現れるのです。ヨハネの福音書12章23~25節にはこのようにあります。

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』」(ヨハネ12:23-25)

イエス様は一粒の麦となって十字架で死なれました。十字架によって栄光を受けられたのです。そして、死んで終わりではなく、イエス様は復活されました。復活によって信じる私たちに永遠の命を豊かに与えてくださいました。死の先に復活があるのです。

天の父も、クリスチャンがイエス様と同じように一粒の麦となり死ぬことを願っておられます。クリスチャンが自分の肉に死ぬときに、復活の力が働き、豊かな実を結ぶことになることを知っているからです。そのことによって、天の父が栄光をお受けになります。

日々の生活の中で、自分の十字架を背負う場面はあるでしょうか?確かに自分に死ぬことは簡単なことではありません。御言葉を実行しようとすると必ず自分に死ななければならない領域がやってきます。しかし、私たちが忍耐をもって御言葉に従順に従うときに神は栄光を受けられます。

「死と葬りと復活」を通してイエス様は栄光を現されました。このようなイエス様の姿を見続けて人生を歩んでいきましょう。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

今日も一日、皆様の上にイエス様の豊かな恵みがありますように。



■A:考えてみよう
「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マルコ8:34)

イエス様はこのように言っています。日々の生活の中で負うべき自分の十字架は何でしょうか?今一度祈り、神様に聞いてみましょう。

負うべき十字架が示されたならば、それを負うことが出来るように熱心に祈り求めてみましょう。必ず私たちを通して神の栄光が現れることになります。



■P:祈り



愛する、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月20日(水)のつぶやき

2017年12月21日 02時39分19秒 | 仏教