座間コミニティー

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◆ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

2017年01月21日 16時00分48秒 | 聖書
(ヨブ一・九)
このことばは、昔義人ヨブについてサタンが発した悪意ある質問であった。しかし、今の世では、まさしくこの質問に該当する多くの人がいる。彼らは神が繁栄を与えられるので、神を愛するのである。彼らは逆境に陥るならば、誇っていた信仰を打ち捨てる。もし彼らの回心の時からすべてがうまく運ぶならば、肉的な、あわれな方法で神を愛するであろう。しかし、一度患難に会えば、彼らは主に反抗する。彼らの愛は、食卓を愛する愛であり、客をもてなす主人に対する愛ではない。配膳の棚に対する愛であって、主人に対するものではない。
しかし真のクリスチャンは、この世では苦難に耐えて、来るべき世での報いを期待する。旧約の約束は繁栄であったが、新約の約束は苦難である。
キリストの次のみことばを覚えよ。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」あなたが実を結ぶことを願うならば、苦難に耐えなければならない。あなたは「ああ、たまらない」と言う。しかしこの患難こそ、尊い実をもたらす。患難を受けるクリスチャンは、患難に会って喜ぶことを学ばなければならない。患難の多い時には、キリスト・イエスによる慰めも豊かだからである。
神の子どもであるならば、あなたにとってむちは避けられないことを覚えて、心を安んじなさい。すべての金の延べ棒は、いつかは火の中を通らなければならない。恐れてはいけない。むしろ、そのような実りの時があなたのために備えられていることを喜べ。その時あなたは、地上を離れて天国に入るにかなう者とされるからである。あなたは現在に対する執着から救われ、やがて示される永遠のものを熱望する者とされるであろう。現在、利得を離れて神に仕えていると感じるなら、来る世の無限の報酬を喜ぶことになろう。
 

「あなたがたの身をきよめなさい。

2017年01月21日 15時59分38秒 | 聖書

あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」(ヨシュア3:5)

今、あなたの前に、とうとうと流れるヨルダン川が、エリコの頑丈な城壁が、立ちはだかっているだろうか。
自分ではどうにもできない、難問題かも知れない。
しかし神は導いて下さる。

まず、「あなたの身をきよめよ」と言われる。
御前に静まり、御霊に心をよく探って頂いて、御心にそぐわない罪を悔い改めよう。

妬みや怒り、高ぶり、自分の思い通りとの頑固な意志、決して赦そうとしない心、なおざりにしている事・・御霊に導かれるままに、心を照らされ、一つ一つ神に告白しよう。

エリコ攻略のために、神は不思議な方法を示された。
町の回りを1度回り、7日目は7度回り、ときの声を上げる。変わった方法だ。
しかし、民がその通りに、神が言われた通りに、ただ従順に従った時、エリコの城壁は崩れ落ちた。

いっさい人間的な何の力でもなかった。神の力であり、奇跡であった。
神の御声を聞いて、神の示される事に、言われた通りに従うことが秘訣だ。
あなたの前に立ちふさがっている、難問題の城壁が崩れ落ちて行くのを見る。

どうであれ、神の方法で導かれる。
自分の内側の城壁が崩れ落ち、平安にされるのかも知れない。
御心なら状況を変えられ、御心なら自分自身が変えられ、自体を受け入れる事が出来るようにされる。

身をきよめ、御声に従おう。主は不思議をされる。
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自分のうちにある罪に気づいているだろうか。それなら神様の告白し赦していただこう。
神様との正しい関係に立ち、そして後はすべてを神様にお任せしてついて行くだけだ。
必ず神様の栄光を見る。 


今日の聖人の記念日

2017年01月21日 07時54分48秒 | キリスト教

聖アグネスおとめ殉教者

3-4世紀初頭

 アグネスは、ローマの名門の家に生まれた。当時は、キリスト教迫害時代であったため、多くの信徒たちが信仰を守り殉教してゆく姿を見て、彼女も富や名声よりも神に身をささげたいと願うようになった。

 美しいアグネスには多くの縁談があったが、すべて断った。そのため、彼女がキリスト信者であることが分かると、すぐに訴えられた。そしてどんな拷問にあっても、決して信仰を捨てない彼女は、ついに死刑を言い渡された。彼女は「キリストは私の花婿です。最初に選んでくださったのはキリストですから、私はその方に従います」と言って亡くなった。

 後に彼女は有名になり、キリスト教を国教としたローマ皇帝コンスタンティヌスは、自分の娘に彼女の墓の前で洗礼を受けさせたといわれる。その後、墓の上には聖アグネス聖堂が建てられた。

 アグネスは、羊を抱いて描かれているが、ラテン語で「子羊」を意味する「アグヌス」と似ているためだといわれている。


◆好意を持たれる生活

2017年01月21日 07時53分34秒 | 聖書

恵みとまことを捨ててはならない。
それをあなたの首に結び、
あなたの心の板に書きしるせ。
神と人との前に
好意と聡明を得よ。          (箴言三3―4)
イエス・キリストの十二歳の時のことが、「知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(ルカ二52)と書かれています。人に好意を持たれることは、万人の願いではないでしょうか。
ところが、人に好かれようと思ってかえって失敗する人が多いのです。ニュージーランドのある大学生は、相手の好意を得たいがために肉体を与えて、ばかにされ捨てられました。また、仲間にしてもらいたくて酒や麻薬に手を出し、心身をぼろぼろにしてしまった例もあります。罪の特徴は、仲間づくりです。「平気だ、やろうやろう」と引き寄せにかかります。そこで、満たされていない寂しい人は、そんな罪の仲間づくりのえじきになってしまいやすいのです。
聖書のことばは、「人を恐れるとわなにかかる」と警告しています。人に気に入られようと鼻息をうかがってばかりいるのは、実に危険です。ほんとうに好意を持たれるのは、第一に神に喜ばれ、第二に人を幸福にする生き方なのです。
要約すると、恵みとまことに徹することです。そんなことはもう流行おくれで、だれも生活信条にしていないように見えます。しかし、私たちが今も必ず他人に要求していることは、うそや裏切りのない誠実と、理解・同情・思いやり、つまり恵みにほかなりません。
十字架にまでかかられたキリストの一生は、この恵みと誠実との模範です。パウロはキリストに従い、恵みとまことのしるしとなった、その十字架を誇りとして生きました。
 

◆こうして、

2017年01月21日 07時52分31秒 | 聖書
イスラエルはみな救われる……。(ローマ一一・二六)
モーセが紅海で歌ったのは、イスラエル人がことごとく安全に救われた歓喜の歌であった。両側にそそり立った海の水は、神の民イスラエルの最後の一人が安全に向こう岸に達するまで、しぶき一つ飛ばさなかった。すべてが終わると、水はすぐにもとの状態に返ったが、それまでは分かれたままであった。モーセの歌の一部は「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導」かれたというのである。
終わりの時になって、救われた者が神のしもべモーセの歌と小羊の歌を歌う時、イエスは「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」と喜ばれるだろう。天国においては、たった一つの位も、空席のままで残されることはない。
 選ばれた民はみな
 御座の周りに集って来て
 恵みのみわざをたたえ
 御栄えをほめたたえるだろう
神が選ばれたすべての者、キリストの贖われたすべての者、聖霊が召されたすべての者、イエスを信じたすべての者は、必ず分かれた水の門を無事に通り抜けるのである。しかし、私たち全部の者が、無事に岸に行き着いたというのではない。
 隊のうちのある者はすでに海を渡り終え
 ある者は今渡りつつある
先陣はすでに岸に到達している。私たちは今、指導者に従って、一生懸命に海の底を歩いている。だから、元気を出そうではないか。今先陣のいる所へ、まもなくしんがりの者も着くのである。召された民の最後の一人がまもなく海を渡りきって、すべての者が安全になった時に、勝利の歌は聞かれる。
しかし、ああ、もしだれか一人がいなかったり、選ばれた家族のうちの一人が捨てられたりしたら、贖われた者の歌には永遠に調和が失われ、楽園のたてごとの糸は断たれ、妙なる調べは奏でられることがないだろう。
 

詩篇7篇10-13節

2017年01月21日 07時50分51秒 | 聖書

7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。
7:12 悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、
7:13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。



 「神は正しい審判者、日々、怒る神」であると言われます。

正しい審判者と言いますのは、一切の罪や汚れを見逃すことはありませんし、また、その裁きは正当な裁きであられる、と語っているのです。

つまり、ごまかしや偽りがない裁きを行われるというのです。

私たちは、このような正しいお方によって裁きを受けるのですから、その裁きにおいて、罪の許しを受けることが出来るためには、神の御子であられるイエス様による贖いの恵みによる罪の赦しに、信仰を持って預かることが大事なのです。


 また、ここでは「日々、怒る神」であられると語っています。

神は、私たちが日々犯す罪に対しても、怒りを持ちたもうと語っているのです。

ですから、私たちは日々自分の犯した罪を主の前に悔いて、イエス様による救いに、日々寄り頼むことが大切なのです。


マルコの福音書2章20節

2017年01月21日 07時47分08秒 | 聖書


★しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。


■O:今日のコラム
2011年、最初の40日断食を行なった時、とにかくお腹が空き、食に対し敏感に反応するようになり、たとえば道を歩いていて「ラーメン」と書かれた文字を見ただけで、もう自分の内でラーメンの味を想像しはじめ、自分自身の生活を食が占めている割合の大きさを初めて実感しました。
さらに初めての40日断食の期間に4回も豪勢な食事に誘われ、その食事の席で食事をただ見ているだけという大きな試練を味わいました。そんな断食の期間の中、ある夜眠ろうとしたらあまりに圧倒的な主の愛が大波の様に私に押し寄せ、涙が溢れて止まらなくなり「主よ。あなたを愛しています。」と主に申し上げると、「私も、もっと大きな愛であなたを愛している。」という主の応答があり、あまりにも豊かな主の愛に圧倒される事を経験しました。この時、ただ苦しいだけの断食ではなく、主の親密さを慕い求める「花嫁の断食」の醍醐味を体験しました。
その経験以来、断食をしてお腹が空く度、「主よ。私は食べ物以上にあなたの臨在を愛しています。」と告白し、お腹が空く時を、主を思う時とするようになりました。
断食は食べ物を絶つ事がメインですが、それだけでなく、噂話しやおしゃべりを絶つ断食(イザヤ58章)、またテレビやメディアを絶つ断食もあります。いずれにしてもその目的は、パリサイ人がイエス様に質問をしたように、宗教的で律法的な行為の達成を目的とするのではなく、全て、この花婿なるイエス様を愛し慕い求める切なる飢え渇きから始まる事が大切です。その時私達は苦しみの断食から、喜びと楽しみの断食(ゼカリヤ書8:19)を経験する様になります。
この終わりの時代に、花嫁なる教会と聖徒達が、花婿なる主イエスを愛しているのでこの世の満足や、この世の楽しみ、他のもので自分を満たしたくない。ただ主によって満たされたい。という花婿を切に求める、花嫁としての断食を定期的に行う事が出来ます様に。いきなり全食抜く事が難しくても、一食を抜いてその時間を礼拝の時間としたり、自分の楽しみの時間やテレビを見る時間を祈りの時間として主に捧げたり、日常の生活の中で花嫁としての断食を行い、主を愛する喜びで絶えず満たされ、もうすぐにでも戻って来られる花婿なるイエス様をお迎えする備えをしようではありませんか。


■A:考えてみよう
主に祈り、聖霊様の導きの中で、まず出来る範囲から日々の生活の中で断食の歩みをする事が出来ますように。そのプランを立て、実行してみましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月20日(金)のつぶやき

2017年01月21日 01時30分49秒 | キリスト教