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●労災の意味●

2012年04月25日 12時15分42秒 | 労働法

 労災と言えば、仕事上のケガなどについて労災保険で、というイメージかと思いますが、労災保険は会社が加入する保険です。労働者の負担はありません。これは仕事上のケガや病気は会社の責任とされているからです。
 つまり労災保険による補償は、仕事上のケガなどに対する会社からの損害賠償という意味を持つものです。
 そもそも損害賠償は、民法709条の不法行為か415条の債務不履行に該当することが要件です。するとこの労災は、仕事上のケガですから、不法行為に該当することで損害賠償ができることになります。しかしこの不法行為が成立するためには、会社に故意や過失がなければなりません。民法では、故意または過失がある場合のみに損害を負担させることを原則としています。
 この民法の規定では、仕事上のケガについて、会社に責任を負わせる場合、法的な措置を取らなければならず、その負担があまりに大きいため、労働者保護に欠けることから、労基法で業務上のケガや病気については、会社の過失を問わず、会社の責任と規定しています。
 この責任を会社が十分に果たせるようにするための制度が、労災保険です。だから保険料は全額会社負担になるのです。ちなみに、健康保険は業務外のケガや病気が対象ですが、「国民健康保険」は業務上外を問わず、保険給付の対象となります。

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レビ記9章22-24節

2012年04月25日 08時49分26秒 | 聖書

9:23 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、
9:24 主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。
  アロンは民のために、罪のための生け贄、全焼の生け贄、それに和解の生け贄を祭壇の上に捧げました。
それから民を祝福しました。
アロンは、自分に関わる儀式をすべて終えてから、主の御名によって民を祝福しました。
次に、モーセとアロンは、会見の幕屋に入りました。
ここに入るのは、彼らにとって初めてでした。
モーセはそこで、アロンに、至聖所と聖所における働きについて、指示を与えたのでありましょう。
 彼らが聖所から出てきますと、主の前、すなわち聖所から火が出てきて、今まで燃やしていた犠牲の供え物を、完全に焼き尽くしました。
こうしてアロンは、その大祭司としての認証を、民の前で与えられたのです。
また神様は、こうして民が、主との交わりを与えられるための道を、完全に備えてくださったのです。

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◆美 人 の 資 格

2012年04月25日 08時36分58秒 | 聖書

美しいが、たしなみのない女は、
金の輪が豚の鼻にあるようだ。    (箴言一一22)

平林たい子さんは、こういうことを言っています。女の魅力は、「二十代は美貌。三十代は向こう意気。四十代は財産。五十代は知恵。六十代は童心」と。美しくありたいのは、世界中の女性の願いでしょう。しかし、顔の美しさだけでは勝負はできない。女性の魅力は、年齢と共に変わっていくのだと、平林たい子さんは言っているのでしょう。ただ、四十代は財産というところは、ちょっとひっかかります。
「美しいが、たしなみのない」と聖書に書かれているのは、美しいだけでたしなみがないという意味でしょう。美しい外形はしていても、豚が金の鼻輪をしているようなものだとは、辛らつです。美しいだけでたしなみがないとは、どんなことでしょうか。
第一に、美しさを鼻にかけてほかの人を見くだしていることです。外側の美しさは、ほんとうの自分ではありません。神が与えてくださった自分の持ち物にすぎません。だから、年月がたてば衰え、なくなっていきます。古びてしまわない美しさが必要です。
第二に、自分の美貌を武器にして、対人関係を切り抜けようとすることではないでしょうか。女性が美しいことに甘えて通そうとするのは危険です。対人関係の基本は誠実さです。美しさに誠実さがあれば、どんなにすばらしいことでしょう。しかし、美貌だけで誠実さのないのは、何とみにくいことでしょう。
この真理は、美貌ばかりでなく、能力・財産・教育など、すべてに置き換えられます。「財産があってもたしなみのない男は、……」ともなります。
誠実さ・思いやり・自己犠牲。――それらがほんとうの美しさだとお思いになりませんか。そんな内面的な成長はどこから来るのでしょうか。

 

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◆私の愛する方は、私に語りかけて言われます。

2012年04月25日 08時34分13秒 | 聖書

「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌二・一〇)

見よ。私は愛する者の声を聞く。主は私にお語りになる。暖かい気候が地の上にほほえみ、私をとりまく自然が冬の休息から覚め始める時、主は私のたましいを霊的な惰眠におくことを望まれない。主は「立て」と命ぜられる。私はすでに久しく俗世界に横たわっていた。主はよみがえられ、私は主にあってよみがえったのに、なぜいつまでもちりに未練を置くことがあろう。私は劣った愛、欲望、追求、熱情を離れ、立ち上がって主のもとに歩んでいきたい。
主は優しく私を「わが愛する者」と呼ばれる。私に「出ておいで」と言われる。私を一歩ずつ、利己主義、野卑、俗悪、罪の中から導き出される。そうだ。主を知らず、より高い生命の奥義を知ろうとしない、名ばかりの宗教的な世界から、主は私を召してくださるのだ。「出ておいで」との主のみことばには少しも厳しい響きはない。この虚栄と罪の荒野に引き止められる理由があるのか。
主よ。私は出て行くのを望みつつも、いばらに妨げられて自由になれません。ああ、罪を犯さないために、目も耳も、心さえもなかったならと思います。あなたは親しく「出ておいで」と言われます。それはすばらしい音楽の響きをもっています。あなたのもとへ来ることは、さすらいの旅から家庭に、荒海から港に着くことであり、また長い労働の後の休息であり、私の欲求のゴール、願望の絶頂にたどり着くことなのです。
しかし主よ。石ころはどうして立ち上がることが可能でしょうか。土のかたまりはどのようにして恐ろしい落とし穴から出ることができるでしょうか。ああ、私を起こしてください。あなたのもとに引き寄せてください。あなたの恵みにはそれが可能だからです。聖霊を送り、私のうちに聖なる愛の火を燃やしてください。そうすれば私は立ち上がり、いのちと時を後に残し、必ずあなたのもとへ行くことができるでしょう。

 

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