座間コミニティー

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◆ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。

2017年11月30日 16時20分41秒 | 聖書
それで、竜とその使いたちは応戦したが……。(黙示録一二・七)
二つの大いなる主権の間には絶えず戦いがあり、どちらかが打ち滅ぼされるまでこの戦いは続く。善と悪との間には平和はあり得ない。平和が来たように見えるならば、それは実際には、やみの力が勝利しているのである。ミカエルは常に戦う。彼の聖なる霊は罪を憤り、罪を許さない。
イエスは常に竜の敵であられる。イエスは静的な意味においてではなく、積極的に力強く、悪を根絶しようとする決意に満ちておられる。
すべての主のしもべは、天にある御使いでも、地にある使者でも、戦うのであり、また戦わなければならない。被らは戦士として生まれてきた。――十字架の下で、彼らは決して悪と休戦しないことを誓った。彼らは勇敢な仲間である。守る時は堅固であり、攻める時は勇敢である。主の軍隊のすべての兵士の任務は、日ごとに、全心全霊全力を傾けて竜と戦うことである。
竜とその使いたちは戦いをやめない。彼らは絶えず猛襲をくり返し、武器も手段も選ばない。私たちがもし何の反対も受けずに神に仕えることを期待しているとするならば、それは愚かである。私たちが熱心であればあるほど、必然的に地獄の軍勢の攻撃にさらされる。教会は怠慢になるかもしれない。しかし、教会の大敵サタンはそうではない。彼の気持ちは落ち着かず、決して戦いをやめない。彼は女のすえを憎み、教会をむさばり食うことを願っている。サタンの手下どもは、常に活動的である。戦いは至る所でなされ、平和を夢見ることは危険であり、無益である。
しかし、栄光神にあれ。私たちは戦いの結末を知っている。巨大な竜は投げ落とされ、永遠に滅ぼされる。主と主に伴う者は冠を受ける。
今夜、私たちの剣をとぎ、戦いのために腕を強くされるように聖霊に祈ろうではないか。この戦いほど重要な戦いはなく、この冠ほど栄光に満ちた冠はない。十字架の戦士よ。部署につけ。遠くないうちに、主がサタンを足下に踏みにじってくださいますように。
 
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「それから彼らは、

2017年11月30日 16時19分27秒 | 聖書

アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った」(使徒16:6)

私たちは人生の大切な進路や、また、日常の信仰生活の些細な事でも、どの道を選べば良いのか、わからなくなる事がある。
私たちには、未来はいっさい見えず、少し先の事すら見えない。

先が全く予測できないので、不安や恐れを感じる。
しかし、主は共におられるので、必ず私たちの進むべき道を示し、導いて下さる。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」とあるように、つまり神の子どもは、御霊が導かれるということだ。

パウロはアジアで宣教しようと考えた。しかし、御霊はこれを止められ、マケドニヤへ行くよう導かれた。
この間、パウロは状況を見つつ、祈った事だろう。
その祈りの中で「神が私たちを招いて・・確信した」の通り、「確信」が与えられた。
更に大きな御心があり、神はヨーロッパ宣教へと導かれた。

私たちもここで学ぶ事ができる。状況的に目の前の門が閉ざされたなら、導きが別の方向にあるという事だ。
まずよくよく祈ろう。自分の思いを明け渡し、祈るなら、目の前に御心の門が開かれる。
そこで尚も祈り「確信」が来たなら、その道へ進もう。

不安があるなら、急がずに、平安が与えられるまで待ち、祈り続けた方がよい。
平安による確信が来たなら「ただちに」行動しよう。
又、目前で門が閉じられた場合も、別の更に大きな御心の道がある。
-----------------
計画通りに事が運ばない時は、何度でも導きを祈り求めてみよう。
それは神が閉ざされていると捉え直す道かもしれない。
日常の些細な選択にも御霊の導きがある。
主の導きのままに日々を歩もう。

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おはようございます。

2017年11月30日 06時11分32秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年11月30日 06時10分47秒 | キリスト教

聖アンデレ使徒

1世紀

 アンデレは、ガリラヤのベツサイダの漁師であった。初め洗礼者ヨハネの弟子であった彼は、イエスが通りかかったとき、ヨハネが「見よ、神の子羊を」(ヨハネ1.36)と言ったのを聞き、その晩はイエスと過ごした。翌日、兄弟シモン・ペトロ(聖ペトロ)をイエスのところに連れていった。その後、ペトロと網を打っていると、イエスに呼びかけられ、2人は従った(参照 マタイ4.18-20、マルコ1.16-18)。

 イエスは、その後12人の弟子を選び、アンデレもその中に入った。聖書の中でアンデレが登場するのは、イエスが行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6.8-10)などで、地味ではあるが、思慮深い性格が現われている。

 伝承によれば、イエスの昇天後ギリシャのパトモスで宣教し、そこでX型の十字架にかけられて殉教したといわれている。

 彼は漁師の保護者、またスコットランドの保護者とされている。特に東方教会では、特別な保護者として敬われている。

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◆思  い  や  り

2017年11月30日 06時08分13秒 | 聖書

正しい人は
寄るべのない者を正しくさばくことを
知っている。
しかし悪者はそのような知識をわきまえない。(箴言二九7)
上に立つ人・人を治める人に欠くことのできない資格の一つは、人への思いやりです。
自分に反対する敵に対してさえ、王は、思いやりがなければならないと聖書は言うようです。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ五44―45)。
私たちは、目に見える区別にばかり気をとられます。金持ち・教養のある人・知恵のある人・力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、年寄り・女子ども・貧しい人・力のない人・知恵のない人を、見くだしたり無視したり忘れたりしやすいのです。
養わなければならない子どもを、やっかいがってはなりません。次の世代を構成する人たちです。老人――それは、何年か後のあなたなのです。
発想を換えてみてください。
死を前にして、神のさばきの前に立って考える時、私たち一人一人は何とむなしく弱くけがれた者でしょう。金や肩書きや免状などは、何でもありません。すべてが平等です。死よりも強い神の愛・神の力の前に、自分を置いてごらんなさい。一羽の雀すら野の一本の花すら、神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人は一人もいないのです。上に立つ者は、すべての人に公平な思いやりがなくてはなりません。
 
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◆アマツヤは神の人に言った。

2017年11月30日 06時07分20秒 | 聖書
「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(Ⅱ歴代二五・九)
この質問は、ユダの王にとって非常に重要なものと思われる。また試練に会い、誘惑にさらされているクリスチャンにとっても、おそらく、さらに重要なものであろう。金銭において損することは、どのような場合でも快いものではない。正しい目的の場合でも、肉はその犠牲をいつも喜んでささげるわけではない。「有効に使用できるものをなぜ失うのか。真理の価はあまりにも高すぎるのではないか。あの金を失えば、私たちはどうすればよいか。子どもたちや、少ない収入のことを考えたらどうだ」と。このようなことがクリスチャンを誘惑して、正しくないことに手を出させるのだろう。あるいは、重大な損失をもたらすことが明らかな時、良心的な行動をちゅうちょさせるのだろう。この問題を信仰の光に照らして見ることは難しい。イエスに従う人々にとってさえ、「私は生きなければならない」という原則が大きな比重をもっている。
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」これは私たちの心配への完全な解答である。私たちの父は全世界の財宝の管理権をもっておられる。そして私たちが主のために失うものを、千倍にもして返される。主のみこころに従うのが私たちのなすべき分であり、従う時、主は必ず私たちのために備えられるのである。主は何びとに対しても債務者の地位には立たれない。
聖徒たちは、一粒の平安が一トンの黄金よりも尊いことを知っている。真実な心は、たとえ牢獄であろうと、神のほほえみさえあれば満足する。祝福に満ちたたましいは、宮殿にあっても神の不興にあえば地獄にいるように感じる。最悪の事態がやってこようと、すべての金銭を失おうと、私たちは自分の宝を失うことはない。神の右に座するキリストのもとにあるからである。現在においても、主は柔和な者に地を相続させ、正しく歩む者に良いものを拒まれることはない。
 
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詩篇78篇32-39節

2017年11月30日 06時05分52秒 | 聖書


78:38 しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押さえ、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。
78:39 神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。


私たちは、イスラエルの民のように、苦しい時には主に助けを求めますが、願いが聞かれますと、あたかも何もなかったような思いになって、主に対する感謝をせず、さらなる信仰へ進もうとしない時が多くあります。

主はこうしたあり方に、時には厳しい裁きを行われます。

しかし、その裁きを継続してはなさいません。

それは、人が愚かな者であり、またすぐこの世のことのみに目と心を向けてしまう、信仰の弱い、罪ある者であることを神がご存知であられたからです。

イスラエルの民のみではなく、罪深いこの私たちが生かされているのも、それは主の一方的な憐れみと恵みに寄っているのです。

そのことを覚えて少しでも、感謝の誠を示すことが出来るよう、祈り願っていきたいと思うのです。

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ダニエル書3章25節

2017年11月30日 06時03分39秒 | 聖書


★すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」


■O:今日のコラム
3人は燃える火の炉に投げ込まれることからは救われませんでしたが、燃える火の炉の中で救われました。ここから、モーセが見た柴を思い出します。

「すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。」(出エジプト3:2)

この柴のように彼らは焼け尽きなかったんです。

この火の炉というのは、試練に例えることができます。試練というのは、人間の目からは火の炉の中に投げ込まれ、辛い、苦しい、悲しいものに見えます。私たちは、その試練からは逃れることができません。この試練という火の炉に投げ込まれることからは救われないでしょう。しかしこの試練という火の炉の中で、私たちは救われるのです。

私たちが試練に会うとき、神様に祈ると思うんです。「どうか、この試練を乗り越えることが出来ますように。私をここから救い出してださい!」

神様は、私たちを救うことが出来ます。また救う方です。しかし、どのように助けてくださるのか、どのタイミングで助けてくださるのか、私たちの考える形で助けてくださるのか、それは分かりません。ただ言えることは、私たちを救うことの出来る、助け出すことの出来る神様であるということです。

私たち人間が考えるのは、炉の中に投げ込まれる前に神様が助けてくださるのが本当の助けだと思ってしまいがちです。炉に投げ込まれたら、もう溶けてしまって、終わりじゃないですか!って思ってしまいます。しかしここでは、彼らは実際に投げ込まれてしまいました。しかし、結果的に神様は彼らを救い出されたんです。

彼らは偶像を拝みませんでした。不利な環境、不利な立場に置かれても、私の神様は私を助けてくださるお方だという信仰がありました。私たちは、炉の中に投げ込まれてしまったらおしまいだと思ってしまいますが、しかし、死からよみがえられたイエス様は、私たちに語られるではありませんか。ですから、死んでおしまいではないんです。

イエス様を例にして、死んでおしまいではないんです。このお方に自分を預けたら、神様は必ず最善な道へと導いてくださいます。神様は私たちにとってどうでもいいようなことをするようなお方ではないということを覚えましょう。このお方が私たちの神様であることを感謝します。

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)

この約束を受け取ります!



■A:考えてみよう
試練の時だからこそ、火の炉の中で救われることを信じ、神様に委ねていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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11月29日(水)のつぶやき

2017年11月30日 02時38分31秒 | 仏教
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