座間コミニティー

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ゴンザレスです。

2011年11月23日 16時56分41秒 | 日記

                                       

としさんは、午後から講演会に行って留守番をしました。

外は寒いのですが毛皮を着ているので平気です。

来週喫茶ゴンザレス開店しますので来てください。


◆高い山に登れ。

2011年11月23日 16時55分01秒 | 聖書

(イザヤ四〇・九)

信者はだれでも、神、生ける神を渇き求め、主の山に登り、顔と顔とを合わせて主を見ることを切望すべきである。タボルの山頂が私たちを待っているのに、私たちは霧深い谷間で満足して休んでいてはならない。私のたましいは山の頂を極め、天の霊気に浴する人のために備えられた杯を飲みほすことをあえぎ求める。丘の上の露はなんと清らかであろう。山の空気はなんと新鮮であろう。また高い山に住む人たちの食卓の豊かさよ。その窓からは、新しいエルサレムが見える!
多くの聖徒が、炭鉱にいるように、日光を見ないでも満足して生きている。彼らは天使の美味な食物を味わい得るのに、へびのようにちりを食らう。王の衣をまとうことができるのに、汚れた服を着て満足している。彼らの顔は天の油で潤すことができるのに、涙のために汚れている。多くの信者が、宮殿の屋上を歩んで豊かな地とレバノンをながめることができるのに、牢獄の中でやつれはてている。それを見て私が満足できるであろうか。
おお信者よ。あなたの卑しい状態から立ち上がれ! あなたの怠惰を、あなたの無気力を、あなたの冷淡を、あなたのたましいの夫キリストに対するあなたの純潔な愛を妨げる一切のものをかなぐり捨てよ。主をあなたのたましいの喜びの源とし、中心とし、そして周辺とせよ。あなたは王座に座ることができるのに、なぜ穴の中にとどまっているような愚かなことをするのか。自由の山上があなたに授けられているのに、束縛の低地で暮らすようなことをしてはならない。あなたの小さな成功に安んずることなく、さらに崇高な、さらに天に属するものを求めて前進せよ。より高い、より尊い、より充実した生活をあこがれ求めよ。天に向かって飛べ! 神に接近せよ!
 主よ。いつおいでになりますか
 おお、来てください。なつかしい主よ
 近く、近く、もっと近くに来てください
 近くおられる時こそ幸いだからです

 


◆あせる人・忠実な人

2011年11月23日 10時44分56秒 | 聖書

忠実な人は多くの祝福を得る。
しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。(箴言二八20)

「あせる」気持ちは、よく分かります。思いがけない情況の中に投げこまれる時、私たちは、どうしてもあせります。そんな一時的なことではなく、人生の生き方そのものがあせっている人がいます。金もうけがしたくて、えらくなりたくて、人からほめられたくてあせります。自分の欲求をしゃにむに満足させようとして、あせるのです。
「あわてるこじきは、もらいが少ない」といいますが、聖書は、「富を得ようとあせる者は罰を免れない」と言うのです。なぜでしょうか。
第一に、自分の欲望の満足のためにあせる人は、分別を失って不正を働く危険がいつもつきまといます。第二に、ギャンブルの精神というか投機心が働き、必要なプロセスを無視してしまいます。実力以上のことに手を出して失敗します。
それに対し、「忠実な人は多くの祝福を得る」と言います。その「多くの祝福」を数えてみましょう。いつも、自分自身が平安な気持ちでやっていけます。信頼され、人の役に立ちます。聖書によれば、神のおほめのことばと報いは、「忠実な人」に与えられるのです。
いったい「忠実な人」とはどんな人を指し、忠実さとはどんなことでしょうか。
第一に、忠実を尽くして仕えるべきお方、神を見いだしています。自我が主人ではありません。第二に、与えられた使命を知り、小さなことでも大きなことでも、それを果たすことです。十円では大した物は買えませんが、電話をかけるには十円玉でなければなりません。自分の持っているものは、大きくても小さくても、みな神から与えられ、神から預かったものと認め、それを神の喜びたもうように守り用いる。――それが忠実ではないでしょうか。

 


◆神と交わりがある……。

2011年11月23日 10時43分19秒 | 聖書

(Ⅰヨハネ一・六)

信仰によってキリストに結び合わされた時、私たちはキリストとの完全な交わりに入る。その時、主と私たちの関心事が共通となる。
私たちはキリストの愛において主と交わる。キリストが愛される者を、私たちもまた愛する。主は聖徒を愛し、罪人を愛し、また滅びようとするあわれな人類を愛して、この地上の荒野が主の花園に変わることを求められる。私たちもそうである。
さらに、私たちはキリストの願いにおいて主と交わる。主は神の栄光を望んでおられる。私たちもまたそのために労する。主は、聖徒たちが主のおられるところでご自身と共におることをお望みになる。私たちもまた、そこで主と共におることを願う。主は罪の駆逐を望まれる。主は御父の御名がすべての被造物によって愛され、あがめられることをお望みになる。私たちも日々、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈る。
私たちは、キリストの苦難において主と交わる。私たちは十字架につけられてはおらず、無残な死を遂げると定まってもいない。しかし主が非難を受ける時、私たちも非難される。主に従うという理由で非難され軽蔑されて、この世を敵にまわすのはすばらしいことである。弟子はその師にまさるものではない。
私たちはそれぞれ分に応じて主の働きをすることによって主と交わり、真理のことばと愛の行為をもって人々に奉仕をする。私たちの食物、飲み物は、主と同じように、私たちを遣わされた方のみこころをなし、そのみわざを完成することである。
私たちは、キリストの喜びにおいて主と交わる。主の幸福の中にあって幸福である私たちは、主のあがめられることを喜ぶ。この世では、キリストの喜びを私たちのうちに満ちあふれさせる以上に、きよく心を感動させる喜びはない。
主の栄光は、私たちの交わりを完成しようとして待っている。やがて主の教会は、愛される花嫁また王妃として、主とともに御座に着くのである。