座間コミニティー

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◆私たちはぶどう酒にまさってあなたの愛を覚えます。

2017年01月23日 15時11分05秒 | 聖書
(雅歌一・四英訳)
主はご自分の愛を、その民に忘れさせるようなことはなさらない。彼らがその受けた愛をことごとく忘れてしまうようなことがあれば、再び新しい愛を携えて訪れてくださる。「わたしの十字架を忘れたのか。ではあなたにそれを思い出させよう。わたしの食卓でわたし自身を新たにあなたに示そう。永遠の会議室で、わたしがあなたのために何をしたかを忘れたのか。ではそれを思い起こさせよう。あなたは助け手が必要であろうから、あなたの招きに応じようと、いつもわたしが待っているのを、見いだすことになろう」と。
母親は子どもたちに、自分のことを忘れさせない。もし息子がオーストラリアに渡って便りがないならば、手紙を出す。「おまえはお母さんのことを忘れたのかい」と。すると優しい返事が来て、母親の慈愛の手紙がむだではなかったことがわかる。イエスにしてもそうである。主は「わたしを覚えなさい」と言われ、私たちは「あなたの愛を覚えます」と答える。
あなたの愛と、その愛の比類ない歴史とを覚えます。それは世の始まる前に、父なる神とともにあなたがもたれた栄光のように古いものです。おお、イエス様、私たちの保証となり、また私たちと婚約してくださったあなたの永遠の愛を覚えます。あなたの犠牲を示す愛、時の満ちるまでその犠牲を思いめぐらしていた愛を覚えます。そして、「しかり。わたしはすぐに来る」とあなたについて記されている、その時の来るのを、私たちは切実に待ち望んでいます。
おお、イエス様。ベツレヘムの飼葉おけからゲツセマネまで、聖なるご生涯の中に示されたあなたの愛を私たちは覚えます。私たちは生涯、あなたの御足の跡をたどります。あなたのすべてのみことばとすべてのみわざは愛だからです。死も飲み尽くせなかったあなたの愛、復活において輝きわたったあなたの愛を私たちは喜びます。選ばれた民がすべて安全な憩いに入り、シオンがあがめられ、エルサレムが天上の光と愛の永遠の基礎の上に据えられるまでは、決してあなたを沈黙させない燃える愛の火を私たちは覚えます。
 
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「わたしがあなたがたに話したことばは、

2017年01月23日 15時09分36秒 | 聖書

霊であり、またいのちです」(ヨハネ6:63)

信仰人生で、ある時、試練が立て続けに臨む事を経験する。
これでもか、これでもかと、次々と苦しみが容赦なく襲い来る。

ある人が、親が倒れ、介護生活に入り、心身疲労が溜まる中、子供が警察沙汰を起こした。
悩みと苦しみ、非常な痛みの中、更なる試練が臨んだ。
信頼していた人の裏切りに会い、多額の負債を抱え込んだ。

もう心もボロボロで、立ち上がる気力もない。
うずくまったまま、何もできず、失意のどん底だった。まさにどん底を経験した。

しかし、そのどん底に主がおられたのだ。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。
産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。
夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」が光のごとく心に臨んだ。

それは、神が自分に対して語られた、霊でありいのちなる言葉であった。
心に光が射し込んだ。信仰がよみがえった。
その言葉は、沈んだ心にあかりをともし、目を上げさせ、失意から信仰へと、死から命へと生き返らせた。

主のあわれみは尽きず、自らの力が尽きた、その時にこそ、真に主に出会う。
無力を知る時こそ、大きな恵みの時だ。
神の口から出る言葉は、どんな状況であろうと、私達を失意の渕から起こし、新しい力を与え、生かしてくれる。
---------------------
主の言葉が真に心に落ちてくる時は、例えそこが闇の底であっても一番幸せな時だ。
自分の内がどうであれ、周りの状況がどうであれ、神様を見上げる事ができるなら、そこに神様のいのちが注がれる。

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倖せな人生

2017年01月23日 14時29分35秒 | 聖光会

あなたの大切な人からありがとうと言われる人生。

 

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不幸な人生

2017年01月23日 14時22分51秒 | 聖光会

ありがとうを言えない人生。

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ありがとうございます

2017年01月23日 13時53分17秒 | 日記

今日1日、感動と感謝の一日から始まり隣人の支えになり生かされていることを気付かせていただいています。

今日の残りの日も誰かのために隣人のために生かされている感謝をしながら。

あなたもあなたの隣人も今日一日倖せでありますように祈っています。

合掌  大西

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おはようございます。

2017年01月23日 06時55分48秒 | 日記

今日一日

徳を積むため隣人の倖せのためにある一日でありますように。

あなたも今日一日感動と感謝の1日でありますように。

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今日の聖人の記念日

2017年01月23日 06時51分24秒 | キリスト教

 聖イルデフォンスス(トレド)司教

607年ごろ-667年

 イルデフォンススは、スペインのトレドの貴族の家に生まれた。両親からの反対にもかかわらず、彼はベネディクト会修道院に入り修行に励んだ。霊的にも知的にも深く、仲間からの信望を受け、後に修道院院長に選ばれた。657年にはトレドの大司教に任命され、教会のために貢献した。

 イルデフォンススは、偉大なスペイン人についての伝記や教父の著作の要約などを著わした。

 彼は、聖母マリアへの信心が厚いことでも知られており、司教座大聖堂で聖母マリアから祭服をいただいた夢を見たという話が絵画にも描かれている。
 彼はスペインで尊敬され、親しまれている聖人である。

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◆まっすぐな道

2017年01月23日 06時50分15秒 | 聖書

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言三6)
一昔前の日本の道路は、たいてい狭い砂利道で曲がりくねっていました。バスに乗っていても天気の日はほこりがもうもうと立ち、車の中まで侵入するので、顔もほこりだらけになったのです。ひどい凸凹道では、胃と腸がひっくりかえるような苦しさでした。ところがそういう時に、急に舗装されたまっすぐな道へ出ることがあります。すると、今までとは打って変わって、快適なスピードでバスは走りました。
人生にも同じようなことがいえるのではないでしょうか。私のところにたくさんの相談の手紙が寄せられます。夫婦別れをしたいのだが、どうしようか・男に捨てられた・姑とうまくいかない・人生の目的が分からない・男に肉体をささげたが捨てられた、どうしたらよいのか・病気で病院を出たり入ったりの生活・職場の人間関係がもつれている・独りぼっちで愛されていない・息子に構ってもらえないなど、人生の途上にさまざまな悩みがあるのです。
ところが、神の約束は、まっすぐな道を私たちに与えてくださることです。そこを歩く人は、元気が出て迷うことなく進み、目的地に向かってまっしぐらに進み、必ず行き着くことができます。
まっすぐな道を歩むその秘訣を、「どこにおいても、主を認めよ」と聖書は語ります。「神は、私を愛していらっしゃる。神はその十字架の血潮により、よみがえりの力によって、私を助けてくださるのだ。神は私のために、豊かな生活を計画してくださる。すべてのよいものを備えていてくださるのだ。」――どんな時にも、そこに神を見ることが秘訣です。
 
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◆民の中から選ばれた者を高く上げた。

2017年01月23日 06時49分22秒 | 聖書
(詩篇八九・一九)
なぜキリストが民の中から選ばれたのか。私の心よ。語れ。心の思いは真実である。それは、キリストが私たちと血を分けた兄弟となるためではなかったか。キリストと信者の関係はなんとすばらしいものだろう。信者は次のように言うことができる。「私には天に兄がいる。私は貧乏であるかもしれないが、兄は富んでおり、そして王である。兄は王座にありながら、この私に不自由させるだろうか。いや、そんなことはない。兄は私を愛している。彼は私の兄だからだ。」
主にある友よ。この幸いな思いを、ダイヤモンドの首飾りのようにあなたの記憶の首に巻け。金の指輪のように回想の指にはめ、あなたの信仰の祈りに捺印する王の玉印として用い、祈りが聞きとどけられることを信じよ。キリストは、あなたの悩める時のために生まれた兄である。それゆえ、そのように兄を用いよ。
キリストが民の中から選ばれたのは、また、私たちの欠乏を知り、私たちに同情するためであった。主は「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」。私たちのすべての悲しみにキリストは同情される。誘惑、苦痛、失望、優柔不断、怠、貧困――キリストはこれらすべてを知っておられる。なぜなら、キリストはすべてを体験されたからである。
主にある友よ。これを覚えて自らを慰めよ。あなたの道がいかに困難で苦痛に満ちたものであろうとも、その道の上には、あなたの救い主の足跡が記されている。たとえあなたが死の陰の谷を通り、ヨルダンの濁流の淵に臨んでも、そこに主の足跡を発見するだろう。私たちがどこへ行こうと、主は先立ってそこへ行かれたのだ。私たちの運ばなければならない荷物はみな、すでにインマヌエルの肩に載せられたのである。
 主の道は私の道より、険しくまた暗かった
 主なるキリストが苦しまれたのだ
 どうして私がつぶやけよう
雄々しくあれ。血潮に染められた主の足跡が途上に印せられ、いばらの道を永遠にきよめている。
 
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詩篇8篇1-2節

2017年01月23日 06時47分58秒 | 聖書


8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。



 幼子と乳飲み子の口と言いますのは、言葉ということです。

乳飲み子が言葉を語るということは少ないかも知れません。

しかし、お母さんにお乳をもらう時などに出す言葉などは、意味がわからなくても、見ている人をほのぼのとさせるものです。

また、意味のはっきりした言葉でなくても、子供自体が示している事実が、言葉となって人に伝わってくることがあります。

それは、幼子の成長の早さとか、自然に乳を慕う姿勢、あるいはその目や足などの発達における不思議さです。

こうしたことは皆、神の力と知恵の表れであることを見るのです。

従って、そのことを見るだけでも、神のことを認めようとしない人々、あるいは、神を恐れようとしない人々の愚かさが出ています。

「それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者をしずめるためでした。」と語っていますが、こうした幼児が、彼らを黙らせるというのです。


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詩篇124篇1~3節(マルコの福音書5章)

2017年01月23日 06時45分56秒 | 聖書


★『「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」
さあ、イスラエルは言え。
「もしも主が私たちの味方でなかったなら、
人々が私たちに逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたまま
のみこんだであろう。
彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、」』


■O:今日のコラム
私たちは、神の側に立つべきです。世の中には二種類の人間がいると言えるでしょう。それは、神の側に立っている人とサタンの側に立っている人です。世の中は、神の国とサタンの国しかないので、人はどちらかに立っている事になります。神の子どもがサタンの側に立ってしまう事もあるのです。それは、人をさばいたり、引き下げたり、あざけったりする時にそうなります。神の側でありましょう!どちらに立っているかをハッキリさせている事は、霊的な戦いにおいて重要です。

『わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。』(マタイ12:30)

『わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。』(マルコ9:40)

  主が私たちの味方であるなら誰が敵対できるでしょうか?しかし、主が味方でなかったら、というのがこの詩篇です。味方、敵の区別はどこで付けられるのか?が重要なのではないでしょうか?それは、私たちの言葉と信仰の行いによる事がマタイ12:30、マルコ9:40を見ると分かると思います。
  霊的な戦いにおいて最前線で戦うのは、御使いです。闇をもたらす悪霊たちも御使いであり、悪霊と戦うのも御使いである事がダニエル書を見ると分かると思います。その時には、天使ミカエルが、ペルシャの君と戦ってくれて勝利が与えられました。
  イエス様は、いつでも私たちの模範ですが、そのイエス様にも御使いが仕えていました。しかし、その時にも、どちらに立つかがハッキリしないと御使いは仕える事が出来なかったのです。

『イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。』(マタイ4:10~11)

  私たちの口の言葉が、まず信仰の告白、御言葉の告白になっている事は重要です。私たちは、この言葉を軽く扱う事は出来ません。神の子どもの言葉には、霊的な力があるのです。良くも悪くもです。この口から、甘い水と苦い水が両方出てくる事は良くない事です。この言葉が信仰の告白、御言葉の告白であるなら、私たちは、神の側に立っている事が明らかになるのです。そしてそれは権威の傘に入っている
という事もできます。

『ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。』(1コリント11:10)

  御使いたちのためにも、言葉によって、行いによって神の側に立っていることをハッキリさせましょう!行いも同様に重要なのです。なぜなら御使いは、救いの相続者たちに仕える霊である、と聖書にあります。

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』(ヘブル1:14)

  では、救いの相続者とは何でしょう?私たちは、キリストの血によって相続者とされますが、それを放棄してしまう事があります。何によって判断されるでしょう?それは行いによってです。

『肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』(ガラテヤ5:19~21)

  御使いは、相続者に仕える霊なのです。口では良いことを言って、行いが違うなら、御使いは、キチンと仕える事が出来ません。


■A:考えてみよう
言葉が、信仰の告白、御言葉の告白であるように、またその通りに行えるよう求める。


■P:祈り
私の口が信仰の告白、御言葉の告白という、御霊の物を蒔き続けることができるようにさせてください。またその通りに行えるように助けてください。    

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1月22日(日)のつぶやき

2017年01月23日 01時31分22秒 | キリスト教
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