座間コミニティー

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ゴンザレスです

2011年11月14日 18時17分27秒 | 日記

               

今日は、としさんが朝から出かけて行きました。

僕はさっきまで留守番していました。

としさんは午前中DVDビデオの上映会「終わらない戦争」という映画を見てきたそうです。              

日本軍の性奴隷「慰安婦」のテーマです。としさんはとても悲しくてたまらなくてしかたがなかったと言っていました。

午後から相模大野教会へ行き平和を作る会に行って来たそうです。                  

今日開いた聖書の箇所は詩篇27で主題は主を待ち望むと言うこと例え敵に囲まれていても私の主がいてくださるという詩篇作者に共感したそうです。それに主を待ち望むことはイエス様の誕生を待ち望むことに通ずるのです。幼いイエス様を礼拝した羊飼いにクリスチャンとしての自分を重ねて再確認して来たと、としさんは言っていました。

僕ゴンザレスは、としさんの留守をがんばって守ったのでとしさんが褒めてくれたので嬉しいです。


◆ラバンは答えた。

2011年11月14日 17時53分21秒 | 聖書

「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」(創世二九・二六)

私たちはラバンの不誠実を許すことはできないが、彼が口実のために引き合いに出した慣習からは、ためらうことなく学ぶことができる。ものには順序があり、第二のものを得るには、まず第一のものを手に入れなければならない。第二のもののほうが、私たちの目に麗しく見えるかもしれない。しかし、天国の法則は破棄すべきものではなく、まず年長者が結婚しなければならないのである。
たとえば、多くの人は、信仰による喜びと平安というラケルを慕う。しかし彼らはまず、悔い改めという目の弱いレアと結婚しなければならない。だれでも幸福と恋愛関係を結び、多くの者はそれを自分のものにする。七年の二倍を、喜んで奉仕に当てる。しかし主の王国の規則によれば、真の幸福というラケルを得る前に、真の聖潔というレアが私たちのたましいに愛されなければならない。天国は第一の場所ではなく、第二の場所にある。私たちは、終わりまで耐え忍ぶことにより、そこにある相続地を入手することができる。冠を受ける前に、まず十字架を負わなければならない。へりくだりの主に従わなければ、栄光の主とともに安息を楽しむことは決してできない。
私のたましいよ。おまえは天の規則を破りたいと願うほどに愚かなのか。おまえは労せずに報いを求め、苦しみなしに栄誉を望むのか。怠惰な思いを捨て、イエスのすばらしい愛のゆえに、不快と思われるもので満足せよ。そうすればすべてが償われるであろう。その心をもって労働と苦難を迎えるならば、苦いものが甘く、困難は容易になることを知るであろう。おまえはヤコブのように、長年の奉仕も、イエスへの愛のゆえに、数日のように思えるだろう。待ちこがれた婚姻の時が来たら、おまえのすべての労苦は、あたかも存在しなかったかのようになるであろう。イエスとの一時問は、幾十年もの苦痛と労働を償って余りあることを深く覚えよ。

 


●通勤災害●

2011年11月14日 08時10分07秒 | 労働法

通院途上の事故についても、労災事故として給付の対象となります。この労災の対象となる通勤災害にはいくつかの要件があります。それは就業場所と自宅との往復であること、その経路が合理的であること、途中での逸脱、中断がないことなどが上げられています。このときに就業場所とは、会社事務所だけではなく、出張などの場合にはその出張先との往復についても通勤災害の対象となる「通勤」に含まれます。また、この途中での、逸脱・中断があったっ場合には、その後に通常の通勤経路に戻ったとしても、逸脱・中断以降は「通勤」とは認められません。ただし、の逸脱・中断の目的が「日常生活上の必要な行為」で一定のもの(これは厚労省令で規定されている)の場合には、この逸脱・中断の間は、「通勤」とは認められませんが、その後に通常の通勤経路に戻れば、そこから「通勤」とされます。また、通勤途上で行う些細な行為、例えば公衆トイレの使用とか、ジュースの立ち飲みなどは、中断・逸脱とはされず、通勤途上と判断されます。裁判では、自宅と反対方向140m先にある商店への食材の購入を通勤途上の些細な行為と認めていません。


出エジプト記22章7-8節

2011年11月14日 07時03分18秒 | 聖書

22:8 「もし、盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。」  金銭あるいは物品を隣人に預けて、それが他の人に盗まれた時に、その盗んだ人が見つかった時は、その人は盗んだ物の代価の2倍を支払う事が命じられています。ところが、盗みという時には、人が見ていない時にすることですから、犯人が見つからない時があります。そうした時には、どうするのかと言われるのです。ここではその時のことを語って、その保管を頼まれた人は、神の前に、自分が絶対にその預かった物に対して手をつけてはいないということを誓えと、命じられているのです。保管の責任ということもあるのですが、しかし、それは頼まれたことですので、自分が取ったわけではないということを、証拠づければ良いというのです。しかし、その誓約を神の目の前でしなさいと命じているのです。それが真実でなければ、神がその人を裁かれるというのです。日本人は理解しませんが、ここでは人の裁きよりも、神による裁きの方がもっと怖いことを告げているのです。


◆き よ い 良 心

2011年11月14日 06時54分48秒 | 聖書

悪者は追う者もないのに逃げる。
しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。(箴言二八1)

国会に引き出された疑惑の証人たちが「さあ、忘れました。記憶にございません」と、のらりくらり答弁する苦渋に満ちた顔を、私たちはテレビで見ました。しかしペテロとヨハネは、七十人議会に引き出されても堂々としていました。悪びれた様子もなく、臆することもありませんでした。無学のガリラヤの漁師にすぎないのに、なぜかとみながあやしみました。そして、ああ、やはりイエス・キリストといっしょにいた人たちだったと言ったと、聖書にあります。
宗教改革者マルティン・ルターも、大勢の告発者の前でウォルムスの会議の真ん中に立ち、「私と私の良心がここに立っています。神よ、助けたまえ。アーメン」と言ったといいます。若獅子のように雄々しい姿です。
良心に責めを持つ人・ゆるされていない、きよめられないままの人はどうでしょう。
第一に、いつも不安で、人の顔を恐れ、神の顔を恐れて逃げまわります。ねたみから弟アベルを殺したカインは事業には成功しましたが、一生恐れに満ちたさすらいの人生を送りました。第二に、けがれた良心からは、人生の力は少しもわいてきません。第三に、けがれた良心のままでは、人生は破船します。罪は、必ず最後に、あなたを見つけ出すのです。
どうしたらきよい良心を持つことができますか。イエス・キリストを銀貨三十枚で敵の手に売り渡したイスカリオテ・ユダは、その金を返そうとしました。受けとってもらえないと知ると、金を捨てました。きよめられずに不安な彼は、首つりして死んだのです。良心のきよめは、どんな努力やささげ物でも買えません。イエス・キリストの血潮の中に、悔いたくだけた心を投げ出すほかに道はありません。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ一7)。

 


◆(わたしは)主に誓いを立てて礼拝しながら、

2011年11月14日 06時50分00秒 | 聖書

ミルコムに誓いを立てる者ども……を断ち滅ぼす。(ゼパニヤ一・五、六)

この種の人々は、二つの道を兼ねているから安全だと思っている。彼らは主に従う者と行動を共にし、また同時にミルコムにも頭を下げている。しかし、神は二心の者をいとい、偽善を憎まれる。偽りの神に傾倒している偶像崇拝者は一つの罪を犯すだけである。しかし、汚れた忌まわしい犠牲を主の宮に携えてきながら、他方では世と世の罪に心を傾けている二心の者は、二つの罪を犯している。だから、彼らよりもさらに罪深いのである。日常生活においても、二心の者は軽蔑される。そして信仰においては、これは極度に嫌悪されるべきものである。
今朝の聖句に宣言されている罰は恐ろしいものであるが、それは当然の報いである。なぜなら、正しいと認めてそれに従うことを公言しながら、他方において悪を愛してそれに心をゆだねている罪人を、神の義が赦すはずがないからである。
私のたましいよ。今朝おまえ自身を探り、おまえが二心の罪を犯しているかどうかを見よ。おまえはイエスに従うことを公言しているが、真に主を愛しているか。おまえの心は、神と正しい関係にあるか。おまえはあの『天路歴程』の中の「正直氏」の家族か。または「二心氏」の家族か。血筋や家系も、もし私が咎と罪に死んでいたならば、何にもならない。片足を真理の地に置き、他の足を偽りの海に置けば、恐ろしい倒壊と破滅の危険を招くことは間違いない。キリストは私たちにとって、すべてか無かのどちらかである。
神は全宇宙を満たしておられる。だから他の神を入れる余地はない。もし神が私の心を支配しておられるなら、他の支配力を入れる余地は全くない。
私は十字架にかかられたイエスのみに憩い、主のためにだけ生きているか。そうしたいと願っているか。そう決意しているか。もしそうであるとすれば、私を救いに導いた力強い恵みはほむべきかな。しかし、もしそうでないなら、主よ、私の悲しむべき罪を赦し、私の心をしてあなたの御名を恐れる者としてください。