座間コミニティー

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◆労務者たちを呼んで……

2017年12月20日 16時13分57秒 | 聖書
賃金を払ってやりなさい。(マタイ二〇・八)
神は善良な会計係であられる。神はしもべたちに、仕事を終えた時にも仕事の最中にも支払いをされる。神の支払いの一つは安らかな良心である。もしあなたが一人の人に、イエスについて忠実に語るならば、床に入る時、幸いを感じるであろう。
イエスのために何かをする時、そこに大いなる慰めがある。宝玉を主の冠に加え、主にたましいの苦しみの結果をお見せするのは、大いなる幸いである。また、たましいの中に罪意識の最初のつぼみを見るのは、大いなる報いである。たとえば、あなたが一人の少女について、「彼女はやわらかい心の持ち主だ。主のみわざが、彼女のうちになされているのではないか」という場合がそれである。また、一人の少年が意外にも神の真理をよく知っていると思われる発言をし、それであなたがとりなしの祈りをするような場合である。
しかし、成功の喜びに至っては、ことばで表現できないほどのものがある。この喜びは圧倒的なものであって、渇望する喜びであり、さらに多くをあなたは得たいと思うのである。救霊者になることは、この世において最も幸福なことである。あなたは一人のたましいを主に導くたびに、この地上に新しい天国を得る。
しかし、天上で私たちを待ち受ける祝福を、だれが想像できよう!    「主人の喜びをともに喜んでくれ」というみことばのすばらしさよ! 救われた罪人のためにキリストがどれほど喜ばれるか、あなたは知っているか。この喜びこそ、私たちが天において得る喜びである。主が王座に上られる時、あなたも主と共に上る。「よくやった、よくやった」という声が天を揺るがすとき、あなたは報いにあずかる。あなたは主と共に労し、共に苦しんできた。今やあなたは、主と共に支配する。あなたは主と共に蒔いてきた。そして主と共に刈り取る。あなたの顔は主の御顔のように汗におおわれ、あなたのたましいは、主のたましいのように人々の罪を悲しんだ。今あなたの顔は、主の御顔のように天上の輝きに照り輝き、あなたのたましいは主のたましいのように祝福の喜びに満たされる。
 
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「神なる主よ。あなたは、

2017年12月20日 16時12分55秒 | 聖書

私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」(詩編71:5)

あなたには信頼できる相手がいるだろうか。
例えば、友人と待ち合わせをして、時間になっても来ない場合どうだろう。
あなたの心はどう動くだろう。急用か、やむを得ない事情が生じたと、思わないだろうか。

自分を裏切っただの、愛されてないだの、見捨てられたなどと思うだろうか。
決してネガティブに動かない。なぜか。そこに信頼関係があるからだ。
又、友人が失敗したらどうだろう。頭ごなしに責めるだろうか。

そこに何らかの事情があったはずと思い、まず聞こうとするのではないか。

友人を信頼しているゆえに。又、相手も信頼ゆえに、心を打ち広げ、弱さを隠すことなく話すことができる。
信頼関係がある時、そこに安らぎがある。
安心して語らいを楽しむ。主を信じる者も同様だ。

罪の暗闇の世界から、御子の支配下に移され、罪赦され、主の愛に囲まれている。
主のゆえに御父との関係が正され、平和を持っている。
主との間に、根底に愛されている安心感がある。

主と私たちの間は、信頼関係で結ばれている。
そこには平安と安堵と喜びがある。
何があろうと、どんな時も、信仰的に、前向きに、肯定的に捕らえる。
それが信頼だ。どんな状況でも、主は愛していて下さる。ご計画がある。
益とされる、そこに立って、絶対に動かないでいよう。
-------------------
罪人である人間同士でも信頼の絆が保てるなら、主への信頼が何故が揺らぐのか。
私達は自分が信じてきた方をよく知っているはずだ。
今、待たされている状況があっても、必ず益となる答えを見る。

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おはようございます。

2017年12月20日 05時47分39秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年12月20日 05時46分57秒 | キリスト教

聖ドミニコ(シラスの)

?-1073年

 ドミニコは、スペイン、ナヴァラの農家に生まれた。少年時代は、羊の世話をしながら、教会の典礼、聖書、祈りの本をよく学んだ。その後、かねてからの望みがかない、サン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入った。ドミニコの学問と徳は深く、修道院長に選ばれた。当時、ナヴァラ王ガルシア3世が、修道院の所有する土地が王家のものであると主張したの対して、ドミニコは修道院の権利を固く守ったため、他の2人の修道士とともに追放処分された。

 ドミニコらは、カステリャ王フェルナンド1世の保護を受け、ブルゴス教区のシロスのサン・セバスチャン修道院に招かれた。その修道院は、長い間霊的にも経済的にも活気を失っており、王はドミニコに院長としてその再建をしてくれるよう頼んだ。果たして、修道院は次第に改善され、ドミニコはシロスに写本室を設置し、スペイン初の美しいキリスト教の書籍が生み出されていった。彼の名声はますます高まり、修道生活を志す者たちは後をたたず、多くの寄付金が寄せられた。修道院は修復され広くされて、ドミニコが亡くなった当時、サン・セバスチャン修道院はスペイン最大の修道院の1つとなったほどであった。

 彼は、その時代の最も有名な修道者の1人である。

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◆母の願い・母の祈り

2017年12月20日 05時45分45秒 | 聖書

私の子よ、何を言おうか。
私の胎の子よ、何を言おうか。
私の誓願の子よ、何を言おうか。   (箴言三一2)
箴言三一章の少なくとも前半は、マサの王レムエルが母から受けたいましめのことばです。
「私の子よ、何を言おうか。……」と呼びかけるこの冒頭の母のことばに、私は母親の切々たる情愛を感じます。私の母は、七十三歳で天に召されました。その時、私はベルリンに行っていて死に目に会えず、私への母の最期のことばも聞けませんでした。旅行の前に、もう死期も近いと分かっていたので、「お母さん。ぼくはベルリンへ行くのをやめてお母さんのそばにいるよ」と言ったのです。しかし、「いいえ、神さまのためのお仕事です。私のことは構わずに行っていらっしゃい」「バンザイ」と言って、私を無理やりに送り出し、そして十日もたたないうちに「バンザイ、イエスさまが見える、十字架が見える」と言って、こときれた母でした。臨終にこれといって母が私に残したことばはなかったのですが、母の生涯そのものが「お母さんはお前を愛してるよ。お前のために祈っているよ。精いっぱい神さまのためにお働き」と、私に語りかけているようです。
今、この本を読んでおられる方々の中にも、多くのお母さん方がいらっしゃるでしょう。若いお母さん・中年のお母さん・そして年老いたお母さん。――お母さん方に、二つのことを質問したいのです。
第一に、あなたが最後的にあなたのお子さんに言いたいことばは、何でしょうか。ペンをとってそれを書いてみると、あなたの母としてのほんとうの姿が浮かび出てきます。第二に、あなたは、あなたのほかに「お母さん」と呼べる女性のないあなたの子を、胎の子とし、誓願の子として、お子さんのために毎日朝夕祈っておられますか。
私も四人の子の親として、今、この二つの質問を私自身に投げかけているのです。
 
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◆永遠の愛をもって、

2017年12月20日 05時45分01秒 | 聖書
私はあなたを愛した。(エレミヤ三一・三)
主イエスは、時折教会に対して愛慕の情をことばで示される。「主は、教会の陰で愛情を語るのは十分ではないと思っておられる。主は、教会の面前で『わが愛する者よ。あなたのすべては美しい』と言われる。これは主がいつでも用いられる方法ではない。主は賢明な求愛者であり、愛を打ち明けるのに適した時を心得ておられる。しかし、主が愛慕の情を何の隠しだてもすることなく、あからさまに表現される時がある。すなわち、なんら議論の余地なく、神の民のたましいの中に愛情を注ぎこまれる時がある」(R・アースキンの説教より)。
聖霊は、私たちのたましいとともに、しばしば喜びをもって、また、ねんごろにイエスの愛について証しをされる。聖霊は、キリストに関する様々なことを取り上げて、私たちに啓示される。私たちは、雲の中から声を聞くことも、夜、幻を見ることもないが、そのいずれにもまさる確実な証しをもっている。仮に王国より天使が来て、聖徒に対する救い主の愛について親しく語ったとしても、それは聖霊が私たちの心にもたらす証しに比べ、およそ強力なものではない。
天国の門に最も近く住む主の民に問うてみよ。彼らは答えるであろう。彼らに対するキリストの愛はきわめて明瞭確実であり、彼ら自身の存在を疑い得ないのと同じように、それを疑うことができない、と。しかり、愛する主にある友よ。あなたも、また私も、しばしば主の御前にあって力を得てきた。そして私たちの信仰は確信の絶頂にまで上った。昔のヨハネのように、確信をもって私たちの頭を主の胸にもたせかけ、彼が主の愛を疑わなかったように、私たちも主の御姿を疑うことはない。私たちの口から「主よ。裏切ろうとしているのは、まさか私のことではないでしょう」というような暗い問いが発せられることは決してない。
主はご自身の口をもって私たちに口づけし、私たちを親しく抱きしめて、私たちの疑いを除かれた。主の愛は私たちにとって、ぶどう酒よりも甘美なものである。
 
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詩篇82篇1-4節

2017年12月20日 05時43分22秒 | 聖書

82:3 弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。
82:4 弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。


人は強い者、そして豊かな者の方につきます。

それが自分を守るからです。

ですから、彼らが何か悪いことを行っても、気にすることはありません。

むしろ、その人々のために弁護さえもするのです。

 しかし、主は違います。

主は弱い者、悩む者、乏しい者を弁護して守れと告げています。

彼らの味方になって支え、守れというのです。

つまり、自分が強い人達から守られることを考えるのではなくて、自分が弱い人達の守り手となって支えよ、と言われるのです。

なぜでしょうか。

それは、私たちを本当に支え守っているのは権力がある人ではなくて、主が支えて下さっているからです。

主こそが、私たちの真の守り手です。

ですから、このお方の支えを信じて、そのお方の御心を行うことに心を向けなさいと、言われるのです。

主の御心は「あなたの隣人を愛する。」ことだ、と言われるからです。

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ホセア書10章1~2節

2017年12月20日 05時40分48秒 | 聖書

★ イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多くの実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。

ヨハネの福音書10章15節   
★ それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!11月7日の朝です。今日1日も、主の御国とその義とを求めていきましょう。僕らの祭壇を1つとしていきましょう。主を愛し、主の愛を受け取り、主の愛を遣わされている場所で解き放っていきましょう。二心にならないためです。

僕らが祝福を受け取っていくとき、中心からズレてしまうことがあります。僕らの中心は、神様です。僕らのために神様がいるのではなく、神様のために僕らが生きているからです。

多くの実を結び、美しく素晴らしいことができたとしても、それを主と共にやっていないのならば、二心となっていきます。絶えず点検していかなければ、すぐにズレてしまいます。主は僕らの祭壇をこわし、僕らの石のように強固な柱を砕かれます。

僕らの祭壇は1つだけです。僕らの罪のために「いのちを捨てた」主イエス・キリスト様だけです。他に何もありません。あったら、何かが違います。

「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)

僕らは、イエス様が十字架に架かられたことで、全知全能の神様を「父」と呼ぶことができるようになりました。イエス様の信仰によって、神様の子供としての権威を受け取る者となりました。イエス様の信仰によって、王であり祭司となりました。

イエス様の信仰によってです。僕らは、自分勝手な信仰ではなく、信仰を完成されたイエス様の道を歩む者となっていきましょう。

僕らは今もなお 、祭壇をふやし、自分の行いや多くの勇士に拠り頼んでしまう者です。

「あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士に拠り頼んだからだ。」(ホセア10:13)

しかし、祭壇を「イエス様の信仰」1つだけにすることで、神様の義を求め、神様の御国を求め、主を求め続ける者となることができます。

「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」(ホセア10:12)

だから、祭壇を1つにしていきましょう。神様の御国とその義とを求め続けていきましょう。



■A:考えてみよう
自分の中にある主以外に礼拝しているもの、信頼しているものを、イエス様に明け渡しましょう。
悔い改め、イエス様の祭壇を築いていきましょう。
神様の御国とその義とを求めていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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12月19日(火)のつぶやき

2017年12月20日 02時36分17秒 | 仏教
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