座間コミニティー

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●年休自由利用の原則●

2012年04月09日 08時55分34秒 | 労働法

 上司に年休をとりたい旨の申入れをした際に、年休の取得理由を聞かれることがあります。また一方で、年休を取得するのに、なんとなく理由が無ければ取れないような気持ちから、自発的に理由を言って、年休の取得を申し出たりします。
 しかしこれらは全く不要のもので、年休取得に理由など必要ありません。それは法的休日に何の理由も無く休むのと同じことです。年休取得時には、「何時取りたい」と、取りたい時季だけ告げることがベストです。
 しかし取得申出の際に、何で取るのか、何をするのか、などと上司が聞くことがありますが。これには答える必要がありません。自由利用の原則に反するからです。
 しかし、取得理由を聞かれているのに、それは違法です、などと返答すれば、上司も感情的になります。そこは大人の対応で、適当な理由を言えばいいのです。本当はデートでも、実家の親の見舞いに行く、とでも言っておけばいいのです。
 この場合に、もし本当のことがばれても、会社から処分されることはありません。そもそも年休は自由利用が原則で、その理由を聞くこと自体が問題なのです。適当なウソは、逆に大人の対応として評価されるべきではないでしょうか。


レビ記7章22-27節

2012年04月09日 07時43分32秒 | 聖書

7:23 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたは、牛や、羊、あるいはやぎの脂肪をいっさい食べてはならない。」
  ここで、牛や羊や山羊などの脂肪を、一切食べてはならないと告げられています。
また、死んだもの、あるいは引き裂かれたものの脂肪は、何に使ってもよいが、食べてはならないと告げられています。
さらにその血は、食べてはならないと命じられています。
牛や羊や山羊というのは、祭壇で主に捧げられるものです。
その捧げ物の脂肪の部分を、食べてはならないと言われているのです。
血は命の元ですので、命を与えてくださる主に属するものです。
ですから、飲むなと言わています。
 また脂肪は、内蔵など大事な器官を支えているものですし、また最も良いものです。
そうした大事なものは、主に捧げよと告げているのです。
つまり、主が命を与え、またその命を守っていてくださっているので、その大事なものを主に感謝して捧げるということが、求められているのです。
その他のところのものは、祭司、あるいは捧げた人が食べることが許されています。
「命は主のものである」ということを、大事に考えるべきなのです。


◆くちびるを制する

2012年04月09日 07時34分54秒 | 聖書

ことば数が多いところには、
そむきの罪がつきもの。
自分のくちびるを制する者は思慮がある。(箴言一〇19)

もし自分のしゃべることが全部録音されていて、それが全部公開されるとすればどうでしょうか。
アメリカ合衆国の大統領で、そんな目に会った人がいました。まだ記憶に新しいことです。大統領が陰でどんなことを言っていたかを知ったアメリカ人は、みなショックを受けました。そしてこの人は、自分が陰で言ったことによって恥を受け、失格者となりました。アメリカ合衆国大統領という世界最大の権力・力・地位は、ある意味で、地球の運命もにぎっています。彼がボタン一つ押せば、世界は吹っ飛びます。それほどの地位も権力も、その語ったことばによって帳消しになりました。ことばは、実に恐ろしいものです。
私たちは、大統領ほどえらくありません。しかし、自分のくちびるを制さなければ、結局は同じことをしているのではないでしょうか。私たちがべらべらしゃべる時、私たちの心のきたなさ・狭さがどうしても出てきます。自分に近い人・職場の人・ご近所の人・家族友人を話題にする時、「背きの罪」を犯してしまいます。信義に背くことばが出てしまい、後で自分で悩むこともありましょう。実際に争いが起こったり、知らぬ間に人間関係が損なわれたりもします。
語ることをやめるのは、知恵の始まりです。私の友人はこう言いました。「二つの耳と一つの口を神が人に与えられたのは、一つ話す間に二つ聞けということです。」語るより先にまず「聞け」、そして何よりもまず、「神のことばを聞け」ということです。人間の不幸のすべては、神のことばを無視して自分勝手に動いているところにあります。神は私たちを愛し、私たちの罪を悲しみ、ゆるしきよめようとしておられます。この神のことばをまず聞くことから始めましょう。
「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ一19)。

 


◆大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。

2012年04月09日 07時33分11秒 | 聖書

(ルカ二三・二七)

贖い主を悲しい運命に追いやったやじ馬に交じり、深い苦悩のうちに泣き叫ぶ人々もいた。――これは悲しみの行進にふさわしい挽歌とでも言うべきものである。
カルバリに十字架を運ばれる救い主を思う時、私のたましいは、敬虔な婦人たちに加わって共に泣く。なぜなら、そこに真に悲しむべき理由があるからである。その理由は、これらの悲しんでいる婦人の考えるよりはるかに深い。彼女らが悲嘆にくれたのは、罪のない者が虐待され、善良な者が迫害を受け、愛が鮮血にまみれ、柔和な者がまさに殺されようとしたからである。しかし私の心には、さらに深く激しい悲嘆の理由がある。それは私の罪が主の肩を引き裂き、血潮の流れる額にいばらの冠をかぶせたことである。私の罪が「十字架だ。十字架につけろ」と叫び、救い主の尊い肩に十字架を押しつけた。主が刑場に引き出されたことは、まことに永遠に悲しむべきことである。しかし私が主を殺したのだとなると、どれだけ悲しんでも足りない。貧しい涙の表し得ぬ悲哀である。
これらの婦人がなぜ愛し、かつ悲しんだかは察するに難くない。しかし私の心にある愛と悲哀の理由よりも大きくはなかったろう。ナインのやもめは、その子がよみがえらされたのを見た。しかし私は、新しいいのちによみがえらされた。ペテロのしゅうとめは熱病をいやされた。しかし私は、罪の疫病からいやされた。マグダラのマリヤからは、七つの悪霊が追い出されたが、私からは一軍団の悪霊が追い出された。マリヤとマルタは主の訪問を受けたが、私は主と共に住む。主の母は主を宿した。しかし主は私の中に生まれてくださり、栄光の望みとなられた。
こうした敬虔な婦人たちより多く恵まれた私の感謝も悲哀も、彼女らよりはるかに深いのである。