座間コミニティー

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◆彼らを、君主たちとともに……

2014年07月26日 17時19分13秒 | 聖書

王座に着かせられる。(詩篇一一三・八)

私たちの霊的な特権は最高のものである。「君主たちとともに」とは、選ばれた社会の地位を言う。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」選ばれた社会といっても、これほどすばらしいものはほかにない。私たちは「選ばれた種族、王である祭司」である。私たちが近づいているのは、「天に登録されている長子たちの教会」である。
聖徒たちは宮廷の聴衆である。一般人が遠く離れて立っていなければならない時、「君主たち」は王国の中に入ることを許可される。そのように神の子たちは天の宮廷に自由に出入りすることができる。「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」使徒は言った、「ですから、私たちは……大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と。
「君主たち」の間には豊かな富がある。しかし、信者の富に比べれば何であろう。「すべてのものはあなたのもの、あなたはキリストのもの、キリストは神のもの」だからである。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
「君主たち」は特別な権力をもつ。天国の君主は大いなる力をもつ。彼は自分の領土に支配権をふるう。彼はイエスの御座に座る。なぜなら、小羊は「私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされ」、私たちはとこしえに支配をするからである。
君主たちはまた、特別な名誉をもつ。私たちは、恵みによって置かれた高い所から、すべてのこの世の権威を見下ろす。神は「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これに比べれば、人間の権威は何であろう。私たちはイエスの誉れに共にあずかる。これに比べれば地上の光輝などは考える価値もない。イエスとの交わりは、王冠に輝く高貴な宝石にまさり、主と結合されることは、麗しく輝く宝冠である。

 

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「しかし、人が主に向くなら、

2014年07月26日 17時17分48秒 | 聖書

そのおおいは取り除かれるのです」(Ⅱコリント3:16)

サングラスをかけて、周囲を見るとどうだろう。
そのメガネの色に何もかもが見える。
自分の強い思いがあると、それがサングラスになる。
その強い思いで、すべてのものを見てしまう。
根に自分の強い思いがあり、自分の願望というサングラスで物事を見ているので、環境がそのようにならないと、受け入れられない。
全く喜べないし、絶えず不満と落ち込みに揺れる。
環境が自分のメガネに合った時だけ、喜ぶ事になる。
それは、たまたま自分の願望が神の御心と合致しただけだ。
自分の願望というメガネをかけて環境を見、御言葉を見ていないか。
神の御心というサングラスをかけたらどうだろう。
状況は同じでも、見方が全く変わって来る。
神のお心に照らし合わせて、環境を見る。
神に焦点を合わせ、神の価値観で判断し、神のみ思いを尋ね求めて行く時、どんな状況でも、そこにある神の計画や目的を知って行く。
今、自分の強い願望に支配されていないか。
神の御心というサングラスにかけ替えよう。
---------------
「自分の思い」のメガネで見るなら、曇って歪んでしか見えない。
「神の御心」のメガネなら、どんな状況の中でも神を見い出す。
そこに何にも代えられない、御霊の喜びがある。どちらのメガネで見ているだろう。

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今日の聖人の記念日

2014年07月26日 08時15分41秒 | キリスト教

聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ

 

 ヨアキムとアンナは、聖母マリアの両親と伝えられ、その生涯は、外典「ヤコブ原福音書」(2世紀)に述べられている。それによると、ヨアキムはナザレトで生まれ、アンナと結婚したが、長い間子どもに恵まれず、子どもが授かるように神に祈りをささげていた。アンナは40歳のころにマリアを産み、マリアを女性として申し分なく教育した。ヨアキムとアンナはイエスが誕生したときまで生きていたといわれる。アンナは、ブルターニュの守護の聖人とされている。レオナルド・ダ・ヴィンチによるアンナの聖画はルーブル美術館に保存されている。

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◆ぜいたくが似合う人

2014年07月26日 08時13分27秒 | 聖書

愚かな者にぜいたくな暮らしはふさわしくない。
奴隷が主人を支配するのは、なおさらのこと。(箴言一九10)

愚かな人にぜいたくは似合わないとは、辛らつなことばです。ソロモンは、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ」(箴言一一22)と言いました。これも、ぜいたくが似合わない姿です。成りあがりの金持ちが、料亭に行って、玄関で札に火をつけて自分の履き物を捜させたという昔の話を聞いたことがあります。これもやはり、ぜいたくが似合わない姿です。
ぜいたくが似合うとは、どういうことでしょうか。何年か前、私は旅の途中にちょっと寄り道をして、鹿田という昔ながらの陶器づくりの村へ行ってみました。そこでは、動力機械で陶土をくだかず、昔どおりに水車で土をくだいて陶土をつくっていました。豊かな水が川から流れ、水車の水受けの古い木箱に注ぎます。そして、水がその箱をいっぱいにしてあふれるようになると、ゴットンと音がしてその箱は傾き、今までためていた水をみな注ぎ出してしまいます。すると、ゴットンときねが動いて土をくだくのです。あふれて、与えつくして、お役に立つ。――これこそ、ぜいたくが似合う姿ではないかと思ったのです。
そういう人は、すべてのよきものはいつも神から来ることを知って、神を見あげ、神に期待しています。あふれるほどの神の恵みを心に受け、物質的にも与えられると、惜しげもなくそれを与えつくし、また、からになって神を見あげます。
愚かな者はそうではありません。自分のものでもないのに、自分のもののようにむさぼり、誇り、ためこみます。豊かな人生は、愚かな者にはふさわしくありません。すべてのよいもののもとである神、すべての主人である神をないがしろにして、自分が主人になって暮らす生き方は、人間としてふさわしい生き方ではないのです。

 

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◆あなたがたは、あらゆる努力をして、

2014年07月26日 08時12分36秒 | 聖書

信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(Ⅱペテロ一・五―七)

あなたがもし聖霊の感化と助けにより信仰の全き確信の恵みを得ることを願うならば、聖書に記されているように「あらゆる努力を」せよ。
あなたの信仰が正しいものであるように心せよ。すなわち、単に教理を信じるというのではなく、キリストにより頼み、キリストのみに信頼する信仰でなければならない。勇気をもって励め。神があなたに獅子の容貌を与えてくださり、あなたが正義の自覚をもって、恐れることなく、大胆に前進できるように願い求めよ。聖書をよく学び、知識を得よ。教理に関する知識は、信仰を堅固にするのに非常に役立つ。みことばを理解する努力をせよ。みことばを心の中に豊かに蓄えよ。
そして次に、「知識には自制を」加えよ。自分の肉体に注意をはらい、外側の自制を保て。あなたのたましいに心して、内部の自制を保て。くちびると、生活と、心と、思いとの自制を得よ。
それに、神の御霊により忍耐を加えよ。患難に耐え、鍛えられて金のようになって出てくる忍耐を与えられるように求めよ。苦難に際してつぶやかず、また落胆しないように忍耐をまとえ。忍耐の恵みを得たならば、次に敬虔を求めよ。敬虔は信仰心以上のものである。神の栄光を現すことを、生涯を通しての目的とせよ。神の御前で生活をせよ。神に近く住み、神との交わりを求めよ。そうすればあなたは敬虔を得る。
そしてそれに兄弟愛を加えよ。すべての聖徒を愛せよ。さらに、すべての人に手を広げ、それらのたましいを愛する愛を加えよ。あなたがこのような宝石によって飾られ、これらの天来の徳を実践するならば、その程度に応じて「あなたの受けた召しと選び」を明確な証拠の上に立って知るようになる。
もしあなたが確信を得たいと願うなら、「あらゆる努力」をせよ。なぜなら不熱心と疑いは常に伴ってくるものだからである。

 

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第2サムエル記6章16-19節

2014年07月26日 08時10分57秒 | 聖書

6:16 主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。



 ダビデにとって、主が共にいてくださるという印である神の箱を自分の宮に運び込むことが出来たということは、大きな喜びでした。

これに勝るところの喜びはありませんでした。

ですから、その神の箱を幕屋に安置した後、彼は神様に全焼の生け贄を献げ、また和解の生け贄を献げました。

神様の前に、献身と神様との交わりを求めるための捧げ物をしたのです。

そして民に対しては、全部の人々に、パンやナツメヤシのお菓子、そして干しぶどうの菓子を分け与えました。

こうして彼は、民と共にその喜びを分かち合ったのです。

 その喜びのあまり、踊り狂うダビデの姿を窓越しから見ていたダビデの妻のミカルは、ダビデのことをはしたないと言って見下していました。

彼女は、先代の王サウルの娘でした。

ですからダビデも、王としての権威と威厳を持つべき者と思っていたのです。

彼女はダビデの喜びがわからなかったのです。

心を共に出来なかったのです。

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ガラテヤ人への手紙2章20節(詩篇56篇)

2014年07月26日 08時07分47秒 | 聖書

★  私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

■O:今日のコラム

私たちクリスチャンはどのような歩みをしたら、主の栄光を現すことが出来るでしょうか?

たくさん答えはあると思いますが、そのうち1つは私たちが自分に死に、日々自分が負いべき十字架を負った時(ルカによる福音書9章23節)だと思います。

その自分に死んだ時に、生きたイエス様が私たちを通して現れると思います。

私たちが十字架を負った時、ヨハネが主を見て死人のようになった(ヨハネの黙示録1章17節)ように、自分は完全に消え、ただ主の栄光が現れます。

先日韓国からパク先生が来られた時、最後のセッションでひたすら「主の栄光が人生の目的」と、栄光のことを含めたティーチングしてくださいました。

天のお父さんは私たちと栄光を味わうために私たちを造り、私たちが罪の身体を脱ぐ時、肉を捨てる時に、栄光に入ることが出来るとおっしゃってました。アーメンです!

この地上で唯一主の栄光を味わうことが出来るのは「臨在」です。
この地上で味わうことが出来る「臨在」はどこで、私たちは体験出来るのでしょうか?

答えは「教会」です。教会は祈りの家であり、祈りの家は教会である。
教会に、祈りの家に、「主の栄光、主の臨在」があります!

■A:考えてみよう

私たちは主の栄光を共有するために造られ、この地上で主の栄光を現すために造られました。
私たちは日常、主の「臨在」をどれだけ味わっているでしょうか?

イエス様は私たちと栄光を分かち合いたいと願っておられます。

日曜日以外の週1日を祈りの家に足を運び、この地上で味わうことが出来る主の栄光を共に味わって行きましょう!

この地上で味わえる主の栄光をもーっと味わいたい! その飢え渇きがますますおこりますように!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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7月25日(金)のつぶやき

2014年07月26日 01時41分17秒 | キリスト教
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