座間コミニティー

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◆そこで、イエスは、

2017年01月19日 17時14分40秒 | 聖書
聖書を悟らせるために彼らの心を開いて……。(ルカ二四・四五)
昨晩、私たちは聖書を開かれる主を見たが、今夜は弟子たちの心を開いてくださる主を見る。第一の仕事において、主は多くの同労者をもたれるが、第二の仕事では、主は孤立しておられる。聖書を心にまでもってこられる人は多い。しかし、主のみが聖書を受け入れるように人の心を備えられる。私たちの主イエスは、他のすべての教師とは異なる。他の教師たちは私たちの耳に触れることができるが、主は私たちの心をさとされる。彼らは文字の表面的な意味を説明する。しかし主は、真理を味わう味覚を与えてくださる。それによって私たちはその風味と精神とを把握する。主イエスが聖霊によって神の国の奥義を啓示し、天来の油を注いで見えないものを見えるようにされる時、最も無学な人々でも、恵みの学校の大いなる者となる。
主によって私たちの心が開かれ、強められるならば、なんという幸いであろうか。なんと多くの博学な人々が、永遠のことに対して無知であろうか。彼らは啓示の殺す文字を知るが、生かす霊に気づかない。彼らはその心にベールをかけている。肉の理性の目は、それを破って見通すことができない。私たちも少し前まではそうであった。真理は私たちにとってやみの中の美にすぎず、気づかれない、打ち捨てられたものであった。イエスの愛がなかったなら、私たちはなお全くの無知にとどまっていたことであろう。主が恵みによって私たちの心を開かれるのでなければ、私たちが霊的知識に達することができないことは、幼児がピラミッドに登ることができず、だちょうが星まで飛んで行けないのと同様なのである。
イエスの学校は、神の真理を学ぶことができる唯一の場所である。他の学校は、私たちに何を信ずべきかを教えるかもしれない。しかし、キリストのみがそれをどのように信じたらよいかを示すことができる。イエスの御足のもとに座り、熱心な祈りをもって、私たちの鈍い心が鋭くなり、弱い悟りが天上のことをわきまえるように、主の幸いな助けを求めようではないか。
 

「私はこわくなり、出て行って、

2017年01月19日 17時13分50秒 | 聖書

あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」(マタイ25:25)

1タラントは少額ではない。6千万円に相当する額だ。
このしもべは、減らす事を恐れた。
もし商売失敗したら、泥棒に盗まれたら・・、主人の怒りが恐い。

とにかく無くさないよう必死であった。そのため地に埋めた。
しかし、帰還した主人は、使い込んだわけでなくそのまま返した、彼を怠け者と叱責し、追い出した。

失敗して減るより、いいのではと思いそうだが、主人の思いの置き所は違った。
彼は、無くしさえしなければ問題ないだろう、主人に関わりたくなかった。

5タラントと2タラントの者が儲けたのは、主人を喜ばせたいとの動機だった。
そこに主人への信頼があった。万一失敗しても、主人は受け入れてくれると。
だから思いきり商売できた。

埋めた彼は、主人理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい人と。
そんな主人のために何をしたいとも思わなかった。私たちはどうだろう?
神理解が間違っていないか。

怯える恐い方だろうか。常に要求され、取り立てる神であり、罰が恐いから従っているか。
神の最大の賜物は、私たちへのキリストの愛であった。

御父と私たちは、その愛の信頼関係にある。
主人はしもべに期待して、失敗のリスクも負った上で、信頼のゆえタラントを預けた。

「主人の喜びを共に喜んでくれ」喜びを共にするために。
御父の大きな愛と信頼を受け取る時、精一杯応えようとしないだろうか。
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与えられた賜物を喜んで使う、その心を神様は喜んで下さる。
そのお心がわかるので、また感謝して賜物をお献げできる。
しなければならないのではなく、神様の喜びを自分の喜びとして行く大人の信仰で、歩んでいこう。


今日の聖人の記念日

2017年01月19日 07時20分54秒 | キリスト教

聖カヌート4世殉教者

1043年ごろ-1086年

 カヌートは、デンマーク国王スウェーノ2世の息子として生まれ、幼いころから帝王としての教育を受けて育った。カヌートが王位を継承するはずであったが、彼の信仰深さを嫌った諸侯たちは、弟のハラルドを国王としたため、カヌートはスウェーデン国王ハルスタンのもとに行った。ハラルドが亡くなったのち、諸侯たちはカヌートを国王として迎え、彼の寛大な態度に心を打たれた。当時、デンマーク周辺はヴァイキングの脅威にさらされていたため、カヌート自身も軍をひきいて彼らと戦い、配下の者たちの海賊行為を禁じた。

 彼は、国内の財政改革や、その他多くの改革を行った。またフランドルの王女と結婚したころからデンマークのキリスト教化に熱心に取り組み、修道院や聖堂を建てるなどした。彼自身は、ぜいたくを好まず質素な生活をしたが、1085年に、彼の政策に不満をもつ諸侯たちによる反乱が起こり、翌年彼は捕えられ、オーデセンの教会で殺された。


◆長 寿 の 秘 訣

2017年01月19日 07時19分38秒 | 聖書

わが子よ。私のおしえを忘れるな。
私の命令を心に留めよ。
そうすれば、あなたに長い日と、
いのちの年と平安が増し加えられる。(箴言三1―2)
幸せで長いいのちを楽しみたい、これはだれもが持つ自然の願いです。しかし、ただ八十歳・九十歳・百歳まで息をしていればいいのではありません。
あるおじいさんは、水を断って自ら生命を断ちました。ずいぶん苦しかったことでしょう。しかし、ただ長く生きることに耐えられなかったのでした。ロンドンでは、七十歳のおばあさんが自殺しました。発見された日記帳には三六五日一日も欠かさず、「きょうもだれも訪ねてこなかった」と書かれていたのです。
長寿の幸福の内容として、人はどんなことを考えるでしょうか。
・ 体が健康で長生きすること。
・ 心が満足していること。
・ 人々を愛し愛されるよい人間関係にあること。
邪魔にされたりのけ者にされていては、長生きしてもかいがないと思うかもしれません。
この幸せで長いいのちの秘訣は、神のいましめを守ることによって得ることができます。ことに有名な十戒の中には、はっきりとこう書いてあります。「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」(出エジプト二〇12)。
十戒全体を初めて見ると、きゅうくつに見えるでしょう。しかしこれは、あなたが幸福で長生きするための完璧な秘訣なのです。もう一度読んでみてください(出エジプト二〇1―17参照)。
 

◆私が捜しても、

2017年01月19日 07時18分51秒 | 聖書
あの方は見あたりませんでした。(雅歌三・一)
あなたがキリストを見失った場所を私に言え。あなたがキリストを見つけ出せる場所を教えてあげよう。密室の祈りを怠ったためにキリストを見失ったのか。それなら、そこでキリストを尋ね、キリストを発見せよ。あなたは罪を犯すことによってキリストを見失ったのか。キリストを発見する道は、罪を離れ、聖霊によって、肉欲の宿るからだを従わせる以外にはない。聖書を読むのを怠ったためにキリストを見失ったのか。あなたはキリストを聖書の中に見つけ出せ。
「落とした場所を捜せ。落としたものは必ずそこにある」ということわざは真実だ。だからあなたが見失った場所でキリストを尋ねよ。キリストはその他の場所には行かれない。しかし、キリストに帰るということは困難なことである。バニヤンは、巡礼があずまやに忘れた巻き物を取りに帰った道が一番の難路だったと語っている。二十キロ前進するほうが、忘れものを取りに一キロ後退するよりも楽である。
だから、主を発見した時には、主にすがりつくように注意せよ。しかし、あなたはどうしてキリストを見失ったのか。キリストのような尊い友――いっしょにいることが楽しみであり、そのみことばは慰めであり、道づれとしてこの上ない人――と別れるということなど、とうてい考えられないことである。キリストを見失うまいと絶えずキリストに目をつけていなかったとは、なんとしたことか。
とはいえ、あなたがキリストを見失ってしまった後に、「ああ、キリストはどこにおられるのだろう」とうめきながら、なおキリストを捜すだけの熱心があるのは、なんという恵みであろう。キリストを捜し続けよ。なぜなら、主を見失っていることは危険だからである。キリストのないあなたは、羊飼いのない羊であり、根に水分のない木、いのちの木から離れてあらしに吹きまくられている枯れ葉のようなものである。全力を傾けてキリストを捜せ。必ず発見できる。ただ捜すことに没頭するならば、必ずキリストを発見し、喜び楽しむことができる。
 

詩篇7篇3-5節

2017年01月19日 07時17分24秒 | 聖書


7:3 私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、
7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、
7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。



 彼はここで「わたしの手に不正があるのなら」、「親しい友に悪い仕打ちをしたのなら」、「敵対する者から奪ったのなら」と、このように語って、自分がそうした者であるならば、自分を敵の手に陥れて下さっても結構です、とこのように語っています。

彼はここで、自分の完全な正しさということを語っているのではありません。

サウル王に対しては、神がたてられた王として真実を尽くしてきました、と言っているのです。

もしそのようにしなかったならば、私はあなたのみ心を無視する者となっていたことでしょう、と言っているのです。

 イエス様によって罪の赦しを受けた者にとっても、主の御心を大事にするということは、大切なことなのです。



★第一サムエル記31章10節

2017年01月19日 07時15分19秒 | 聖書


彼らはサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納し、彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした。


■O:今日のコラム
この数章前、28章に、サウルが霊媒をする女にサムエルを呼び出すように言い、そのサムエルが、サウルに、イスラエルはペリシテ人の手に渡されると語り、それが、今日の章で現実なものになりました。

この第一サムエル記を通して、サウルの一生を見てみると、彼は、いつも神様よりも、人を恐れ、人の目を気にしているのが読み取れると思います。人に恥じられることがないように、自分の力で王という地位を保とうとしていました。

しかし、彼の最後はどうだったでしょうか?

彼は結局、ペリシテ人に殺され、それだけでなく、彼の死体はペリシテ人の街の城壁にさらされたと、今日の記述に書かれています。

城壁にさらされるとは、公共の場にその死体がおかれ、通りゆくペリシテ人の見世物になるということです。それも、サウルの場合、首までも切られているので、ひどい状態です。
サウルは一生をかけて、自分のイメージが悪くならないように、また自分に恥をかけたくなかったのに、彼の最後は、自分の顔に泥を塗り、「恥」で終わってしまいました。


■A:考えてみよう
どんなに私たちが努力して、人に自分のことをよく見せようとか、人の目を気にして、人から恥にならないように、一生をかけても、もし、私たちが主のことばに従うことをしなければ、最終的には、サウルのように、恥を味わうことがあります。神様のみ声に従うことは、時には、人からみて恥になることかもしれませんが、それに従うのを選択する方が、サウルが受けた残酷な終わりになりません。サウルの失敗談から私たちも学んでいきましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月18日(水)のつぶやき

2017年01月19日 01時30分38秒 | キリスト教