座間コミニティー

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◆神よ。

2017年11月15日 16時00分44秒 | 聖書
私たちのためになされた事を堅くしてください。     (詩篇六八・二八英訳)
神が私たちの内になされたわざを堅くしてくださるように、絶えず嘆願することは、私たちに必要であり、またそれは私たちの知恵の現れでもある。これを怠るために、多くのキリスト者は、不信仰から生ずる試練と霊の苦しみに悩んで、自らを非難する。サタンが、麗しい心の花園に洪水を送って荒廃させようとねらうことは事実である。しかし、多くのキリスト者が水門を開き、力強い助け主に祈るのを怠って、不注意にも恐ろしい洪水を招くことも事実である。
しばしば私たちは、信仰の創始者がまたその維持者であることを忘れる。神殿の内に燃える灯火は、絶対に消すことを許されなかった。しかしそのために、毎日新鮮な油の補給を要した。同様に私たちの信仰も、神ご自身から与えられる恵みの油に支えられてのみ、維持できるのである。もし灯火に必要なものを得ないならば、私たちは愚かな娘であることを自ら証明することになろう。この世界を造られた方が支えてくださるのでなければ、それは一大音響とともに崩れ去る。同様に、私たちをキリスト者とされた方が、ご自身の御霊によって支えてくださらなければ、私たちは速やかに決定的に滅亡する。だから私たちは、夕ごとに主のみもとに行き、必要な恵みと力とを求めようではないか。私たちが「堅くしてください」と主に求めているものは、主ご自身の恵みのわざ、すなわち「私たちのためになされた事」だからである。
神がそのご自身のわざを、支え守ることに失敗すると思うか。ただあなたの信仰を、主の御力に堅くすがらせよ。そうするならば、地獄の首領に率いられたあらゆる暗黒の勢力も、あなたの喜びと平安とを曇らせることはできない。強くなり得る時に、なぜくじけてしまうのか。勝利者となり得る時に、なぜ敗北を招くのか。ああ、あなたのその動揺する信仰と、うなだれた徳とが補強され活気づけられるために、それを主のみもとに携えていけ。そして、「神よ。私たちのためになされた事を堅くしてください」と切に祈れ。
 
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「あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない・・

2017年11月15日 15時59分27秒 | 聖書

わたしがこうなるようにしむけたのだから」(Ⅱ歴代11:4)

レハベアムはユダとベニヤミンの選抜戦闘員18万人を集め、王国を取り戻すためにイスラエルと戦おうとした。
そこに、神の人シマヤに主の言葉があった。
「上って行くな。あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない。
おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしているのだから」と。

イスラエルがダビデの家にそむいたのは、神の主権と支配の下のことであると。
それで、人々は主の言葉に聞き従い、北王国への行軍を中止して引き返した。
「わたしがこうなるようにしむけた」。神から出たことであった。

今、あなたに問題が起きているだろうか。「わたしがこうなるようにしむけた」。
「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」神から来たものは、しっかり受け入れよう。

それが大きな祝福とされて行く。神を無視して立ち向かい、戦って行くなら、更なる問題と混乱を引き起こし、秩序を壊し、自分も大きな痛手を負う。
今もし、厳しい試練にあるなら、それも「わたしがしむけたのだから」との主の御心だ。

私たちの益と祝福と成長のための訓練だ。必ず豊かな結実を見る。
又、ハピーな事が臨んでいたら、それも主がしむけられたものであり、感謝し、喜ぼう。
----------------
起こる事の背後には確かな神様がおられる。必ず益となる意味があることを信じ試練から学ぼう。
神様を忘れて落胆とつぶやきの中で解決を誤ってしまわないように。

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おはようございます。

2017年11月15日 06時50分19秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年11月15日 06時49分41秒 | キリスト教

聖アルベルト司教教会博士

1193年ごろ-1280年

 アルベルトは、南ドイツの、シュワーベンの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。北イタリアのパドバ大学で、医学、自然科学などを学んだ。新しくできたばかりのドミニコ会を知り、その精神に共鳴して、1223年にドミニコ会に入った。司祭となった。アルベルトは修道院で哲学、神学などを教え、その間に当時の学問をすべて習得して「全科博士」と呼ばれた。

 1245年からは、パリ大学で哲学・神学を講義し、その深い知識は多くの学生を惹きつけた。学生の中に中世最大の神学者聖トマス・アクィナスもいた。その後、ドミニコ会の研究機関設立のため、トマスとともにケルンに赴き、研究生活を送った。ドイツの管区長、レーゲンブルクの司教を経てボヘミアの十字軍説教者となった。

 アルベルトは、アリストテレスの思想をドミニコ会に導入し、西方教会全体に浸透させようと努力し、多くの著作を残した。彼は、信仰と理性との間に明らかな区別をした最初の神学者であり、単なる理性だけでは、だれもイエスの託身・復活は理解しえないと主張した。

 科学者の保護の聖人といわれている。

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◆一人の人によって

2017年11月15日 06時48分33秒 | 聖書

国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。
しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、
それは長く安定する。        (箴言二八2)
昔ユダヤの国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれていました。自分の野心のために動く指導者が次々と現れた北のイスラエルでは、次々と暴動・クーデター・革命が起こり、二世紀の間に九回も王朝が替わりました。ユダ王国は、まがりなりにも、ダビデの子孫が神を恐れて国を治めたので、三世紀半続きました。
どんなに多くの指導者や権力者がいても、自分の欲望の満足に明け暮れするのでは、国は滅びます。しかし、たった一人の正しい人――つまり、神を恐れ民を愛する、私心のない一人の指導者が国を救います。
ソドムとゴモラの町では、人々が勝手に振舞い、罪の欲望のままに暮らしていました。神がその町々を滅ぼそうとされた時、アブラハムはソドムの町に住むロトを助けようとして夢中で神に祈ったことが、創世記一八章に記されています。「神さま、あのソドムにも五十人の神を恐れる正しい人がいたら助けてくださいますか。」「助ける」と神は答えられました。「四十五人では助けてくださいますか。」「助ける。」「四十人では……。」「助ける。」「三十人では……。」「助ける。」「二十人では……。」「助ける。」「しつっこいようですが、十人では……。」「助ける。」この神とアブラハムの問答を読む時、神のみ前に、そのたった一人がどんなに大切かを知らされます。
イエス・キリストは、神と罪の世の間にたった一人立ち、その十字架によって世を救われました。そして、家庭の中で、職場で、たった一人の神を恐れる人・私心のない愛し祈る人を、どんなに神が求めていらっしゃることか知れません。その一人がどんなに大切な役割をするかを、ひしひしと覚えます。あなたは、「分別と知識のある」つまり、神を恐れるその一人でしょうか。
 
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◆主の割り当て分はご自分の民である……。

2017年11月15日 06時47分46秒 | 聖書
(申命三二・九)
彼らはなぜ神のものであるのか。神ご自身の主権に基づく選択によってである。神は彼らを選び、その愛を彼らの上に注がれる。神は彼らの中に何か良いものがあるかどうか、また、将来どうなるかなどにはかかわりなく、このようになさる。神はあわれもうとする者の上にあわれみを注ぎ、選ばれた人々を永遠のいのちに定められる。こうして、彼らは神の自由な選択によって神のものとなった。
彼らは選択によってだけでなく、買い取られることによっても神のものとなった。神は彼らを買われ、最後の一円までも支払われた。彼らは金や銀のような朽ちるものによらず、主イエス・キリストの尊い血によって完全に贖われた。神の財産の上には抵当権は設定されていないから、債権者たちによって訴訟が起こされることはない。代価は公然と支払われたのだから、教会は永遠に主の所有である。すべての選ばれた者の上にある血の跡を見よ。人の目には見えないが、キリストはそれを知っておられる。主は、ご自身がいのちを投げ出して救われた羊たちの数を数え、ご自身をお与えになった教会をよく記憶しておられるのである。
彼らは征服されることによって神のものとなった。主はどれほど長く私たちの心を包囲攻撃されたことか。どれほどしばしば、主は開城せよと勧告なさったことであろう。しかし私たちは主に対して門戸を閉ざし、垣をめぐらした。主が奇襲によって、私たちの心を陥れられたあの輝かしい瞬間を記憶しているだろうか。あの時主は、城壁に十字架をかけ、私たちの壁をよじのぼって、私たちの本陣に、主の血に染まった全能なるあわれみの御旗を打ち立てられたのではないか。しかり、まことに私たちは主の全能の愛によって征服された捕われ人である。
このように私たちが選ばれ、買われ、征服されて神のものとなった以上、神の私たちに対する所有権は、何ものにも譲渡されることのないものである。私たちは自分が決して自分自身のものでないことを喜び、日々主のみこころを行って、神の栄光を現したい。
 
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詩篇75篇6-8節

2017年11月15日 06時45分57秒 | 聖書


75:6 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。
75:7 それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。


人の前で高くされる人というのは、財力があったり、知力がある、また、人望のあるという人が多いことです。

しかし、神の前ではそうではないというのです。

東からでも西からでもない。

つまり、この地の広がりの内にあるところの人々から見いだされるものでもないというのです。

 では、誰がそうなのかと言いますと、主が裁かれるので、主の前に喜ばれる人、そのような人が高く上げられるというのです。

この世のことのみに心を向けて、神のことに思いを持たず、また、神の御支配を認めないような人々にとっては、全くの思い違いの現実が、その時に起こされるというのです。

 この世と来るべき世における支配は、人の手の内にあるのではありません。

神御自身の御手の内にあるのです。

ですから、主と共に歩むことが、最も大事なのです。

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テモテへの手紙第一2章4~5節(雅歌3章)

2017年11月15日 06時43分33秒 | 聖書


★神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。 また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。


■O:今日のコラム
この手紙はパウロから彼の霊的息子であるテモテへ宛てられた手紙です。テモテのことを、パウロはコリントの教会への手紙の中で次のように語っています。

「テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。 彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」(1コリント4:17)

パウロがそうであったように、テモテもまた「キリスト・イエスにある生き方」を人々に思い起こさせる証し人である、とパウロはテモテのことを紹介しています。

このテモテへの手紙の中において、パウロはテモテに、「キリストの証し人としての生きる」その生き方、証し人の歩みがいかなるものであるかを教えています。それをふまえつつ、今日の御言葉を見ていきましょう。

今日の箇所は、詳訳聖書では以下のように記されています。

「神は、すべての人々が救われて、神の真理をますます明確に悟り、知るようになることを、望んでおられるのです。その真理とは、神は唯一であるということ、そして、神と人との仲立ち人も唯一、すなわち人間キリスト    ・イエスである、ということです。」(1テモテ2:4-5)

神は、すべての人々が救われることを望むのと同時に、すべての人々が「神が唯一である」ということ、また「救い主が唯一である」という真理を悟ることを願っておられるのです。

私たちの主が神であり、ただひとりである、という真理。シンプルで、誰もが「そりゃそうだ」と思うことでしょう。しかしながら、自分たちの歩みを振り返る時、あらゆる領域でいかに自分自身が「神」となっているかを気付かされるでしょう。物事や周りの人々に腹を立て、それらを批判する時、自分独自の「善と悪」で物事や人を判断しています。それはまるで自分が、義の審判者である神の働きにとってかわっているようです。

思うように物事が進まない時、思いがけないことが自分に起こる時、願っているものが手に入らない時…etc あらゆる場面で人は「神様、なぜですか?!!」と天に向かって詰問します。そのような時、主が主であることを、人は忘れているのです。

「私たちの神は、 天におられ、その望むところをことごとく行われる。」(詩篇115:3)

「主は望むところをことごとく行われる。天で、地で、海で、またすべての淵で。」(詩篇135:6)

神が神であられることを、悟り、神を恐れ敬うならば、神が御心のままになされることに、どうして人は反発し、神に失望し、信仰を失うことがありえるでしょうか。

これは決して、私たちの気持ちや感情を無にさせて、苦しくても理不尽に絶対服従しなければならいというわけではありません。私たちの神は信頼するに価するお方だからです。

「あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、 あなたとともに住まないからです。」(詩篇5:4)

主はわざわいではなく、私たちの最善をいつも願われるお方です。ですから、あらゆることを安心して委ねきり、信じ切ることが出来るのです。

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)

創世の初めからおられたお方、この天地宇宙を造られた方は唯一です。ユダヤ人にとって、この創造主が神であるということは揺るがぬ真理であり、私たち異邦人が抱くような「果たして神はおられるのだろうか?」といった疑問、神がいるのかいないのか、といった疑問は問題外だそうです。ユダヤ人たちは、神が神であるという信仰のゆえに、国を失い世界中に散り散りになった長い年月の中でも信仰は途絶えることなく、神の民として存続してきました。

私たちの救い主も唯一です。十字架の愛によって、私たちは買い取られた身分です。買い取られた者が、命を捨ててまで愛し買い取ってくださった方のために、その御心の願われる通りに生きていくのは、当然ではないでしょうか。

キリスト・イエスにある生き方、キリストの証人としての歩み、私たちの人生の中であらわされるべき真理。それは神がどこまでも神であられるということ、そして、私たちの救い主はイエス・キリスト唯一であるということです。それを今日、心に刻みましょう。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。 主はただひとりである。」(申命記6:4)



■A:考えてみよう
私たちは「神様は私に何をしてくださるのでしょうか?」ということばかりを主に問うてきました。けれども、今日からは「神のために私に何ができるでしょうか?神のために私はどのように生きていくべきでしょうか?」という祈りと願いをもって、キリストの証人としての歩みを共に全うしていきましょう。




■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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11月14日(火)のつぶやき

2017年11月15日 02時37分38秒 | キリスト教
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