座間コミニティー

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◆手がきよく、

2014年07月04日 16時43分36秒 | 聖書

心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。(詩篇二四・四)

外に現れた実際的な聖潔は、非常に貴重な恵みのしるしである。多くの信仰告白者は、信仰による義認の教理を曲解して善行を軽蔑する傾向があるが、恐るべきことである。もしそうであれば、終わりの大いなる日に、彼らは永遠の恥辱を受けるであろう。
もし私たちの手がきよくないなら、イエスの尊い血潮によって自ら手を洗い、きよい手を神に向かって上げようではないか。しかし、「きよい手」は「きよい心」と結合するのでなければ十分ではない。真の宗教は心の働きである。私たちは、杯や皿の外側は心ゆくまで洗う。しかし、その内側が汚れているならば、私たちは神の御前に全く汚れたものなのである。私たちにとって、真の自分は私たちの手よりもむしろ心であるから。私たちのいのちは、私たちの内なる性質にある。それゆえ、私たちには内なるきよさが絶対に必要なのである。心のきよい者は神を見るからである。その他の者はみな、目の見えない者にすぎない。
天国を目ざして新生した人は、「そのたましいをむなしいことに向け」ない者である。すべての人はそれぞれ喜びをもち、彼らのたましいはそれに望みをかける。世俗的な人のたましいは空虚な肉の楽しみに望みをかける。しかし、聖徒はいっそう価値あるものを愛する。豚の食べるいなご豆に満足する者は、豚といっしょに数えられる。この世はあなたを満足させるか。ではあなたは、この世において報いと財産を得たのである。それを楽しむがよい。あなたにはそれ以外の喜びはないからである。
「欺き誓わなかった人」――聖徒は名誉を重んじる人々である。クリスチャンは、ただ一つの誓いしか誓わない。しかしそれは、他の人の二十の誓いに匹敵する。欺きのことばは人を天国の外に閉め出す。なぜなら、うそつきは彼の言行がどのようなものであっても、神の家に入ることができないからである。読者よ。冒頭の聖句はあなたを責めるか。それともあなたは、主の山に登ることを望むであろうか。

 


「この四十年の間、

2014年07月04日 16時39分11秒 | 聖書

荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」(申命記8:2)

学生はテストにより、その学課がマスター出来たどうかを試されるが、神も私達の信仰をテストされる。
このテストが試練だ。苦しめ、心の内にあるものをあらわにするためと。
試練により普段から心の内にあるが、決して気づかない自分の心を知る。
隠れたプライドや虚栄心、貪欲、自己中心に気づく。
苦しみの荒野でなければ、圧迫がなければ、決して気づけない、自らの心の底にあるものだ。
この1年歩ませられた行程、試練の中で見せられた自分の姿、又、教えられた霊的教訓一つ一つをしっかり心に刻もう。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした…それであなたのおきてを学びました」
「あなたを苦しめ、試み、ついにはあなたをしあわせにするため」
練りきよめ成長させて下さるため、神の目的は祝福のためだ。
苦しい試練が、ついには喜びと幸せに結実して行く。
この1年振り返り沢山の学びを感謝しよう。
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試練の中で自分の本音の姿を見せられる。
ドロドロで、いかに醜く罪深いか。しかし、そのままが受け入れられ愛されており、まさにそのための十字架だと知る。
試練の時に神の深い愛を知る。


今日の聖人

2014年07月04日 06時28分09秒 | キリスト教

聖エリザベト(ポルトガル)皇后

1271年-1336年

1271年-1336年 エリザベトは、スペインのアラゴニア王ペトロ3世の娘として生まれ、12歳のときに、ポルトガル王デニスと結婚した。皇后となったエリザベトは、法律の制定や孤児の救済に力を尽くした。国王の女性問題から宮廷を追放されたが、王が病気になって死にゆくときには、今までの仕打ちを赦し、自ら王の看病に当たった。王が死去したのち、彼女はフランシスコ第三会に入った。コインブラに修道院を創立して、そのそばの小屋で祈りと黙想に専念し、修道女たちの世話をしながら生涯をささげた。


◆悟  り  は  宝

2014年07月04日 06時26分55秒 | 聖書

悟りのある者を一度責めることは、
愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。(箴言一七10)

「悟りのある者」とは、けっして頭のいい利口者ということではありません。
アウグスティヌスは、一流の少壮学者として修辞学では令名をはせていました。しかし当時の風潮のまま、ある女性と道ならぬ関係を続けていたのです。ところがある日、イチジクの木の下でふと聖書を手にして、ローマ人への手紙一三章から読みました。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(12―13節)。ひとことが、ぐさっと深く魂の底まで届き、彼は神の前に悔い改めて、まわれ右をして神に従いました。その日から、アウグスティヌスは新しい人になりました。
神のことばは、失敗を通して語りかけることも、友やいろいろの事件を通して語りかけることもあります。それに対して柔らかい心を持つ人こそ、悟りある人ではないでしょうか。大分前のこと、私の職場である老牧師が、愛に満ち、しかも私たちの心を探る鋭いメッセージをしてくださいました。その聖書のことばの語りかけに対して、私たちはみな、涙にくれながら神のみ前にひれ伏し、悔い改めて祈りました。ところが、中に一人だけ、平気な人、いいえ、私たちを見て嘲笑っていた人がいました。しばらくして、その人は大きな罪を犯していたことが明るみに出て、職場を去らなければなりませんでした。利口な人でした。しかし、心のからが硬く、神のことばも人のことばも、その人の心の奥底まで届かなかったのです。
心が柔らかくて、神の叱責も人の叱責も心の底で受け止めて悔い改める人は、それゆえ、愛に成長する人です。そんな悟りのある人となりたいと思います。

 


◆真理によって彼らを聖め別ってください。

2014年07月04日 06時26分03秒 | 聖書

(ヨハネ一七・一七)

聖潔は新生に始まる。神の御霊は人のうちに新しい生活の原則を注ぎ込み、それにより彼は、キリスト・イエスにあって「新しく造られた者」となる。新生に始まるこの聖潔の働きは、二つの方法によってなされる。――一つは克己であり、肉の欲を制してこれを従わせること。他の一つは霊的生命の付与である。つまり、神が私たちのうちに置かれたいのちが泉となってわきいで、永遠のいのちにまで至る。これは、日々神の「永遠の保証」によって行われ、これによりクリスチャンは恵みの状態に保たれ、神を賛美し、神の栄光を現す良いわざに富む者とされる。さらにこれは「栄光」の中にあって絶頂に達し、完成されるのである。全く聖められたたましいは、その時いと高くいます大能者の右に、聖なる方とともに住むために上げられる。
このように神の御霊は聖潔の導き手であられるのだが、そこには目に見える仲保者が必要であることを忘れてはならない。イエスは、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です」と言われた。私たちを聖める手段が神のみことばであることを証しする聖句はきわめて多い。聖霊は私たちの心に真理の教えをもたらし、力強く迫られる。それを私たちは耳で聞き、心に受け入れる。そしてそれは私たちのうちに神のお喜びになることをしようとする思いを起こし、かつ実行にまで至らせる。真理は聖めるものである。しかし、もし私たちが真理に目や耳を貸さないならば、聖潔における成長は見られないであろう。私たちがこのことを深く悟ってこそ、生活においても進歩が可能になるのである。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」との聖句について「そんな意見もあるのだ」というような誤った考えを抱いてはならない。判断が誤っているならば、行為もいつしか誤ったものとなる。真理を堅く保て。真理を堅く保つことによってこそ、あなたは神の御霊によって聖められるのである。

 


第1サムエル記2章8-11節

2014年07月04日 06時24分24秒 | 聖書

2:8 一方、サウルの将軍であったネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテをマハナイムに連れて行き、
2:9 彼をギルアデ、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤ ミン、全イスラエルの王とした。
2:10 サウルの子イシュ・ボシェテは、四十歳でイスラエルの王となり、二年間、王であった。ただ、ユダの家だけはダビデに従った。



 サウルが死んだ後、生き残ったサウルの将軍アブネルは、サウルの子のイシュ・ボシェテをマハナイムに連れて来て、そこで彼を全イスラエルの王としました。

マハナイムというのは、ヤベシュ・ギルアデから少し南の方に行った町で、ペリシテ人の手が及ばないところでした。

アブネルがイシュ・ボシェテを王にしたのは、彼だけがサウルの家系で残っている人物であったからです。

その結果、イスラエルの各地の町の人々が、彼のことを王として認めました。

しかし、ユダ族だけはダビデを自分たちの王であるとし、アブネルには同意しませんでした。

イシュ・ボシェテは2年間、イスラエルの王として、サウル王朝の地位を守りました。


コリント人への手紙 第一 9章:26-27節(申命記25章)

2014年07月04日 06時22分03秒 | 聖書

★  ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

■O:今日のコラム

私達の信仰の歩みが怠慢になり、喜びを失ってしまうのは向かうべきゴールを見失ってしまう為に起こります。どれだけ訓練されたマラソン選手でも、ゴールがどこかわからないレースに臨むなら、途中で疲れ果て走ることを止めてしまうでしょう。

同じように私達の信仰の歩みも向かうべきゴールを見失う時、試練の中を耐えぬく事や、狭い門を通り主の道を歩む事に疲れ果て、意味を見出せなくなってしまうものです。

私達、主の民のゴールはどこにあるのでしょうか?

それは黙示録の19~22章に記されています。
そこには天における花婿イエスとの婚姻があり、新しいエルサレムに住まい、永遠に主と共に生きる事が約束されています。

このゴールから決して目をそらしてしまってはなりません。このゴールを見続けるなら、私達は聖さを愛し、たとえ多くの試練があっても主の道に生きる事を願い、御言葉に従う情熱を続ける事が出来るでしょう。

パウロは、御言葉を人々に宣べ伝えるだけではなく、まず自らが御言葉を受け、それを実行し、従う事に力を注いでいました。パリサイ人や律法学者は人に厳しく言うが、自分がその戒めを主の心にかなうようには行なっていませんでした。

私自身この様な状態に決して陥りたくないと願っています。その為にも、まず自分自身が御言葉を日々読み、それを実行して行くことの大切さを学んでいます。

共に栄光に満ち溢れたゴールを見続けて、この地上での歩み、それぞれに任せられたコースを走り抜きましょう。その為に力も主は聖霊様によって私達に与えて下さいます。

■A:考えてみよう

今日、御言葉を読み、それを実行する力を主に祈り求めましょう。そして生活の様々な面において御言葉を自らが実行する者となる事が出来ます様に。

■P:祈り

主よ。私はあなたを愛し、あなたの御言葉を愛しています。どうかこのあなたの約束の道を歩む事が出来ますように、今日も聖霊様、私を満たし、導いて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


7月3日(木)のつぶやき

2014年07月04日 01時52分23秒 | キリスト教