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今日の聖人の記念日

2017年11月13日 06時52分49秒 | キリスト教

聖スタニスラス・コストカ

1550年-1568年

 スタニスラスは、ポーランドのロストコフ城の領主の息子として生まれ、信仰深く育てられた。
 1564年、兄と共にウィーンのイエズス会の寄宿学校に入った。しかし、皇帝によってこの寄宿学校が閉鎖されたため、カトリックでない家に兄と下宿した。兄は信仰生活から離れ、弟スタニスラスの敬虔な態度を嫌い、虐待するようになった。スタニスラスは、心身の疲れで、重病にかかり、聖体(イエス・キリストの体)を受けたいと望んだが、家主が司祭を家に入れることを許さなかった。しかし彼が祈っていたとき、聖バルバラと天使が現われ、聖体を授けた。

 奇跡的に病が治ると、イエズス会に入ることを決意したが、父の反対にあい入会を許可されなかった。スタニスラスは、ウィーンを出て、ドイツのイエズス会管区長聖カニシウスのもとに行き、入会を願った。カニシウスは、スタニスラスの決心が固いのを知ると彼をローマに旅立たせ、そこで総長から入会を許可された。

 彼は、ローマでの修練生活を、ひたむきに祈りと学業に励んで送った。9ヶ月たったころ、スタニスラスは自らの死期が迫っているの感じ、「8月15日の聖母被昇天の祝日は、天で祝えるよう心から願っています」と言った。彼の言葉どおりに、8月10日に病いに倒れ、そして15日の早朝、「聖母が、迎えにこられました。」と言って17年の生涯を閉じた。

 彼は、ポーランドの守護聖人とされている。


◆手っ取り早い生き方でなく

2017年11月13日 06時51分26秒 | 聖書

草が刈り取られ、若草が現われ、
山々の青草も集められると、
子羊はあなたに着物を着させ、
やぎは畑の代価となる。
やぎの乳は十分あって、
あなたの食物、あなたの家族の食物となり、
あなたの召使の女たちを養う。(箴言二七25―27)
リビングバイブルは、このところを実に簡潔に、こう訳しています。「牧草を刈り取り、二番草も取ったあと、山の草を集めなさい。そうすれば、子羊の毛も山羊の乳も十分に取れ、家族の生活には困りません。」遊牧時代の昔とはいえ、当時、この牧畜業以外にも金もうけの仕事はあったらしく、むしろそのほうが手っ取り早いと考えた多くの人が、牧場と羊をほったらかしにして、そちらにいこうとしたらしいのです。
もと牧場経営をしていて、今は牧師をしているフィリップ・ケラーさんの経験によれば、彼の隣の牧場経営者も、まさにそんな一人でした。怠けて働かずに金をもうけようとした彼は、牧場も羊もほったらかしていたので、たちまち牧場は赤茶け、羊たちは皮膚病にかかり、寄生虫にやられました。ケラーさんの緑の牧場にまぎれこんだ三頭の雌羊があまり青草を食べすぎてひっくりかえっているのをお隣へ連れていってやると、刀を出して三頭ともそこで殺してしまったそうです。その人は牧場経営もだめ、ほかの金もうけもだめでした。その人の人生は敗残敗北だったのです。その牧場は、ケラーさんの手に渡ったそうです。
神は私たちのよい羊飼いとして、どんなに手がかかっても私たち一人一人によく気をくばり、一つとして手を抜かず、すべての必要を備えて導き養っていることを思うと共に、私たちもまた、手っ取り早い生き方に色目を使わず、毎日、祈り、聖書を読み、なすべきことを一つ一つやりとげていく生き方をしたいと願うのです。急いで集めたものは、たちまちに散らされます。ゆっくりじっくり集めたものは、残るのです。
 

◆枝がぶどうの木についていなければ、

2017年11月13日 06時50分32秒 | 聖書
枝だけでは実を結ぶことができません。(ヨハネ一五・四)
あなたはどのようにして実を結び始めたのであろうか。それは、あなたがイエスのもとに来て、大いなる贖い主に身を託し、主の完成された義に憩うことができたからである。ああ、その時、なんとすばらしい実をあなたはもったことであろう。あなたは記憶しているだろうか。その時つるは茂り、柔らかいぶどうの実は現れ、ざくろは芽を出し、香料の花床は芳香を放った。
あなたはその後信仰が衰えたか。もしそうであるならば、あの愛の時を思い起こし、悔い改めて初めのわざをなせ。かつての経験を生かして、あなたを最もキリストに近づけたと思うことをなせ。なぜなら、あなたの実はすべて主から来るのだから。あなたを主のみもとに近づける聖い鍛練は、あなたが実を結ぶために役立つであろう。太陽は、疑いもなく果樹園の木の実を結ばせるのに大きな働きをなすが、イエスは恵みの園の木に対して、それ以上の働きをなされる。
あなたが最も実を結ばなかった時はいつであったか。それは、あなたが主から最も遠く離れて住み、祈りを怠り、信仰の単純さを失い、主を思わないで自分の徳を思い、「私の山は堅く立つ。私は動かされることはない」と言い、あなたの力がどこから来るかを忘れた時ではなかったか。その時、あなたは実を結ばなくなったのではないか。
私たちは、その心が主の前にきわめて低くされ、キリスト以外には何ももっていないことを教えられることがある。すべての被造物の力が無であり死であることを見る時、私たちは激しい苦悶のうちに、「すべての私の実は主から得なければならない。私からはどのように実も生ずることはないから」と叫ぶ。私たちは過去の経験から、単純にキリストにある神の恵みに信頼して、聖霊を待ち望めば待ち望むほど、良い実をより多く神にささげ得ることを教えられた。ああ、いのちのために主に信頼するとともに、実のためにも主に信頼したい。
 

詩篇75篇1節

2017年11月13日 06時48分55秒 | 聖書


75:1 私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。


感謝を献げるべき方は、主です。

ですから、「私たちは、あなたに感謝します」と語っています。

困難と苦境の中にいる時、人は不安と恐れの中に置かれます。

その時に主にある人々は皆、主を呼び求めます。

私たちを憐れみ、助けてくださいと祈るのです。

主はその祈りに答えて、折りにかなった時に、助けを与えてくださいます。

その助と救いに預かった時に、人の心の中に浮かぶことは、感謝です。

主への感謝です。

イスラエルの民は、エジプトの地から助け出されました。

奴隷の状況から解放されました。

そこには、溢れるばかりの感謝がありました。

私たちも、犯した罪とその結果の死に心が怯え、大きな恐れに満たされていました。

そこから主が、イエスさまを通して解放してくださいました。

感謝以外にありません。

主を知り、主の恵みに預かった者にとって、感謝こそふさわしいことなのです。



第2コリント13章5節

2017年11月13日 06時46分38秒 | 聖書


★あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか―あなたがたがそれに不適格であれば別です。―


■O:今日のコラム
今日の箇所でパウロが言っているように、私たちは信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなければなりません。なぜなら、信仰に立っていると思っていても、信仰の破船にあうことがあると聖書に書かれているからです(1テモテ1:19参照)。

信仰とは何でしょうか。有名な御言葉ですが、

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

とあります。私たちは、目に見えるものに望みを置きやすいものです。それが私たちを保証してくれるかのように思います。しかし、見えるものを信じることは簡単ですが、それら見えるものは一時的であることを覚えます(2コリント4:18参照)。

私たちの望みは、一時的、消えていく、朽ちていくものではなく、永遠に続く御国、天にある報いです。イエス様ご自身です。私たちは、昨日も今日もいつまでも変わらないお方、真実なお方、神のことばであられるお方、イエス様ご自身に望みを置くことが出来るのです。

もし、イエス様ご自身以外のものに、私たちの望みを置いているなら、私たちは悔い改めなければなりません。言葉では、賛美では、「イエス様が主です」と言いながらも、実際の歩み、日々の生活の中で、自分の方法ややり方、人の方法や言葉に頼っているなら、私たちは、いつのまにか信仰から離れてしまうでしょう。なぜなら、神様の願い、ことばよりも、自分や人の願い、言葉が優先されているからです。フォーカスがずれてしまっているからです。

私自身がそのような者であったことを悔い改めます。忙しさや状況に惑わされず、神様が何と言っているか、御言葉が何と言っているかを、まず聞いていく者になりたいと願います。

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

信仰は「聞くこと」から始まります。ヨハネ10章には、羊はイエス様の声に聞き従うと書かれています。羊は羊飼いの声を知っているのです。終わりの時代に、主は羊と山羊を分けるとあります(マタイ25:31-46参照)。

私たちが、日頃から何を「聞いているか」が益々重要になってきます。絶えず、日々の歩みの中で神様のことばを聞き、そのことばに従う生き方をしていきましょう。それが信仰の歩みとして、人々にもあかしになっていくと信じます。

たとえ、今がどのような中にあっても、神様のことばに望みを置きましょう。神様のことばに信頼を置き続けていきましょう。今は見えないけれども、状況や環境が困難に思えても、私たちに与えられた望み、約束を信じることを選び取ろうではありませんか。イエス様ご自身、御言葉に信頼を置き、揺るがない岩の上に立ち続けていこうではありませんか。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(2テモテ4:7-8)



■A:考えてみよう
・私たちがどのような信仰、御言葉に立っているか、もう一度吟味していきましょう。
・自分の願いが神様の願いよりも優先されていないだろうか。日曜日だけ、イエス様が主となり、日々の歩みの中では、自分が主となっていないだろうか。人や目に見えるものに望みを置いていないだろうか。神様だけが唯一の主権者であり、神のことばが真実であり、すべてを支配しておられるということを信じきることが出来ているだろうか。
・私たちの感情、理解や状況をこえて、どのような時でも主に信頼し続けることを、最後まで選び取り、信仰のレースを走り切ることが出来ますように!



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。