座間コミニティー

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◆すべての人に、すべてのものとなりました。

2017年12月07日 16時09分11秒 | 聖書
それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(Ⅰコリント九・二二)
パウロの大目的は、単に教えて向上させることではなく、救うことであった。人々の心が新たにされ、赦され、きよめられること、事実、人々が救われることを欲した。私たちのクリスチャンとしての働きは、この重要なこと以下の何かを目標としていたのではないか。もしそうであれば、私たちのやり方を修正しよう。終わりの大いなる日に、人々が教えられ道徳を説かれたのみで、救われることなく神の御前に出るとすれば、いったい何の益があるだろう。私たちが生涯を通じて、より劣った目的を追求し、人々が救いを必要としていることを忘れるならば、私たちの着物のすそは真っ赤になるであろう。
パウロは、人の生来の状態が破滅であることを知って、人を教育しようとはせず、救おうとした。彼は、人々が地獄に沈みつつあるのを見て、彼らを改善するために語らず、来るべき怒りより救うために語った。たゆまぬ熱心さで、広く福音を宣ベ伝え、神と和解するように人に警告し、また求めた。彼の祈りは執拗で、彼の働きはやむことがなかった。たましいを救うことが、彼の焼き尽くすほどの熱情であり、大望であり、使命であった。彼はすべての人のしもべとなり、同胞のために労し、もし福音を宣べ伝えなかったら、わざわいに会うと感じていた。彼は、人が福音を受け入れるなら、形式にはこだわらなかった。伝道が彼にとって唯一の最も重要な務めだった。もしだれかを救うことができれば、彼は満足だった。それが彼の得ようとして骨折った冠であり、すべての苦労と自己否定に対する唯一の、十分な報いであった。
愛する友よ。あなたは、そして私は、このような高潔な心で救霊のために生きてきたであろうか。私たちは、同じ願いにとらえられて、それに没頭しているであろうか。もし私たちが救霊によってキリストの誉れを求めないならば、キリストに対する私たちの愛はどこにあるのか。おお、主がたましいに対する絶えざる熱情を注いでくださいますように。
 

「主よ。助けてください。

2017年12月07日 16時08分07秒 | 聖書

私たちはおぼれそうです」(マタイ8:25

漁師だった弟子たちは、舟の舵取りなどお手のものだった。
毎日毎日漁に出ているわけで、たやすい事であった。
湖を渡る時も、別に自分たちの力で、ゆうに向こう岸に渡れると思っていただろう。
しかし、嵐に会い、四苦八苦し、自力ではどうにもならない状況に直面し、初めて主に助けを求めた。

それまで主の助けを必要とせず、自分たちの力だけで、間に合ったのだ。
どうにもこうにもならず、自分たちの限界と無力を認めて、「主よ。助けて下さい」と求めた。
すると主は起き上がって、風と湖をしかりつけられた。

その時、舟が沈没しかけの暴風雨がピタリと止んだ。
彼らは嵐に会って、パニックで、自分たちの長年の漁師としての経験も、自負も何の役にも立たなかった。
「助けて下さい」の求めにより、主は起き上がって、奇跡をなし、救って下さった。

私たちも人生の嵐に会う。懸命に舟をこぎ、自分で何とかしようとして、パニックになる。
対人関係の悩み、経済的苦境、別離、仕事のトラブル、健康上の問題・・自分の力で解決しようとして、もがいていないか。
どうしても委ねられない、明け渡せない部分が見えて来る。

自分には出来ないことを認め、「主よ。助けて下さい」と自分の人生の舵取りを主に渡すことだ。
その時、心に平安が臨む。心の悶々、不安、煩い、恐れが消えて、心がなぎになる。
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主よ助けて下さいと一日に何度言っているだろうか。
いつものやり方、いつもの習慣でやりくりして行けるなら、どこに信仰が増し加わる事があるだろう。
主と共に生きている全たき平安、喜び、感謝を知って生きる者にされるため主は風を送られる。



今日の聖人の記念日

2017年12月07日 06時46分56秒 | キリスト教

聖アンブロジオ司教教会博士

340年-397年

 アンブロジオは、ローマ貴族の子として、ドイツのトリエルに生まれた。父の死後、母に連れられてローマに行き、法律を学んだ。373年、ローマ皇帝ヴァレンチニノ1世から、リグリアとエミリア州の長官に任命され、ミラノに赴いた。ミラノの司教が亡くなると人びとは、信者ではないが慈悲深いアンブロジオを司教に選んだ。短期間のうちに受洗し、司祭に叙階され、374年12月7日ミラノ司教に就任した。

 アンブロジオは、信者の信仰教育のために、説教壇から熱弁をふるった。洗礼志願者への連続説教、聖書解釈の連続講話、独身の生活に関する説教などが有名である。アンブロジオの温かい人柄と、学識の深さにひかれ、指導を求める人が多くいた。その中には、息子アウグスチヌスのことで相談にくるモニカの姿もあった。
 神と人びとのために精根こめて働いたアンブロジオは、397年、57歳で亡くなった。


◆人を恐れるな

2017年12月07日 06時45分38秒 | 聖書

人を恐れるとわなにかかる。
しかし主に信頼する者は守られる。(箴言二九25)
人の上に立つ者の危険は、きのうもお話ししたように、高ぶることです。しかし、もう一方の危険は、反対に人を恐れることではないでしょうか。人の顔色や鼻息をうかがい、確信のない生き方をすることです。
人に弱虫といわれるのを恐れて、麻薬を吸わされ、悲惨のどん底に落ちた男の話を聞きました。男にきらわれて捨てられるのがこわくて、肉体関係に引きずりこまれ、ぞうきんのように捨てられた女子大生の体験をじかに聞いたこともあります。すべての人にとって、恐るべきものを恐れず、恐るべきでないものを恐れる愚かさは、恐ろしいわなとなります。
イエス・キリストは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ一〇28)と言われました。魂も体もゲヘナに投げ入れるものは、罪です。そして、その罪をさばきたもう神です。
人の上に立つ人が「人を恐れる」ケースは、二つあります。第一は、人の評判、つまり自分を人がどう見ているかという恐れです。第二は、自分より能力が上で評判のよい者がやがてのしあがって、自分の座をとりはしまいかという恐れです。
神の前に恐れるようなわだかまりが一つもないなら、自分がこの時に立てられている指導者であることを、神を恐れつつも確信するべきです。そして、能力ある人を、あなたのリーダーシップの一つの力として用いましょう。やがて時が来るなら、自分の大切なリーダーシップを有力な後継者にゆずるという大きな気持ちで、人を育てなければなりません。主を恐れ、主に信頼しており、罪をゆるされ、自我をキリストと共に十字架につけきったリーダーは、何とたよりがいがあることでしょう。
 

◆この世の取るに足りない者や見下されている者を、

2017年12月07日 06時44分51秒 | 聖書
神は選ばれました。(Ⅰコリント一・二八)
あなたがもし望むなら、街の通りを歩いてみるがよい。そこには、犯罪人が何人かいるかもしれない。刑務所に行って監房を一つ一つ見て行くなら、陰気で冷たい感じの人々を見ることができる。そこには犯罪人がいる。少年院へ行けば、あなたはそこにも若い犯罪人を見るであろう。海を渡って他国へ行っても、そこにも犯罪人はいる。あなたはどこへ行こうと、そこで犯罪人を見つけるために捜し回る必要はないかもしれない。犯罪人はあらゆる都会、町、村の大通りにも小路にも、どこにでもいる。
イエスは、このような者たちのために死なれた。もしあなたが、最も下劣な人間の標本を選んで私のもとに連れて来たとしても、その人が女から生まれた者である限り、私は希望を失わない。なぜなら、イエスは罪人を捜して救うために来られたからである。選びの愛が、最悪の者を選び出して最善の者とする。神の恵みは、小川の小石を、王冠を飾る宝石に変える。神は、価値のないくず鉄を純金に変えられる。贖いの愛が、多くの人類の中から最悪の者たちをより分けて、救い主の苦しみの報酬とされるのである。力ある恵みが、最も下劣な多くの者たちを召し出して、恵みの食卓に座らせるのである。このゆえにだれであっても失望してはならない。
読者よ。イエスの涙のあふれた目に宿る愛により、血潮したたる傷口から流れ出る愛により、その忠実な愛により、その強い愛により、その純粋な私心のない永続的な愛により、救い主のあわれみの心により、あなたに願う。この約束があなたに無関係なものであるかのように顔を背けないように。むしろ主を信ぜよ。そうすれば、あなたは救われる。あなたのたましいを主にゆだねよ。そうすればあなたは、主によって永遠の栄光のうちに、御父の右に伴われるであろう。
 

詩篇79篇5-8節

2017年12月07日 06時42分57秒 | 聖書


79:4 私たちは隣人のそしりとなり、回りの者のあざけりとなり、笑いぐさとなりました。
79:5 主よ。いつまででしょうか。あなたは、いつまでもお怒りなのでしょうか。いつまで、あなたのねたみは火のように燃えるのでしょうか。


主は、イスラエルの民を裁かれました。

その結果、異邦の国々の暴虐に寄って痛めつけられました。

その時、主にある人々が主に求めました。

いつまで私たちをこのような暴虐の元に置かれるのですか、と。

彼らは自分たちの不義に気がついて主に許しを請い、そのことによって主に助けを求めたのです。

主が自分たちの方に慰めの心を向けてくださる以外に、自分たちの救いはないことを知っていたからです。

ところで、ここで彼等は「主の怒りは、主の妬みによる」と語っています。

妬みによるとは、それほどまでに主がこの民を愛してくださっているということです。

ですからその愛の故に、赦しを与え救いを与えてくださいと祈っているのです。

民は、妬むほどのその主の御愛を、見失ってしまっていたのです。



ヨハネの福音書1章1節

2017年12月07日 06時39分55秒 | 聖書


★初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

14節
★ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

■O:今日のコラム
「恵み」について説明してくださいと言われたとしたら、皆さまはどのようにお答えになりますか?

私はある時まで、「恵み=神様から一方的に私に注がれている好意・祝福」だと考え、定義していました。しかし、私のメンターが「恵み= 御言葉なるイエスキリストが与えられていること」と言われ、前者の恵みの定義は人が中心になった恵みの定義であると言っているのを聞いたことをきっかけに、私の中で「恵み」に対して考えるようになりました。

そして今日の箇所であるヨハネの福音書1章1節、14節をもって、「恵み=御言葉であるイエスキリストが私たちの間に住んでくださった」こと、つまり御言葉が与えられていることこそ本当の恵みであると思いました。救いが主のためであるのと同様に、恵みも人が中心にあるのではなく神が中心にあるもので、恵みも主のためにあることを覚えたいと願います。

私たちは何ができるできないに関係なく、何を成し遂げた成し遂げていないに関係なく神様に愛されている存在です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)

私たちの存在を愛するがあまり、父は御子を私たちに賜ってくださいました。愛ゆえに御言葉を与えてくださいました。恵みとまことに満ちておられる方が私たちのただ中に住んでくださいました。イエスキリストが与えられたこと、御言葉が与えられていることは何にもまさる恵みです。

神様は、御言葉を求めなさい、御言葉に飢え渇きなさいと繰り返し言ってくださっています。

「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ55:1)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)

聖書における水は御言葉をあらわしています。つまりこれらの箇所で主は、御言葉を買いなさい、求めなさい、飲みなさいと言ってくださっているわけです。 買いなさいということは御言葉を求めて犠牲(時間)を払いなさいと言い換えることもできるでしょう。主は私たちが私たち自身の満たしのために生きるのではなく、御言葉を求める飢え渇きを持って歩んで欲しいと願っておられます。

そして、私たちは御霊なしには御言葉を悟れず、目の覆いが取り除かれなければ主を見れない者です。

「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」(ルカ18:34)

ルカの福音書18章31節~33節で、イエス様はご自分の死と葬りと復活について弟子たちに話されました。しかし、上記の御言葉にもあるように、弟子たちにはその話が理解できなかったとあります。この箇所の後の35節~ 43節では盲人の話が記されています。この弟子たちが悟れなかった話と盲人の話はつながっていると信じます。

この盲人は私たちを表しており、主のことばを悟れない者の姿であると思います。私たちはこの盲人の信仰を持つ必要があります。

「彼が近寄って来たので、『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った。」(ルカ18:41)

盲人は主が目を癒して見えるようにしてくださると信じ、イエス様の前に進みました。私たちもまず初めに自分が盲人であることを認めなければなりません。そしてこの盲人と同じ心、つまり主にあって見えるようになることを信じて、主の前に進みゆかねばなりません。

私たちは知恵と啓示の御霊の中で覆いが取られて、真理を悟ることができることを信じます。

「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(2コリント3:6)

本来はイスラエルにゆだねれていた御言葉が、今では異邦人である私たちにも与えられています。これだけでも豊かな恵みを受けている者です。 しかしそれだけに留まらず、主は御言葉を通して私たちに語り、私たちの自我や肉、汚れを明らかにし、悔い改めを通して私たちが御言葉に生きることを願っておられます。

「わたしは、 だれが死ぬのも喜ばないからだ。ー神である主の御告げーだから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)

「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、 私たちに不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:11-14)

神の恵みはイエスキリストであり、イエスキリストは御言葉です。つまり御言葉は放縦へと変えられるものではなく、神のきよさへと向かわせる力であると信じます。神の御言葉が与えられているがゆえに、私たちは御言葉を行うことができることを感謝します。

「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。」(2コリント13:8)

「いま私は、あなたがたをその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)



■A:考えてみよう
今日、初めに御言葉が与えられていることを感謝しましょう。御言葉をほめたたえましょう。そして御言葉を求めて祈る中で、自分の霊的な目は盲目になっていることを認めて、特に心と目と耳に対して血潮を宣言して主の癒しを受け取りましょう(アテフ・メシュレキー神父著「イエスの血潮を宣言する祈り」22頁~27頁,45頁~53頁)。

さらに知恵と啓示の御霊を求めて、御言葉を朗読していきましょう。そして受け取った御言葉を祈りの中で解き放って宣言し、その御言葉を生活の中で実行していきましょう。神が神である証拠、御言葉そのものになっていきましょう。神様をもっと知っていきましょう!

イエス様をもっと知りたいと思い、私自身が以前からチャレンジしていることで、このマナメールを読み導きを受ける方と共に実行していきたいことがあります。それは1日1章、トーラー(モーセ5書)を読んでいくことです。もしまだトーラーの朗読をしていない方で、心がある方はぜひトーラーの朗読を共にしていきましょう。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなから、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。」(ヨハネ5:46)

上記の御言葉にもあるように、イエス様ご自身がモーセの書いたこと(トーラーつまり創世記から申命記)は私のことを語っていると言っています。もちろん聖書全体がイエスキリストについて証していますが、イエス様をもっと知りたいという心を持って、イエス様について書かれ聖書の土台となっているトーラーを朗読していきましょう。


■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの愛とあわれみを感謝します。その愛ゆえに、ひとり子であるイエス様を私に与えてくださり、ありがとうございます。
御言葉なるイエス様、あなたをもっと知りたいです。あなたが与えられたことは何にも勝る喜びであり、永遠のいのちであると同時に恐れ多いことです。私が日々の生活の中で、御言葉を軽んじる心を持ち、行動していたことを赦してください。不従順という大きな罪を赦してくださって、この罪の根源を取り除いてください。御言葉を軽んじることはあなたを軽んじることです。そのような者として歩みたくありません。自分の満たし、自分はこう思うから、自分はこう考えるからという思いではなくて、御言葉は何と言っているのか、聞き方に注意を払う聞く耳を私に与えてください。
また私は自分が盲人であることを認めます。主よ、あわれんでくださって、わたしの目を見えるようにしてくださり、知恵と啓示の御霊の中で御言葉を悟らせて、あなたをもっと知ることができるようにさせてください。あなたが語られたがゆえに、真理のゆえに私は御言葉を行うことができることを感謝します。そのように主のために生きることができる人生を与えてくださり、ありがとうございます。
今日という日に御言葉を求めます。今日もあなたの御言葉におののきます。私の心を砕いて、御言葉をさらに畏れるへりくだった心へと造り変えてください。

「主はこう仰せられる。『天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。』これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。ー主の御告げーわたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:1-2)

この御言葉を自分自身に宣言し、愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


12月6日(水)のつぶやき

2017年12月07日 02時37分21秒 | 仏教