多様性がある中でも、まだまだ多くの日本人が原則としているであろう「職場」と「プライベート」の区別の中で、物理的な距離や人間史的な時間を越えたソーシャル・ネットワークは、「どこでもドア」的な便利さと恐ろしさを兼ね備えているのではないか、というようなことを前回書きました。
この「職場」と「プライベート」の区別についてはアイスランドではどうなんだろうか?と考えてみました。結論は、「どうなんだろうか?」。
これは、かなり私個人の独断と偏見に満ちた見解かもしれないのですが(と言って、責任を薄めておきますが)、ある想像上の小さな村を分析して、そこに公と私がどのように成り立つかを考えたら、それがアイスランドの現状だと言っていいと思います。
まず距離がないのですよ、ここには。日本では当たり前の「仕事引けに一杯」はここではありません。飲むならまず家に帰って、腹ごしらえをしてから改めて、と言うことになります。いきおい本当に「飲む」ことになります。
それどころか、昼休みに家へ帰る人だっていますし、仕事時間中に「歯医者に行って来る」もありです。週末にダウンタウンへ買い物に出れば、職場の同僚に出会いますし、商用で相対する人の中には必ずプライベートでの知り合いが交じっていたりします。
そのような具合ですので、アイスランドでの「公私」は同じちらし寿司の具のようなものなのです。
2008年の経済恐慌の後で、国としての財務管理上の責任を問われた国会議員達に対して、責任を問うはずの他の議員達が「友だちを訴追することはできない」と責任を回避したのは嘘のような本当の話しです。コップの中の嵐、ではなく「ちらし寿司の連帯」?
そのようなアイスランド社会なのですが、その中でも私のしている教会の牧師という職業はさらに公私の区別が曖昧になります。固い部分で言っても、例えば医者やカウンセラーなら「クライアント」というプロフェッショナルな区分があって、その人たちへの私的な介入は御法度です。
ところが牧師の場合は「みんなの友達」的な解釈があって、「あなたはクライアントですから」という突っ張りはできないのです。これは正直言って、かなり困ることがあります。その部分の見境のつかない人って、結構いるんです。
加えて勤務時間。これは日本の牧師さん達も同じと思いますが、全く区別はつきません。これはもう職務に付随する性格のようなもので区別しようという気もありません。
さて、Facebook等のソーシャル・ネットワークを通したハラスメントですが、こちらではあまり耳にしたことがありません。同じちらし寿司の丼の中であるからこそ、理解を超えた連帯もあるし、逆に日常レベルでのYesとNoははっきり存在しているのかもしれません。いろいろ考えたのですが、すっきりくっきり説明のいく理屈は思い当たりませんでした。
かくいう私も、一度はフレンドリストに挙げていた先輩牧師や同僚を「やりとりがない」ということでかなり削除しましたが、その故に表立った嫌がらせとかは受けていません。
嫌がらせを受けるほど期待されてもいなかった、ということかも...
この「職場」と「プライベート」の区別についてはアイスランドではどうなんだろうか?と考えてみました。結論は、「どうなんだろうか?」。
これは、かなり私個人の独断と偏見に満ちた見解かもしれないのですが(と言って、責任を薄めておきますが)、ある想像上の小さな村を分析して、そこに公と私がどのように成り立つかを考えたら、それがアイスランドの現状だと言っていいと思います。
まず距離がないのですよ、ここには。日本では当たり前の「仕事引けに一杯」はここではありません。飲むならまず家に帰って、腹ごしらえをしてから改めて、と言うことになります。いきおい本当に「飲む」ことになります。
それどころか、昼休みに家へ帰る人だっていますし、仕事時間中に「歯医者に行って来る」もありです。週末にダウンタウンへ買い物に出れば、職場の同僚に出会いますし、商用で相対する人の中には必ずプライベートでの知り合いが交じっていたりします。
そのような具合ですので、アイスランドでの「公私」は同じちらし寿司の具のようなものなのです。
2008年の経済恐慌の後で、国としての財務管理上の責任を問われた国会議員達に対して、責任を問うはずの他の議員達が「友だちを訴追することはできない」と責任を回避したのは嘘のような本当の話しです。コップの中の嵐、ではなく「ちらし寿司の連帯」?
そのようなアイスランド社会なのですが、その中でも私のしている教会の牧師という職業はさらに公私の区別が曖昧になります。固い部分で言っても、例えば医者やカウンセラーなら「クライアント」というプロフェッショナルな区分があって、その人たちへの私的な介入は御法度です。
ところが牧師の場合は「みんなの友達」的な解釈があって、「あなたはクライアントですから」という突っ張りはできないのです。これは正直言って、かなり困ることがあります。その部分の見境のつかない人って、結構いるんです。
加えて勤務時間。これは日本の牧師さん達も同じと思いますが、全く区別はつきません。これはもう職務に付随する性格のようなもので区別しようという気もありません。
さて、Facebook等のソーシャル・ネットワークを通したハラスメントですが、こちらではあまり耳にしたことがありません。同じちらし寿司の丼の中であるからこそ、理解を超えた連帯もあるし、逆に日常レベルでのYesとNoははっきり存在しているのかもしれません。いろいろ考えたのですが、すっきりくっきり説明のいく理屈は思い当たりませんでした。
かくいう私も、一度はフレンドリストに挙げていた先輩牧師や同僚を「やりとりがない」ということでかなり削除しましたが、その故に表立った嫌がらせとかは受けていません。
嫌がらせを受けるほど期待されてもいなかった、ということかも...