座間コミニティー

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レビ記8章1-5節

2012年04月13日 06時37分38秒 | 聖書

8:2 「アロンと彼とともにいるその子らを連れ、装束、そそぎの油、罪のためのいけにえの雄牛、二頭の雄羊、種を入れないパンのかごを持って来、
8:3 また全会衆を会見の天幕の入口の所に集めよ。」
  ここから、アロンとその子供達が、祭司としての任職に預かる式のことが語られています。
この式をどのように行うかということは、出エジプト記の29章のところにすでに告げられています。
従って、その通りに行うことが、ここで命じられたのです。
 その式はアロンとその子らをつれて、装束を着せ、注ぎの油と生け贄の雄牛、2頭の雄羊、種を入れないパンを持って、なされました。
全会衆も集められました。
自分たちの祭司が任職されるからです。
 聖書は、モーセが「キリストの来るべき型」である言っています。
彼は、イスラエルの民を導くところの、神の言葉を託された預言者であり、また大祭司の上に立つ人として、祭司の働きをなしていることから、このようなことが語られているのです。
また、モーセは主が特別に民の上に立てた、宗教的な指導者であったのです。


◆欺きのはかり

2012年04月13日 06時28分21秒 | 聖書

欺きのはかりは主に忌みきらわれる。
正しいおもりは主に喜ばれる。     (箴言一一1)

今は、はかりには全部通産省の検定があり、度量衡はきちんと決められています。ところが、昔は、民間でそれぞれ自家製のはかりをつくって使っていたので、いんちきのはかりが横行しました。そして、お客をごまかし、不当な利益を得ていたわけです。
では、今は欺きのはかりはないかというと、とんでもないことです。銀行が不当なお金の動かし方をするのも、公団がから伝票を操作して不正なお金の動かし方をするのも、みな現代版「欺きのはかり」ではないでしょうか。毎日の新聞は、そのような「二十世紀の欺きのはかり」で満ちています。
聖書の神は、道徳的な神です。人間が不正なことをする時、神は悲しまれます。神が世界を造られた時、喜びでいっぱいでした。ところが、人間の不正が多くなって、神は悲しんでおられます。
神は、神を恐れて正しく生きる者を求めて、招いていらっしゃいます。「いのちに至る門は狭い」といわれるように、正しく生きることはつらく、きびしいことかもしれません。確かに戦いがあります。しかしけっして、正直者はばかを見るのではありません。正しく生きようとしたら、生き馬の目を抜く世の中で、独りぼっちに放り出されるような気がします。しかし、それはほんとうではありません。
神は見ておられ、正しく神に従って生きる者を喜ばれます。その報いは大きいのです。神は、そのように生きる人を助けてくださいます。
あるクリスチャンの大工さんは、くぎを三本打つところを五本打ちます。てまひまかけて家を建てています。そして、みんなに喜ばれ、住む人は満足しています。仕事も祝福されて、下職の人も、二十五年以上続いていっしょに働いています。その様子を見て、神は今も生きていてくださると感じます。

 


◆私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。

2012年04月13日 06時26分59秒 | 聖書

(雅歌一・一三)

没薬はキリストの型として真に適当である。価高く、芳香あり、心地よく、いやしの力をもち、防腐、消毒の作用があり、犠牲にも関係があるからだ。しかし、キリストはなぜ「没薬の袋」にたとえられるのか。
第一に、それは豊富さを意味する。少量ではなく、箱いっぱいの没薬であられる。一輪の花や小枝ではなく大束であられる。主の中には私の一切の必要を豊かに満たすものがある。それゆえその恵みに浴するのをためらわぬようにしようではないか。
さらに私たちの愛する者は、変化に富む点において「袋」にたとえられる。なぜか。キリストの中には必要なものが一つではなく、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っている」からである。すべての必要はキリストの中にある。その異なるご性格をながめて、あなたはその多様性に驚くであろう。すなわち、預言者、祭司、王、夫、友、羊飼いなどである。主の生涯、死、復活、昇天、再臨などを考え、主が備えておられる徳性、温和、勇気、自己否定、愛、忠実、真実、正義などを見ても、尊いものをことごとく含んだ束であられることがわかる。
主は、「没薬の袋」のように大切にされるべきお方である。床の上に投げたり踏みつけたりするものではなく、包装された没薬であり手箱に秘蔵されるべきものである。私たちは最上の宝として扱い、その言行を尊び、私たちのもつ主に対する思い、知識を悪魔に盗まれないように、錠をかけて守らなければならない。
さらにイエスは取っておきの「没薬の袋」であり、無比の恵みを象徴するものである。まだ世の基の据えられなかった時から、その民のために聖別されていた。主はその香りを、主との交わりに入る方法を知る者、また、主と親密な関係にある者にのみ与えられる。
「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです」と言い得る人こそ、神に選ばれた幸いな人である。