こんにちは/こんばんは。
GWも終わろうか、という時期ですが、皆様は楽しいホリデーを過ごされたでしょうか?今年は、三連休が二回と、最後に連休がひとつだったとか。間の平日二日に上手く休みを取れた際には、合計十日間の連休?
十日連続だとかなり長いですね。それに、コロナの規制も今年は緩和されてたようですし、良い休みをエンジョイされたことを願います。
くつろぎ感アップ用ピック1 今回はレイキャビク市街ピック
Myndin er eftir Nicolas_J_Leclercq@unsplash.com
その間、こちらにはもちろんGWはありませんので、私はごくごく普通の日常を過ごしておりました。正確には、ウクライナ難民故の「特殊割り当て」の仕事が入っていますので、「ごく普通」ではない日々が続いているのですが、二ヶ月もそういうのが続くと、そちらの方が「普通」になってきてしまいます。
つまり新しい環境に –それが良いものであっても、悪いものであっても– 慣れてくる、ということなのでしょう。これは「恵み」にも「悪弊」にもなり得る諸刃の剣のように見受けられます。
先日、ウクライナ難民の女性の方ふたりと話しをしていたら、おひと方は東部のドネツクの出身、もうひとりの方はマリウポリの出身と知らされました。一番、戦闘が激しいところです。
ふたりとも家族がまだドネツクにいるということなのですが、家族の安否を心配すると共に「家族はそういう状況にいることに慣れてきてしまっている」とか懸念を示していました。
ニュースで破壊し尽くされたような市街地の映像を見ているこちらとしては、「慣れる、なんてあり得る?」という気にさせられます。
おそらく「慣れる」ということは、良いこと悪いことの次元を超えて、「生き残る」ための本能というか「術(すべ)」なのだろうと考えます。
くつろぎ感アップ用ピック2 コンサート・ホール「ハルパ」内
Myndin er eftir FUTC@unsplash.com
さて、このブログを読んでくださっている方はお気づきだろうと思いますが、私は非常に凡庸な男です。「凡庸」といっても意味は広いでしょうが、私の場合は特に「理解が遅い」「切り替えが遅い」「散漫な集中の仕方が長きに渡る」というようなところに集約されると思います。
最後の「散漫な集中の仕方が長きに渡る」というのは、要するに120%の集中力で一時間で終わらせられるものを、70%の集中力しか持たないので、六〜七時間かけてしまう、というようなことです。
その反面で「切り替えが遅い」これは複数のことに同時に対応する能力がない、ということです。例えば、ある日に結婚式を担当するとしますと、その日は「それだけ」になります。他のことが頭に入ってこないのです。
最近、マックとかでよく「ユニファイド・メモリ」とか聞くじゃないですか。作業処理上のメモリーの大きさと効率のことだと思うのですが、ワタシの頭はそのメモリーというか対応力に乏しいのです。よって、複数の作業を同時に遂行することは不可。
それでも、一日で結婚式二回、ということは過去何度かありました。これは基本的に同じ線上のことなのでまだ可能。ですが、結婚式とお葬式、というような組み合わせはまったく無理です。
もっとも周りを見回しても、結婚式とお葬式を一日で担当している牧師さんはいないですね。別にそこまで背負わなくても、他に担当できる牧師さんがスタンバイしていますから。
というわけで、日常生活すべからず、私は「一度にひとつ」みたいな限界を抱えて生きております。マイナスばかりではないですね。例えば、時折耳にする「二股」「三股」とかの危険は、ワタシの場合はゼロです。(^-^; したくても能力的にムリ。
くつろぎ感アップ用ピック3
Myndin er eftir Ludovic_Charlet@unsplash.com
なぜこんなことを書くかというと、ここ数週間のブログを眺め返して気がついたことがあるからです。ウクライナ難民のことばかり。気がついても、驚くというよりは「ああ、そうだろうな」というのが正直なところ。
三月の初めに、教会の中での「ウクライナ難民対応チーム」のようなアサインメントを受けて以来、このことにかかりきりのようになっていて、あまりそれ以外のことが見えていません。
来週にはアイスランドも参加しているユーロビジョンコンテストがあります。火曜と木曜日の二回に分けて準決勝。そして土曜日が決勝コンテスト。その同じ日には、アイスランドの地方総選挙です。
ラジオとかでは、結構ユーロビジョンの話題で盛り上がっているようですが、ワタシは全然蚊帳(カヤ)の外です。(「蚊帳の外」なんて、今時通じるのかな?)
加えて、テレビとかでは地方選挙も熱いトピックですし、私も辞めそうで辞めなかった緑の党の一員なので、選挙関係のメイルや集会案内、活動参加の要請等が毎日のように入ってきます。
緑の党に関する顛末はこちら: 「やめるの『ヤーメタ!』の巻き」
アイスランドでは、原則五年間以上継続して居住している場合には、外国人でも地方選挙に参加することができます。実は私は、今回もレイキャビク市の比例代表名簿に入っています。二十四番目。
こういう席は、実際に市政に参加する可能性はゼロのため、「名誉席」とか呼ばれています。もっと平たく言うと「飾り席」「雛壇」であって「こういう社会的地位の人もいるんだよ」「外国人もいるんだよ」ということをアピールするために用いられます。
外国人と選挙についてはこちらも:この国で選びたい! 選挙権と国籍
レイキャビク市政選挙 24番目のワタシ
Myndin er ur vg.is
ですから、選挙で一生懸命に走り回っている人たちも多くいます。それでもワタシにはどこ吹く風ですね。ユーロビジョンも選挙も頭に入ってこないのです。
私自身にとっての実害はないのですが、唯一困るのは、私自身が普段から関わっている「ウクライナ人以外の難民の人たち」と共にいる時間もやはり削られてしまっていることです。精神的にも「共にいる」部分が減少してしまっていることは、事実ですね。
これは良いことではありません。実は難民の人たちの中からも「なんでウクライナ難民ばかり優先するのか?」「難民差別じゃないのか?」みたいな声も漏れ聞こえてきます。
つい一年足らず前、タリバンの復権を前にしてアフガニスタンからの難民が急増した際には、アイスランドでもそのニュースがひっきりなしだったのですが、今はアフガンの「ア」の字も聞こえてきません。
確かに当事者にしてみれば、「そういうもんじゃないだろう?」と言いたくなるのは当然でしょう。
これらはかなりセンシティブな事柄ですし、きちんと丁寧に対応する必要があります。この点は、また機会を見てきちんと書いてみたいと思います。
サポートをしている側にしてみれば、別に誰彼を好みで優先しているわけではないし、後回しにしているわけでもない。差別しようとしているわけでもありません。それは確かだと思います。
ですが、そういう状況の中で生じてくる「差別」とみなされることこそ、実は本物の「差別」なのではないかという思いがあります。これも、かなり繊細な事柄でしょうし、言葉足らずで誤解を生みたくはありませんので、またの機会に改めて書いてみたいと思います。
とにかく「凡庸」であるワタシは、まだもうしばらくは「ウクライナ」に頭を持って行かれたままになりそうです。それでも「オレたちのことはもうお忘れ?」と他の難民の人たちから後ろ指をさされないよう、心には「ゆとり」を保てるよう祈って参ります。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki
GWも終わろうか、という時期ですが、皆様は楽しいホリデーを過ごされたでしょうか?今年は、三連休が二回と、最後に連休がひとつだったとか。間の平日二日に上手く休みを取れた際には、合計十日間の連休?
十日連続だとかなり長いですね。それに、コロナの規制も今年は緩和されてたようですし、良い休みをエンジョイされたことを願います。
くつろぎ感アップ用ピック1 今回はレイキャビク市街ピック
Myndin er eftir Nicolas_J_Leclercq@unsplash.com
その間、こちらにはもちろんGWはありませんので、私はごくごく普通の日常を過ごしておりました。正確には、ウクライナ難民故の「特殊割り当て」の仕事が入っていますので、「ごく普通」ではない日々が続いているのですが、二ヶ月もそういうのが続くと、そちらの方が「普通」になってきてしまいます。
つまり新しい環境に –それが良いものであっても、悪いものであっても– 慣れてくる、ということなのでしょう。これは「恵み」にも「悪弊」にもなり得る諸刃の剣のように見受けられます。
先日、ウクライナ難民の女性の方ふたりと話しをしていたら、おひと方は東部のドネツクの出身、もうひとりの方はマリウポリの出身と知らされました。一番、戦闘が激しいところです。
ふたりとも家族がまだドネツクにいるということなのですが、家族の安否を心配すると共に「家族はそういう状況にいることに慣れてきてしまっている」とか懸念を示していました。
ニュースで破壊し尽くされたような市街地の映像を見ているこちらとしては、「慣れる、なんてあり得る?」という気にさせられます。
おそらく「慣れる」ということは、良いこと悪いことの次元を超えて、「生き残る」ための本能というか「術(すべ)」なのだろうと考えます。
くつろぎ感アップ用ピック2 コンサート・ホール「ハルパ」内
Myndin er eftir FUTC@unsplash.com
さて、このブログを読んでくださっている方はお気づきだろうと思いますが、私は非常に凡庸な男です。「凡庸」といっても意味は広いでしょうが、私の場合は特に「理解が遅い」「切り替えが遅い」「散漫な集中の仕方が長きに渡る」というようなところに集約されると思います。
最後の「散漫な集中の仕方が長きに渡る」というのは、要するに120%の集中力で一時間で終わらせられるものを、70%の集中力しか持たないので、六〜七時間かけてしまう、というようなことです。
その反面で「切り替えが遅い」これは複数のことに同時に対応する能力がない、ということです。例えば、ある日に結婚式を担当するとしますと、その日は「それだけ」になります。他のことが頭に入ってこないのです。
最近、マックとかでよく「ユニファイド・メモリ」とか聞くじゃないですか。作業処理上のメモリーの大きさと効率のことだと思うのですが、ワタシの頭はそのメモリーというか対応力に乏しいのです。よって、複数の作業を同時に遂行することは不可。
それでも、一日で結婚式二回、ということは過去何度かありました。これは基本的に同じ線上のことなのでまだ可能。ですが、結婚式とお葬式、というような組み合わせはまったく無理です。
もっとも周りを見回しても、結婚式とお葬式を一日で担当している牧師さんはいないですね。別にそこまで背負わなくても、他に担当できる牧師さんがスタンバイしていますから。
というわけで、日常生活すべからず、私は「一度にひとつ」みたいな限界を抱えて生きております。マイナスばかりではないですね。例えば、時折耳にする「二股」「三股」とかの危険は、ワタシの場合はゼロです。(^-^; したくても能力的にムリ。
くつろぎ感アップ用ピック3
Myndin er eftir Ludovic_Charlet@unsplash.com
なぜこんなことを書くかというと、ここ数週間のブログを眺め返して気がついたことがあるからです。ウクライナ難民のことばかり。気がついても、驚くというよりは「ああ、そうだろうな」というのが正直なところ。
三月の初めに、教会の中での「ウクライナ難民対応チーム」のようなアサインメントを受けて以来、このことにかかりきりのようになっていて、あまりそれ以外のことが見えていません。
来週にはアイスランドも参加しているユーロビジョンコンテストがあります。火曜と木曜日の二回に分けて準決勝。そして土曜日が決勝コンテスト。その同じ日には、アイスランドの地方総選挙です。
ラジオとかでは、結構ユーロビジョンの話題で盛り上がっているようですが、ワタシは全然蚊帳(カヤ)の外です。(「蚊帳の外」なんて、今時通じるのかな?)
加えて、テレビとかでは地方選挙も熱いトピックですし、私も辞めそうで辞めなかった緑の党の一員なので、選挙関係のメイルや集会案内、活動参加の要請等が毎日のように入ってきます。
緑の党に関する顛末はこちら: 「やめるの『ヤーメタ!』の巻き」
アイスランドでは、原則五年間以上継続して居住している場合には、外国人でも地方選挙に参加することができます。実は私は、今回もレイキャビク市の比例代表名簿に入っています。二十四番目。
こういう席は、実際に市政に参加する可能性はゼロのため、「名誉席」とか呼ばれています。もっと平たく言うと「飾り席」「雛壇」であって「こういう社会的地位の人もいるんだよ」「外国人もいるんだよ」ということをアピールするために用いられます。
外国人と選挙についてはこちらも:この国で選びたい! 選挙権と国籍
レイキャビク市政選挙 24番目のワタシ
Myndin er ur vg.is
ですから、選挙で一生懸命に走り回っている人たちも多くいます。それでもワタシにはどこ吹く風ですね。ユーロビジョンも選挙も頭に入ってこないのです。
私自身にとっての実害はないのですが、唯一困るのは、私自身が普段から関わっている「ウクライナ人以外の難民の人たち」と共にいる時間もやはり削られてしまっていることです。精神的にも「共にいる」部分が減少してしまっていることは、事実ですね。
これは良いことではありません。実は難民の人たちの中からも「なんでウクライナ難民ばかり優先するのか?」「難民差別じゃないのか?」みたいな声も漏れ聞こえてきます。
つい一年足らず前、タリバンの復権を前にしてアフガニスタンからの難民が急増した際には、アイスランドでもそのニュースがひっきりなしだったのですが、今はアフガンの「ア」の字も聞こえてきません。
確かに当事者にしてみれば、「そういうもんじゃないだろう?」と言いたくなるのは当然でしょう。
これらはかなりセンシティブな事柄ですし、きちんと丁寧に対応する必要があります。この点は、また機会を見てきちんと書いてみたいと思います。
サポートをしている側にしてみれば、別に誰彼を好みで優先しているわけではないし、後回しにしているわけでもない。差別しようとしているわけでもありません。それは確かだと思います。
ですが、そういう状況の中で生じてくる「差別」とみなされることこそ、実は本物の「差別」なのではないかという思いがあります。これも、かなり繊細な事柄でしょうし、言葉足らずで誤解を生みたくはありませんので、またの機会に改めて書いてみたいと思います。
とにかく「凡庸」であるワタシは、まだもうしばらくは「ウクライナ」に頭を持って行かれたままになりそうです。それでも「オレたちのことはもうお忘れ?」と他の難民の人たちから後ろ指をさされないよう、心には「ゆとり」を保てるよう祈って参ります。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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ウクライナ難民支援は、どうしても他国と歩調を合わせるための政治的ジェスチャーにもなってしますね。
そうですね、日本はもっとアジアの難民支援に関心を持って欲しいと、私も考えます。