レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

アイスランドのちらし寿司的「公私」

2013-01-18 05:00:00 | 日記
多様性がある中でも、まだまだ多くの日本人が原則としているであろう「職場」と「プライベート」の区別の中で、物理的な距離や人間史的な時間を越えたソーシャル・ネットワークは、「どこでもドア」的な便利さと恐ろしさを兼ね備えているのではないか、というようなことを前回書きました。

この「職場」と「プライベート」の区別についてはアイスランドではどうなんだろうか?と考えてみました。結論は、「どうなんだろうか?」。

これは、かなり私個人の独断と偏見に満ちた見解かもしれないのですが(と言って、責任を薄めておきますが)、ある想像上の小さな村を分析して、そこに公と私がどのように成り立つかを考えたら、それがアイスランドの現状だと言っていいと思います。

まず距離がないのですよ、ここには。日本では当たり前の「仕事引けに一杯」はここではありません。飲むならまず家に帰って、腹ごしらえをしてから改めて、と言うことになります。いきおい本当に「飲む」ことになります。

それどころか、昼休みに家へ帰る人だっていますし、仕事時間中に「歯医者に行って来る」もありです。週末にダウンタウンへ買い物に出れば、職場の同僚に出会いますし、商用で相対する人の中には必ずプライベートでの知り合いが交じっていたりします。

そのような具合ですので、アイスランドでの「公私」は同じちらし寿司の具のようなものなのです。

2008年の経済恐慌の後で、国としての財務管理上の責任を問われた国会議員達に対して、責任を問うはずの他の議員達が「友だちを訴追することはできない」と責任を回避したのは嘘のような本当の話しです。コップの中の嵐、ではなく「ちらし寿司の連帯」?

そのようなアイスランド社会なのですが、その中でも私のしている教会の牧師という職業はさらに公私の区別が曖昧になります。固い部分で言っても、例えば医者やカウンセラーなら「クライアント」というプロフェッショナルな区分があって、その人たちへの私的な介入は御法度です。

ところが牧師の場合は「みんなの友達」的な解釈があって、「あなたはクライアントですから」という突っ張りはできないのです。これは正直言って、かなり困ることがあります。その部分の見境のつかない人って、結構いるんです。

加えて勤務時間。これは日本の牧師さん達も同じと思いますが、全く区別はつきません。これはもう職務に付随する性格のようなもので区別しようという気もありません。

さて、Facebook等のソーシャル・ネットワークを通したハラスメントですが、こちらではあまり耳にしたことがありません。同じちらし寿司の丼の中であるからこそ、理解を超えた連帯もあるし、逆に日常レベルでのYesとNoははっきり存在しているのかもしれません。いろいろ考えたのですが、すっきりくっきり説明のいく理屈は思い当たりませんでした。

かくいう私も、一度はフレンドリストに挙げていた先輩牧師や同僚を「やりとりがない」ということでかなり削除しましたが、その故に表立った嫌がらせとかは受けていません。
嫌がらせを受けるほど期待されてもいなかった、ということかも...
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SNと「どこでもドア」

2013-01-16 06:00:00 | 日記
ソーシャル・ネットワーク・ハラスメントが日本では増えて来ている、ということに関して前回書きましたが、それに関連して思ったことです。

ここで「日本では」という言い回しがかなり曲者であることをまず認めなくてはなりません。日本の人口、減少中とは言え超一億。人々の生活様式もかなり広範に渡っているはずです。一個人が「日本では」という場合も、大抵の場合はその人が了解している範囲での日本、というのが実際だと思います。

例えば「日本の職場では」と言っても、ベッドタウンに住んでいて大中の企業のオフィスへ通う人、家族経営のような小企業、町のお店屋さん、夜の商売の方、芸能関係の方等では相当様子が違うと思うのです。

と言う前置きをした上ですが、私は大学を卒業してから三年間ほど新橋でサラリーマンをしていました(私のイメージでは新橋こそサラリーマンの枕詞です。後年はユリカモメなんかもあって、随分イメチェンしてしまいましたが)。小さな財団法人でしたが、実際は普通の営業をする会社のようなものでした。

で、その時の体験からすると、私にとっては「職場」は「職場」、「プライベート」は「プライベート」でほとんど重なるところがなかった気がします。職場の同僚が家に遊びに来たこともないし、休日にどこかへ遊びに行ったこともありません。

なぜかと思ったら、家から新橋までは中央線のほぼ端から端まで乗って、乗り換え。片道約二時間の道のり。会社帰りの一杯は年中でしたが、一度家に帰ったらそこは別の世界、という感じだった気がします。生活のポリシー云々よりも、まず距離がものを言っていたと言うか。

そういう当時にあって、もし仮にFacebookがあったとしたら、どうだったかなあ?と考えます。このソーシャル・ネットワークという物理的な距離を無視し、かつ人間史的な時間をも越えるコミュニケーションは、どうやってあの「職場」と「プライベート」に二分割された生活に迫って来たのかなあ?と。

考えてみると、いきなり「どこでもドア」が現れたみたいで困惑するかもしれませんね?自分が行きたいとこへアクセスできるのは都合がいいでしょうが、逆に相手が勝手に自分の場所と時間に出没されるのは... 現在、「職場」と「プライベート」を区別して生活を組み立てている方々はどのようにこの「どこでもドア」に対処しているのでしょうか?

こうして考えてみると、Facebook等でのソーシャル・ネットワーク・ハラスメントというのは、決して軽いものではないなと思い着きます。

この点、アイスランドではどうなのか?限られた私見ですが、それについては次回書きます。
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SNハラ?

2013-01-14 05:00:00 | 日記
二、三日前のネットの新聞で、日本では最近ソーシャルネットワーク・ハラスメントが顕著になってきている、とありました。

これは例えばFacebookなどで、職場の上司が部下に対してフレンド・リクエストをします。部下はさすがに断れないので承認しますよね。そうすると今度は上司は自分の書き込みについて、「いいね」を与えるように促したり、良いコメントを残すように示唆したりするのだそうです。

SNハラというよりは、パワハラの一種と言った方が正解なのではないかと思います。私の日本の友人の幾人かははっきりと「仕事関係の方はご遠慮下さい」と明記していました。でも、皆が皆そういう風なはっきりした物言いをすることができるわけでもないのでしょうね。

でも、そんなにまでしてフレンド数を増やしたり「いいね」が欲しかったりするものでしょうか?楽しみ方を知らないというか、なんか哀しいものがあります。もしかしたら、そういう無理強いをすることが楽しい?そっちが目的か? くわばら、くわばら...(なんて言葉、知らない方はGoogleしてみてください!)

アイスランドでもソーシャル・ネットワークは盛んです。特にFacebookは大人の8割が参加しているとかいないとか。これも中毒があるようで、夫婦が自宅の別々の部屋にいて、Facebook上で会話をしているとかいう例も聞いたことがあります。

パワハラの変形のようなものは「楽しみ方」のうちには入れてはいけないと思いますが、それを別にしても楽しみ方というのは人それぞれのようですね。もしかしたら夫婦がFacebookで会話をするのも楽しみ方のひとつなのかもしれません。

私自身もFacebookを積極的に利用していまし、私なりの楽しみ方というか目的があります。その目的と言うのは、「出会い系」とかではなくてもう少しまじめなものです。

アイスランドは移民の歴史が新しい国なのですが、それはそれでプラスマイナスがあります。マイナスのひとつは、まだまだ移民とアイスランド人が十分に「やりとり」をしていないと思われることです。

「やりとり」というのは、移民政策とか多文化主義とかいう限定された分野以外での相互理解という意味です。これは移民にとってアイスランド語が難しく表現が限られてしまう、ということにもよりますし、他方、アイスランド人も特定の問題に関して以外は移民のことなど頭にない、とうこともあると思います。

で、そうした中で少しでも水を動かせればと思いました。幸い「アイスランド語で書く」ということは、それほど苦になりません。Facebookで日常の些細なこと、嫌なこと、うれしかったこと、残念だったことなどをちょこちょこ書いていれば、「ああ、アジア人の移民も同じように感じて生きてるんだ」と分かってくれるアイスランド人もきっといるだろう、というのが期待でした。

というわけで、フレンドもかなり必至に集めましたし(パワハラはしてません。「パワ」がないから)、基本アイスランド語で、アイスランド人向けのことを書いています。もちろん日本人の方も多く入って来てはいますが、それでもアイスランド語を主にしているのはそういう理由からです。

こうやって、文字にしてみると我ながら「しょってるなあ。そんなエラそうなタマか、お前は?」と感じますね。私の日本人の部分はそれで反省していますが、私のアイスランドに適応した部分は「だから?」と居直っています。

良いか悪いかは別として、Facebookによって以前よりずっと頻繁に「日本」–「アイスランド」のふたつの文化の狭間を漂っていることを感じるのは確かなようです。
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2013-01-11 05:00:00 | 日記
デビッド・ボウイがカムバックと言うニュースを目にしました。六十六歳の自身の誕生日に新作を発表したとのこと。十年ぶり以上なんだそうです。

正直に言って、私はそんなに音楽界に強い方ではないし、取り立ててボウイ・ファンでもないんです。好きだったのはBlue Jeanくらいかなあ...もう二十年以上前のノエビア化粧品のCMで使われていました。そのCM、若い女性パイロットが出てくるのですが、この女性がきれいでかっこよくて...って、結局音楽じゃないのか!

ノエビア化粧品 

音楽の世界ではかなり歳が行っても頑張ってる人が結構いますね。矢沢のエイちゃんだってもう還暦越してるし、ストーンズのおじさんたちも。ブルース・スプリングスティーンも還暦組ですが、ハイドパークでのコンサートとか相変わらずスゴイです。

ボウイさんがどうしてカムバックを決意したのかは知りませんが、新曲の中のシングルリリースされる「Where are we now?」という曲の歌詞には何か暗示させるものがあります。「Walking the dead」と繰り返し出てくるんです。

"Where Are We Now?"

もしかしたらボウイさんのような一角をなした人でも、昨今はDeadと感じていたのかしら? (脱線ですがビデオクリップのボウイさん、なんか水谷豊さんに似ているような。へへ) )

六十六歳という年齢が何か意味深な感じがするんです。六十過ぎって、人によって生き方がとても違うような気がします。年金もらって引退生活に入る人もあれば、若い頃以上に仕事に邁進している人もあるようで。

どちらが良くてどちらが悪いと言う性格の問題ではないでしょう。ただそれでも、何かもっとしたいことがあるのに「歳だから」とめげてしまう人があったとしたら残念な気がします。

私はこの秋で五十五歳になります。アイスランドでは六十五歳で年金生活に入ることが出来ます。そうしたければ七十歳まで仕事を続けることもできます。ということは少なくともまだ十年ちょっとが残ってることになります(もちろん、これはそれまで事故にあったり大病をしたりしない、という希望的前提の下)。

そこでその残された十年をどうデザインしようかと考えることがよくあるのですが、知らず知らずのうちに冒険回避、仕事漬け回避の道を取ろうとしている自分に気づかされます。

もちろん歳相応ということを否定するつもりはありません。ただ、自分で本当にやりたいこと、あるいは自分の夢というものがあるとして、その対局にはそれなりの努力や思い切りが必ず必要になりますよね。そういう時に「歳だから」というだけで二の足を踏んでしまったら、それが「歳に負ける」ということなのではないか、と思ってしまうのです。

As long as there’s me
As long as there’s you...

いつくになったとしても、自分自身を置いていってしまうようなことはしたくないものです。できるかな...?
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ディスタンス

2013-01-09 05:00:00 | 日記
私たちの生活の中での「距離」というものは、ここ数年来のネットの発展によってあれよあれよと言う間に縮まって来た感があります。

二十年ほど前に私がアイスランドへ移った頃には、距離はもっと「距離」として厳として存在していました。アイスランドと日本を結ぶ一番リアルタイムな手段は国際電話でしたが、これはお安くありません。国際コールは盆暮れか緊急用の手段でした。

親が時々新聞やテレビ番組のビデオを送ってくれたのですが、これが手元に届くのが一週間から十日後。それでもその小さな日本への窓口を楽しみにしていたものです。

アイスランドへ移った翌年に第二子の長女が田舎の港町の病院で誕生しました。病院からすぐに両親に伝えようとしたのですが、なぜかコレクトコールができません。「アイスランドで支払わなければだめだ」って。なんで?

電話は自宅に戻るまで諦めました。そのかわり持参していたビデオで撮ったフィルムのカセットを、レイキャビクから駆けつけてくれていた義姉に投函してくれるように頼みました。両親は五日後にテープで赤ちゃんとご対面、となりました(日本-アイスランド間の郵便事情は昔も今も良いようです)。

それから二十年。今のコミュニケーション模様はまるで夢の国のようになりましたね。

それでも距離は時折「距離」として立ちはばかります。普段、距離が縮まったように思えるために、その折には逆に「距離」が際立つ感があります。

その距離が感じられる機会の最たるものが、家族や友人の病気や危篤の状況にある時でしょう。もちろん同じ国内でいたって、そのような時は難しいものでしょうが、距離があると「そばにいてあげられない」という罪悪感が加わります。これはもう外国住まいの者の宿命でしょうか?

そのような経験を持つ人は、周りにも何人もいます。家族や友の訃報を遠距離で聞くのは誰にとっても容易いことではありません。私自身そのような経験はありますし、これからもまたすることと思います。特に私の父は寝たきりなのですが、高齢でいつ天に召されてもおかしくありません。

調子が悪くなると、なるべく帰省するようにしていますが、それも時間も費用もかかります。正直言って休暇のほとんど全ては両親への訪問で費やされてしまい、スペインのビーチや花の都パリへは足が届きません。

ただそれでももちろん文句などないですよ。逆に休暇を想い通りに使える自由のあることを感謝しています。

結局の所、私たちは生活の中の全てをコントロールできるわけではありません。その時その状況の中で何が一番すべきであることか、ふさわしいことであるかを選び取っていかなくてはならないのでしょう。

一番大切なことを選んで行けば、少なくとも後で「ああしておけば...」と後悔することもなくなるでしょうし。

多分「距離」は消えてしまったわけではなく、現れ方を変えたのかもしれませんね。
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