座間コミニティー

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レビ記4章22-26節

2012年03月24日 09時39分18秒 | 聖書

4:25 「祭司は指で、罪のためのいけにえの血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。また、その血は全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。」
  民の指導者である長老などが、誤って罪を犯した場合のことです。
彼等は雄山羊を連れてきてそれを屠り、祭司が、その血を取って指で祭壇の角にぬり、残った血は皆、祭壇の土台に注ぐように命じられました。
そのことによって、自分たちのいのちの身代わりの代価を支払う行為をすることを示したのです。
 その時の犠牲の献げ物は雄の羊でした。
山羊というのは、羊に比べると少し安価なものとなります。
大祭司は、雄牛という高価な物を献げることが求められました。
民の指導者は、雄山羊で良いと言われています。
このことは、大祭司としての働きと責任が、いかに重いものであったかを告げています。
 聖書は、上に立つ人を敬いなさいと語っています。
しかし同時に、その上に立つ人は、自分が神の僕であることを認識して、人に心から仕えなさいと言われます。
それが上に立つ人に託された、神様からの責任の重さです。


◆知恵の責任

2012年03月24日 09時30分20秒 | 聖書

もし、あなたが知恵を得れば、
その知恵はあなたのものだ。
もし、あなたがこれをあざけるなら、
あなただけが、その責任を負うことになる。(箴言九12)

一六〇九年、ガリレオは、熱心に製作して完成させた、倍率四十倍の望遠鏡を空に向けました。そこで見た事実について翌年発表したところ、世界中の人は興奮しました。今まで見えなかった新しい世界が見えたからです。
造り主である神を認め、その神の愛を知ることは、ちょうどそのようです。新しい自分の可能性が見えてきます。自分の事業や自分の人間性を、みな新しい観点から見直せます。家庭も新しくなり、愛が深くされます。
しかもこの神の知恵は、だれもあなたから奪い去ることはできません。大水も大火事も大地震も、人の裏切りも無理解も迫害もです。
パウロは言いました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。……しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ八3537)。
しかし逆に、この神の愛をつかまないでいると、「貧すれば鈍する」で、いよいよ挫折感・ゆきづまり・迷い・疑い・悪意・勘ぐりだらけになるのです。独りぼっちで人の心の中にも入れず、人を心に受け入れることもできません。
ただ、こんなすばらしい神の知恵・愛を知った人には責任もあります。人を愛し、人にこの愛を分け、人にこの愛を知らせる責任です。この責任に目ざめ、この責任のために立ちあがった時、その人に、ほんとうに生きがいのある人生が開けるのです。

 


◆その恐れのゆえに聞き入れられた。

2012年03月24日 09時28分34秒 | 聖書

(ヘブル五・七英訳)

この恐れは、ご自分が神から全く捨てられることを思って、起こったのであろうか。これ以上の試練が、あるいはあるかもしれない。しかし神から全く捨てられるということは、たしかに最悪の試練の一つである。サタンは主に言った。「見よ。あなたの友はどこにもいない。あなたの父はあわれみの心をあなたに閉ざした。神の宮の天使はだれ一人、手を伸べて助けない。天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しかった友を見よ。何の値打ちがあるか。マリヤの子よ。ヤコブ、愛していた弟子のヨハネ、また大胆な弟子ペテロは、あなたの苦難の時眠ってしまった卑怯者ではないか。天にも地にも、あなたは一人の友もいない。地獄はあなたに向かって敵対している。私は悪魔たちを総動員した。あらゆる地に手紙を送り、すべての暗黒の君たちを召集し、今晩あなたを攻撃させ、一本の矢も残らず射尽くし、すべての地獄の力をもって、今やあなたを押しつぶそうとしている。これに対してどうしようというのか」と。
これは誘惑であったろう。なぜなら天使が現れて主を強め、その恐れを取り去ったからである。主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではなく、天は主と共にあった。主はこのために、三度までも弟子たちのところに来られたのであろう。ハートが歌ったとおりである。
 彼は人の助けを求めるように
 前に、後ろに、三度足を運ばれた
主は、本当にすべての人が主を捨てたかどうかをご自身で見たいと思われたのであった。主は弟子たちがみな眠っているのを見られた。しかし彼らの眠りは裏切りではなく、悲しみのためであり、心は燃えていても肉体が弱いからであることを思い、かすかな慰めを得られたことと思う。いずれにしても、主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」。イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれたのである。私のたましいよ。おまえの祈りもまた聞かれるであろう。