座間コミニティー

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◆彼らの祈りは、

2011年11月03日 19時08分27秒 | 聖書
主の聖なる御住まい、天に届いた。(Ⅱ歴代三〇・二七)

祈りは、キリスト者があらゆる苦境を切り開くのに成功する常勝の源泉である。剣を用いることができない時、あなたは「すべての祈り」という武器をとることができる。火薬はしめり、戦略は失敗するかもしれない。レビヤタンは投げ槍を笑うが、祈りの前にうち震える。刀や槍は磨く必要があるが、祈りは決してさびることがない。そして最も鈍いと思われる時に、最上の切れ味を見せるのである。
祈りは、だれも閉じることのできない開かれた門である。敵の軍勢があなたを完全に囲んでも、上に達する道は常に開かれている。この一つの道が閉ざされない限り、あなたが敵の手中に陥ることはない。防塞も城壁にかけるはしごも、地雷もあらしも何であろう。天の援兵がヤコブのはしごによって私たちを助けに来る限りは、安全なのである。
祈りは、決して季節はずれにはならない。この商品は夏冬を問わず貴重である。祈りは夜半に、仕事の時に、日中の炎暑に、また夕べの涼しさの中に天に届き、聞かれている。貧困、病床、暗黒、中傷、疑惑など、どのような状態にあっても、契約の神はあなたの祈りを歓迎し、聖なる御住まいから答えてくださる。
祈りは、決してむだにはならない。真の祈りは常に真の力である。求めたものが必ず与えられるとは限らないが、あなたが真に必要とするものは常に備えられる。神がその子の要求に文字どおり答えられない時は、心をくんで答えてくださる。粗食を求めたのに、最上の食物が与えられたと言って、あなたは怒るであろうか。肉体の健康を求めたが、神はたましいの欠陥をいやすため病床を与えられたと言って、あなたは不平を言うのか。十字架が取り去られることより、それを神にささげることができるのを喜ぶべきである。
私のたましいよ。今夜おまえの嘆願と求めとを、忘れずにささげよ。主はおまえの願いを聞くために待っておられる。

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●法律違反と契約違反●

2011年11月03日 08時14分58秒 | 労働法
残業によって1日8時間週40時間の労働時間を超える場合には36協定が必要ですが、所定労働時間が1日7時間の会社で残業が1時間発生する場合、これは所定時間外労働ですが、法定時間外労働ではありませんので、これだけに限って言えば36協定は必要ないということになります。一方、所定労働時間が7時間の会社が、従業員に1時間の残業をさせるためには、労働契約に残業に応じる義務が明記されているか、あるいは就業規則にその旨の規定がなければなりません。そうした規定がない場合でも、個別の同意が得られえば残業させることは可能ですが、適法に拒否される余地を残すことになり、後々のトラブルの種になります。つまり36協定は「法定」時間外労働に対する例外規定の適用を受けるために必要で、この届出がなければ32条違反を問われます。このように36協定は会社が法律違反を免れるために届け出るという性格があります。就業規則の残業規定は、従業員に「所定」時間外労働である残業命令の根拠となるものです。
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出エジプト記21章16節

2011年11月03日 07時47分56秒 | 聖書
21:16 「人をさらった者は、その人を売っていても、自分の手もとに置いていても、必ず殺されなければならない。」 ここでは、人さらいをした人に対する刑罰のことを語っています。その人が、人をさらってきて、その人を自分の下においていようと、あるいは、他の人に奴隷として売ってしまった場合でも、そのことが発覚したならば、殺害されなければならないと語っているのです。殺害されなければならないというのは、刑として殺されなければならないということです。誘拐というのは、ほとんどの場合、自分の利益のために行動を取ることです。誘拐してきた家からお金を取るか、あるいは、その人を売ることによって、金銭を獲得することを目指しているのです。しかし、人は神のかたちに造られた者であって、それが子供であっても女性であっても、神の前に尊い者であることです。それを、相手の人格を無視して物のように扱い、商売に利用するということは、赦されない行為であると告げているのです。人が売られれば、自分の自由を奪われます。それと同じく、犯罪人も同じ自由を奪われて、死刑だというのです。
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◆うぬぼれてはならない

2011年11月03日 07時33分03秒 | 聖書
自分の口でではなく、
ほかの者にあなたをほめさせよ。
自分のくちびるでではなく、よその人によって。(箴言二七2)

このことばは、自分に甘い「うぬぼれ」をいましめているのではないでしょうか。私など、私の話す講演会に人がたくさん集まると、やはり私が来たからだと思ったり、人が集まらないと雨のせいだと考えたりする。――これは、徹底的うぬぼれです。
自分で自分を推薦するこの「うぬぼれ」は知恵のないことで、それはほんとうの基準にならないと聖書は言っています(Ⅱコリント一〇12参照)。自己推薦よりも他人の評価には、耳を傾けるべき点があります。指導者を選ぶ一つの基準として聖書は、評判のよい人をもあげています。しかし、人の言うところも、当てにならないことがあります。
聖書の結論はこうです。「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」(Ⅱコリント一〇18)。神にほめられる人になりなさいということです。うぬぼれはもってのほか、人にほめられるのも大したことではない、ただ神に受け入れられたいと真剣に考えていた使徒パウロは、いつも自分自身を二つの面から徹底的に見ていました。
第一は、自分の肉の中には何一つよいものがない。私は罪人のかしらであり、私が今あるのは、ただ神の恵みとあわれみによるということです。パウロは言います。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』……私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ一15)。「救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ二5)。
第二は、自分の持っているすべてのよいものは、神から与えられ、神から預かったもので、私のものとして誇るべきものは一つもないことです。私は、神の恵みの管理者として、神の栄光のため人の幸福のため、それを最大に活用すべきなのです。「誇る者は主にあって誇れ」(Ⅰコリント一31)と、パウロは言います。

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◆そこで、彼は祈っています。

2011年11月03日 07時29分12秒 | 聖書
(使徒九・一一)

祈りはただちに天上の注意を引く。サウロが祈り始めた瞬間に、主はその祈りに耳を傾けられた。ここに悩みつつも祈るたましいへの慰めがある。悲嘆に沈む者が祈る時に出てくるのは、しばしば嘆息と涙と叫びのみである。しかし、そのうめきは天国のたてごとを妙なる音をもって鳴り響かせ、その涙は神に受け入れられ、天国の涙のつぼに大切に蓄えられている。「どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。」
おののきのため、もの言うこともできなくなった哀願者の心の中をも、主は深く洞察しておられる。祈る者は涙にかすむ目を上げて神を仰ぎ見るだけかもしれない。しかし、「祈りとは涙を流すこと」ではないか。涙は天国のダイヤモンドであり、嘆息は主の宮廷における音楽の一部であって、「神の栄光の御前に奏でる最も崇高な聖楽」の中に数えられている。
あなたの祈りがたとえいかに弱く、おののき震えるものであっても、無視され顧みられないことはない。ヤコブのはしごは高い。しかし、私たちの祈りは契約の天使によりすがって天に上る。
私たちの神は単に祈りを聞かれるだけでなく、聞くことをお喜びになる。主は「貧しい者の叫びをお忘れにならない」。主は立派な風貌、高尚なことばなどは顧みられない。主は王たちの華美に心を留めず、軍楽の響きにも耳を傾けられない。しかし悲しみおののく心があり、苦痛に震えるくちびるがあり、あるいは深いうめき、後悔の嘆息があるなら、主の心は常にそこに向かって開かれる。
主は私たちの祈りを、ばらの花びらのように、その覚え書きの間にさしはさまれるのである。ひとたびその書物が開かれる時が来れば、その中よりふくいくたる香りが生ずるであろう。
 信仰は、ささげられた祈りの答えを
 天に求めたりはしない
 私たちの大祭司は聖所におられ
 恵みの御座からお答えになる

コメント (2)
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