僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(4/15)「厭がらせの年齢」 義母

2015年04月15日 18時05分46秒 | 日常、仕事、認知症
丹羽文雄の短編に
「厭がらせの年齢」という作品がある。
学生時代に読んだのだが
今でいう認知症の老女が家族に厭がらせをして(認知症症状)
親戚にたらいまわしされるといった内容だった。
戦後に書かれたものだから
認知症という言葉はない。どれだけそれが医学的に進んでいたか、
どれだけ一つの家庭に「認知症」を介護する心構え、認識があったか、
当時は皆無に等しい。
21世紀の未来を予告するような警鐘の作品である。
その丹羽の娘が、後に丹羽の認知症に関する(丹羽も長生きし、認知症を発症)本を
出したのもうちにある。
その「厭がらせの年齢」は、80代の認知症を指していて、
私は
たまに「まさに厭がらせの年齢だ」と思ったことがある。

義母。

今日は久々に口論となった。

仕事で疲れて帰宅して遅い昼ごはんをゆったりと紅茶とパソコンで過ごすのが
ひとときの癒しの私。
大体は、帰宅したとたん、玄関先に出てきて
ヘンなことを言って、不快にさせる義母であるが
今日は出てこなかったので安心した。
しかし。

二階に上がったとたん、
廊下のネコの水の上に
大きなダンボール紙に書いた文字を見て、私はカーッとなってしまった。
「世の中、見るべし。自分のことだけ始めから感じ。」
原文。
文章として成り立っていないのはいつものこと。
こういう文言の用紙は、外の植木鉢の下とか、サンルームの植木の所とか
そこかしこにある。
いつも来る(実際はそんなものはいない)、オトコ、オンナ、拝み屋、という
彼女の頭の中の人物に対しての警告文書(しかも読んでもよくわからない)である。

私はそのダンボールを持っていって
下の義母に
どういう意味か、聞きに行った。
「世の中、見るべし」という上から目線の文言が気に入らなかった。
むろん、彼女の方が長く生きているから上から目線もおかしくはないが、
逆にその文言を彼女に言い返したいくらいの気持ちでいる。
これまで彼女の正常なときの
彼女の夫(故義父)、私たち息子夫婦に、精神的、日常的、経済的に
おんぶにだっこ状態で、お嬢様のように過ごしてきた人に言われたくない言葉である。
お風呂のスイッチ一つ「怖くてつけられないの」と正常なときに
自分を正当化してきた彼女にどこか潜在的に侮蔑の意識があった若かった私だ。
私の夫はいつも言う。
「80代で、1人で暮らしている人はたくさんいる。」
義母は働いたこともなければ(義父の仕事の手伝いはしていたが)、介護もしたことがない人だ。
そんな彼女に「世の中、見るべし」なんて言葉言われたくもない。
なぜ、そう思ったか聞くと
「ネコをどうするのか。」と
このごろは彼女のマイブームの言葉が出る。
夫にも言ったそうだ。
要するに、私たちがネコたちを捨てると、勝手に断定しているのだ。
その都度、頭に来ながら、否定し
(否定するのも癪である。そもそもそんな話、どこにも出ていないのだから)
「そんなこと、勝手に思うな!」と私は言った。
「頭がおかしくなるから、話しかけないで!」と言って二階に上がった。

そしてそれで終わらなかった。
パソコンを観ながら、紅茶を二杯飲み、パンを食べたあと(1時間くらいだったか)、
さて、録画でも観るか、とソファに座ってリモコンを取ろうとしたとき
なんと、テーブルの夫の書類の上に
またも2枚目のダンボール紙を発見。
私は1時間ほど、紅茶を飲んで少しクールダウンしていたのだが、2枚目には
全く気づかなかった。
しかも、用がない限り、互いのプライベートの空間には出入りしないという暗黙の
ルールが破られた気持ちになった。
「言いたいこと山程アリ。世の中知らぬ2人に。」原文。

彼女と話さない、とさっき言ったばかりだが
それを持って
また聞きに行った。
彼女もさっきの件で興奮していた。
「言いたいことがあるなら、言ってよ。」私。
「言わない!あんな態度取られて、言うわけないでしょ!」
「世の中、知らないってどういうことなんだ?」
「それ(ダンボール)を持って、あちこちに聞いてみればいいでしょ!それにいつも来ている拝み屋に聞いてみればいいでしょ!世の中、そいういうもんじゃないんだ。」
世の中、世の中、いつも言う。
どうもその拝み屋というのが私の所に来て、いつも話している、と思っているらしい。
これも、最近出てきていた言葉だ。
「拝み屋だなんて、気持ち悪い。お義母さん、おかしいよ!」
「私はおかしくない!おかしいのはそっちだ!」

決裂。
もう、話しかけない。
これ以上、売り言葉に買い言葉。

この間の日曜日(私は出勤日)、夫と義母が買い物に出かけたのだが
車に乗ったとたん「猫たちはどうするのか。」と始まったようだ。
夫も短気なので
そのことで喧嘩になったとか。
私は「あなた、毎日、私直接そういうこと言われているのよ。腹立つでしょ。
謂れのないこと言われて、難癖つけられているみたいで。」

昔学生のころ
知らないおばさんがうちに上がって(父の知っている人?)、
穏やかに話していたのだが
そのうち新興宗教の勧誘になり、その狂信的な言い方に
ぞっとしてしまって、「出ていけ~!」と泣いて言ったことを思い出した。
あることないこと言い始まって、おばさん1人で興奮して、話しても無駄、ということを
思い出した。
何を否定しても、自分の考えが正しい、と思っているから
こっちの言うことを信じない義母。

今日はここまで。
もう、今は義母に触るまい。
自分がおかしくなる。
不快なブログになってごめん。





コメント
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