主によって私たちの心が開かれ、強められるならば、なんという幸いであろうか。なんと多くの博学な人々が、永遠のことに対して無知であろうか。彼らは啓示の殺す文字を知るが、生かす霊に気づかない。彼らはその心にベールをかけている。肉の理性の目は、それを破って見通すことができない。私たちも少し前まではそうであった。真理は私たちにとってやみの中の美にすぎず、気づかれない、打ち捨てられたものであった。イエスの愛がなかったなら、私たちはなお全くの無知にとどまっていたことであろう。主が恵みによって私たちの心を開かれるのでなければ、私たちが霊的知識に達することができないことは、幼児がピラミッドに登ることができず、だちょうが星まで飛んで行けないのと同様なのである。
イエスの学校は、神の真理を学ぶことができる唯一の場所である。他の学校は、私たちに何を信ずべきかを教えるかもしれない。しかし、キリストのみがそれをどのように信じたらよいかを示すことができる。イエスの御足のもとに座り、熱心な祈りをもって、私たちの鈍い心が鋭くなり、弱い悟りが天上のことをわきまえるように、主の幸いな助けを求めようではないか。