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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(12/2)今月は旅行に

2014年12月02日 13時22分37秒 | 日常、仕事、認知症
あれよあれよと言う間に
12月に入った。
結局、先月11月はたったの1日だけのブログ。
こんなはずじゃない、トモロッシ。

そのブログで触れた
例の
残業手当がついていないという件、まだ未解決です。
上司から
「現金で渡す、と(上の)上司は言っている、今月末まで。」という言質をとったのはいいのですが
とうとう、12月に入っても、何のアクションなし。
もう少し待ちましょう。
私だけではないので。



その前後、社員旅行の話になった。
私は前々から、参加しないと決めていた。
そして同じ部署の人たちも行かない、と言っていた。
「横浜だってよ。」
「行かない。」と会話はそれで終わっていた。

しかし。

上司が行程表を持って、参加する人は?と聞きにきたとき
それを見ると
「鎌倉散策、自由に。」とあり、夜は横浜中華街での食事、2日目は
はとバスに乗って、東京スカイツリー等に行くとあった。
あ、行きたい、と思った。
まず出発は日曜であること。夫が家にいるので
猫のことや義母のことは心配しなくていい、ということが決め手。
そして
何より
鎌倉で自由時間が取れるということ。

もしかしたら、ジャスさんに会えるかもしれない、とすぐに思い立った。
東京での自由時間があったら、
ブログ仲間のfairyさんとか、しゃちさんに初対面、というのもいいのではと思ったりした。
だが、2日目は個人の自由時間はないとのことだった。

夫に聞いてみると
「行って来い、気分転換してこい。」と留守の快諾をしてくれた。
その気になった。
その気になったら、すぐにジャスさんにメールを送った。
何とかなりそうだ。

翌日
上司が返事をもらいに。
「残業代のことでモヤモヤしていますが、行く予定にしています。」と答えた。
そこであの言質を取った。

「鎌倉で知人に会っていいですか?」
「うん、大丈夫だよ。次の日は皆いっしょの行動だけれど。」

ということで
寒い日ですが、ジャスさん、鎌倉で会いましょうよ。



鎌倉は二度ほど行ったことがある。
一度目は、留学生と富士山、鎌倉、江ノ島、横浜へと珍道中したとき。
独身時代だ。
二度目は
小旅行の引率で。
そのとき、ジャスさんと鎌倉の細い裏道を散策した、と記憶しているのだが
ジャスさんではなかったのかしら、あれは。
彼女と私の趣向は似ているので
裏道の古い民家や豪華な家や小物屋などを見て歩く楽しみを味わったような気がする。

もう何十年も前のことなので
誰と散策したのかしっかりと覚えていないのだが
私の中では
ジャスさんだった、と記憶している。


思えば
2010年の北海道への里帰り以来
どこにも行っていない。
震災後は
被災地に夫とともに
食巡りをしただけに留まっている。

猫たちがいるので
義母がいるので
夫とともに旅行、というのは今では考えられない。
この社員旅行を利用して
初めて乗るはとバスを楽しもうという積極的な気持ちになった。
スカイツリーなんて、これからも
個人的に旅の目的に入れる、ということはないだろう。
だからこそ、行ってみようと思った。

ジャスさんと会うのも
何年ぶりだろうか。

これまで
何度も
東京に行くなら
千葉の市川動植物園にオトメちゃんに会いに行きたいとか
またジャスさんと神田の古本屋街を歩きたいとか
昭和的な喫茶店を見つけたいとか
fairyさんに連れられて、おいしいものを食べたいとか
考えてきたが
夢の夢。







義母は
あれから財布や家の鍵を2回無くして(どこかに隠して不明)
表情が険しい。
オトコのせい、オンナのせい、と相変わらず。
私も、捜すのが面倒で保留にしていたが
昨日
仕事から帰ったら、捜してあげようという気持ちになって帰宅する。
すると
すぐに食堂から出てきて
あれこれと言う。
話の内容は割愛するが
私も急に不機嫌になって声を荒らげてしまった。
そして財布を捜してやろうなんていう気も失せた。

このごろ、
義母の昔からの食器を捨てる決意をして
整理している私。
食器棚は地震のときの状態のままのところがある。
思い切って捨てるからね、と宣言。
一辺にゴミに出せないので何度か分けて出している。
油でベタベタになったものや、欠けているものも仕舞い込んでいるので
これまで言えなかったので実行。
お弁当を食べたあとのプラスチックの空の入れ物も積んである。
プラだけで、まず大きなゴミ袋2つ出した。
年末まで頑張るよ、コツコツ。
とにかく、可愛いもの、色のついたものはとっておく人。
食器用のスポンジは台所に彼女のものだけでも7,8個は置いてある。
それらは、ただカワイイというだけで袋から取り出して飾ってあるもの。
そのうち、未使用でも油でベタベタになっている。
いつかこれも言うぞ。
並べておきたい性格。
そして使うのは古ーいもの1つのみ。
今まで我慢してきたけれど、言います。

(11/13)久しぶりのブログです、また。

2014年11月13日 17時21分27秒 | 日常、仕事、認知症
ブログのブランクがますますひどくなっているね。
毎日忙しい、と書けばその通りなのだが
これまでも
そういう日々は続いていて
その合間を縫って書いてきたのに
気持ちの問題ですね、これは。


今、ちょっとしたトラブルが起こっている。
給与の件。
ついているはずの残業代がついていず、
説明を求めている。
さてどうなることやら。
先月は大忙しの月だった。
泣き寝入りはいやだ。
当然の権利として、給与の明細書等コピーして直属の上司に相談。
更に上の上司に言いたいが、順番があるので
まずは直属の上司に伝えてもらう。

明日は休み。
少し写真の整理をしよう。

明日から寒くなりそうだ。
まだ暖房はつけていず。



義母は相変わらず
あちこちに財布などを隠して
オトコのせいにして
無くなった、無くなったと騒いでいます。

私も探す時間が惜しくて
休みになったら、探すから、と言っていましたが
今日、ようやく紙袋の中から見つかったようです。
隠す場所が増えて増えて、もう面倒くさくなりました、私。

一昨日は
「トモロッシちゃん、またオトコが来たのよ。今度は朝に来ていったのよ。
朝、パンを食べようとして焼いたあとにテーブルの上に置いて、
ちょっと離れた隙に・・・・

ジャムを塗っていったんだよ!アッタマに来たわ。」

私は声を立てて笑った。
「仲いいねえ!」


昨日は。

炊飯器の米を見て、私は
「あれ?お義母さん、ごはん食べなかったの?(義母は夕方4時ごろには
夕飯を食べる。)何、食べたの?」
「え?何食べたんだろう・・・・」と1時間前の食べたのを思い出せない。
「食べなかったの?」
「いや、何か食べたと思う。あれ、何だろう?」
「え~、お義母さん、とうとう・・・」
「あらあ、私もとうとうボケてきたかしら」
「いや、まだ大丈夫。食べたことは覚えているから。じゃ、今から
チャーハン作ってあげるから。」

お風呂前に二度目の夕食。おいしかった、おいしかった、とご機嫌で
お風呂に入りました。

夜、二階でテレビを観ながら寛いでいると
寝た、と思った義母が上がってくる。
財産の入った袋を持って。
「コタツの中に隠しておいたけれど(なぜかヒソヒソ声)、オトコが
ウロウロしているようだから、預かって。」と
二度も上がってくる。
これが若夫婦だったら、寛げないよ、と夫に言う私。





(10/24)毎日のように探し物

2014年10月24日 20時17分47秒 | 日常、仕事、認知症
西日の強烈な光を見つめて
目がクラクラしてしまった。
久しぶりに西側に窓のある自分の部屋から
西日を眺めた。

確実に寒くなってきているのだが
日中は日差しがあると部屋は暖かい。

休みになっても
ゴロゴロできない。
あれとこれとあれとこれと
メモに書きつつ用事をこなしている。

ブログを休んでいる間に
歯痛になった。
鎮痛剤でごまかしてはいたが
とうとう効かない状態になった。
歯科に駆け込んで
「死にそうです。」と痛みを表現した。
土曜日の午後に駆け込んだので、治療は無理かと思ったが
即治療してくれた。
歯科に行くのって、いつもながらいやですよね。
ところが
麻酔、痛かったら左手を上げてくださいとか言われたけれど
全然痛くなく、
却って眠くなるほどの快感だった。
それ以来、歯科に通うことが楽しみになった。
歯槽膿漏のチェックとか歯石取りとか、大変気持ちよかった。
良い歯科医に出会えた。
夫もそこに通いたい、と言っていた。


町内会で
道路の件で
夫と義母の印鑑証明書が必要になった。
義母に
登録カードと実印を用意するように言ったが
案の定
そんなもの、存在すら知らない、オトコが持っていったに違いない、と
探す気さえない。

私も忙しいので
すぐに探すことができず、ようやく時間が取れたので
探し始めた。

ようやくようやく、それらを探すことができ、
今後それらを預かることにした。

そして書類書き。
その手間のかかること。
自分の名前、住所、電話番号を何枚かの用紙に書くだけのこと。
スムーズにできない。
2丁目を2町目と書いたり
自分の電話番号も言えるのだが、-を入れることを知らない。
「お義母さん、何回も書くことによって、自分の住所、名前を
いつかどこかで書くときに役立つのだから、きちんと書けるように。」と言う。
そこまでボケてはいない、甘えだと思っている。
何でも嫁がやってくれる、と60代の頃から思っている。
義父が生きていたころは、それら一切義父がやり、
義父が亡くなったあとは、嫁がやり、
全く彼女は頭を使っていない。
だから、決して難しいことではないので、これらは書かせることにしている。
頭、手は使わなければ、ますます退化していく。
夫と義母の用紙のチェック、読み合わせも彼女につき合わせた。
面倒なことはしたくない(これは夫もその傾向あり)、やれる人がいれば(嫁)
その人がやるべき、という考え。


この間も
お寺に送る現金書留の住所を書いているのだが
トモロッシちゃん、見てちょうだい、と
歯科に行く前に言われた。
それを横でチェックして
終了後、私は出かけた。

そして
帰宅後(2時間くらい)
玄関にすぐやってきて
「また、やられた!オトコに隠された!持っていかれた!」
と言うので
「そんなはずはない。お義母さん、どこかに隠して忘れたんでしょ。」
と探し始める。
本人は、どこに隠したか忘れた、というより
オトコに持っていかれたので、またも探す気なし。

「お義母さんが、隠したいと思う場所はどこ?」
「う~ん、納戸かな。」
ということで納戸を中心に私は探す。
そして見つかったのは
まず、カレンダー。いろいろな妄想のつぶやきを書き込みしていたカレンダーを
何ヶ月か前にオトコに持っていかれた、と言っていたのが
洋服の入ったケースの下から発見。

次に
バッグのケースから、現金書留の封筒3枚。これは失敗したときの予備。
これは近い、とその辺を探すと
さっき書いた書留が出てきた。

あちこちに隠しすぎて、移動しすぎて
もう自分でわからなくなっている。

そしてそれらを入れた布袋を腰に巻きつける。
それが一番いい、と私も言った。
そして私はその袋に鈴をつけた。
探すにも、箱やケースを揺らせば
鈴の音を聞くかもしれないので。

そのうち
それらはとうとう私たちの生活範囲のほうに隠すようになった。
オーディオルームにある
ダイジロー専用のコタツの布団の下に隠していた。
私は
隠す場所の範囲を広げるな、と言った。
お義母さんの生活範囲でさえも、探すのにしんどいのに
こちらまで伸ばされては
探す方も大変だ。
夫に言うと
いいんじゃないか、との返事。

なんだかモヤモヤします。


明日も3時起き。
これから寝ます。












(10/17)知人に会ったが・・・・

2014年10月17日 11時29分46秒 | 日常、仕事、認知症
先日
10年ぶりに知人に偶然会った。
仕事が終わって街の中を歩いていると
すれ違った人の顔を見て
あ、と思い
声をかけた。

名乗っても
思い出せないらしい。
私も、その方の名前が咄嗟に出ず
これこれこういう理由で以前、よくお話していた者です、などと
話しかけたが
私の顔に見覚えがないようだった。

そのまま別れようかと思っていたら
「まあ、お茶でも。」と彼女は誘ってくれた。

年齢はあの頃、年配に感じていたから
あれから10年であれば
70台後半だと思われる。
年齢を聞くのは失礼だと思って、聞かなかった。

そして
当時の思い出話や、共通する知人のこと、
私の携帯に、彼女の電話番号が入っていること、
うちの近くのマンションに住んでいる(今は引っ越したとのこと)ことなど
私の記憶している彼女のことを話してみたが
お茶を飲んでいる30分間で
とうとう私のことを思い出してくれなかった。
名前を聞いて、自分の携帯を調べたら、彼女の名前があり、
彼女はそれを見て、びっくりしていた。
それでも思い出さない。
しかし
さわやかにお別れすることができた。
何より
もう過去の人、会わず仕舞いの間柄であるのに
元気に生きていたことを知ってよかった。
共通の知人は、大病をしたと聞かされた。
おそらくそちらの方は
私のことを覚えているかもしれないので
いつか機会があれば
3人でお茶を飲みましょう、と別れた。

夫や職場の人に
このことを話したら
大笑いされた。
夫は
「詐欺だと思われたんじゃないか。」と言う。
30分、いろいろと共通の話題を提供しても
とうとう
「ああ、あのときの・・・」と思い出せないほどに
影の薄い私だったのかもしれない。

(10/1)夏の思い出(1)と義母のこと

2014年10月01日 11時52分20秒 | 日常、仕事、認知症
2ヶ月近くブログを更新しなかった。
季節がガラリと変わっている。

10月の初日
半袖の私は、太陽の暖かみを感じてまだ夏が終わっていない気分。
夏の記録をしないうちに
秋が来てしまった。
世間は衣替えの日。
実感湧かず。

夏にいろいろあったことを
弾む心を持って書きたいが

義母とのちょっとしたやりとりで
全てが色褪せてしまう。
こっちの方が現実的な問題、自分の目の前にある問題だ、って。

今日こそ今日こそ
書こう、と思っても
私が休みの日だと知ると
二階に上がってきて延々話す義母の応対に辟易する自分。

互いに言葉をかぶせあって
聞く耳持たず、である。

「二階で変わったことはないか。」から始まる。
何も変わったことはない、と言っても
それが主じゃないから、自分のことを延々話す。
いつもと同じだ。
私が怖いのは
具体的に近所の人の名とかが出てきて突撃すること。
今日は
うちの前のホテルの名が出てきた。
ホテルの非常階段からこっちを懐中電灯で照らして見ている、と。
警備員の方が毎夜見回りをしているので、それがうちを照らしている、となるわけだ。
そんなことは何十年も前からの仕事で、こちらも知っていること。
雨戸を閉めているので、義母はおそらく開けてまで見ていない。
いつか見た光景を思い出して、今あったことのように語るのであろう。
そして
それが頭に張り付いて、行動に移してしまうのが怖い。
だから
「向かいのホテルに突撃するのはやめて。」と言った。
義母のホテルに対する言い分はこうだろう。
「警備員が見回っているときに、必ずうちにむかって懐中電灯を照らしてこっちを覗いている。」とでも。

そんな行動だけは強気でやる義母である。
近隣の人はそんな強気の義母を知らない。
温和で息子思いの優しい母親。
だから、信じられない、家族は一体どうしているんだ、となる。

先月
義母の掛かり付けの病院に行った。
義母には内緒である。

先生も義母の長々と語る「オトコが毎夜うちに来る話」に心配していたところだった。
そして
私は現状を話す。
日中は特に問題ないこと。
普通に買い物にも行くし、計算もできる、近所の人との会話にも
不自然さは見られない。

しかし夜、灯りを消したとたん
始まる妄想。
それで何度も呼び出される。
義母もそれらのオトコたちを見てほしくて
私たちを呼ぶが
私たちが階下に行くとたちまち逃げて消える、とのこと。
だから
私たちは一度もそんなオトコたちを見たことがない。
そもそも
雨戸も閉まっているし、鍵も掛かっている。

仏壇を替えられた
新しいところでは
墓参りしたとたん、墓を替えられた、と言う。
毎日、何かを替えられた、何かを置いていった、
何かの位置を替えられたなどなど。
仏壇、墓、通帳、年金などがキーワード。

先生は
精神科の病院に、と言う。
私も
そうしたい、と言うが
本人にはどう伝えたらいいのか、と尋ねる。
信頼する先生からの助言があれば
義母は受け入れるかもしれない、と
では
もう少し時間をかけて説得しましょう、と言われる。

その後
義母はそのやりとりは知らずに
薬をもらいに病院に。
先生は形式的な検査をして(それが異状であれば、大きな病院を紹介するという前提)
結果を見たが
至って健康。
義母はますます「自分はおかしくない。正常。」に自信を持つ。
その話を今度は義母から聞かされる。
「全然悪いところないって。大きな病院を勧められたけれど。」

今日もその話になって
「先生の言われたとおりに、人の意見も素直に聞いて、一度大きな病院で
診てもらったほうがいいよ。」
とか
「藁をもすがるつもりで、どんな意見でも聞いてみるということをしたほうがいいよ。」
と言っても
「ここはお化け屋敷だ!」の捨てゼリフを言って下に降りていく。

そういうやりとりがあって
ブログに
今日はこんな楽しいことがあった、こんな感動があった、と
今書こうとしても書けやしない。

先日は
通帳をなくしたということで
再発行の手続きについていったのだが・・・
疲れた疲れた。
割愛。






今月の休みが決まったが、壁に貼ってあるカレンダーに記入していない。
何となく、何となく、義母が見るようで、記入していない。夫に、記入しろ、と言われているけれどね。

少し夏のできごとを。

旭川の私の妹の娘(姪)が2年ぶりにこちらに旅行でやってきた。
以前
社会人になって初めてのひとり旅に、仙台を選び、片倉小十郎について調べに来た、と
歴女ぶりを書いたことがある。
その姪がまた一人でやってきた。
彼女の気持ち、行動は前回で読めたので
今回は妹のメールで東北に行くということで、スケジュールは本人任せ、連絡あったら
会ってくれ、ぐらいに受け止めた。

3泊4日の山形、宮城の旅。
そう受け止めた。
姪と連絡が取れて、仙台に来たときはまた牛タンを食べましょうとメール。
そして会った。
旅の行程を聴いたら
3泊とも仙台だったw

その3泊目に会ったわけである。
で、
「今回の旅の目的は?」と聴いたら
「図書館・・・」だって・・・
「え?」
「仙台メディアテークって、凄いですね、綺麗ですね。」
「片倉小十郎を調べるために、図書館に来たの?
もっと大きな図書館があるから、今度来たときは連れていくから。」と約束。
白石や山形などにも行ったが、仙台を拠点として動いたそうだ。
岩手にも足を伸ばせば、中尊寺もあるし、猊鼻渓もあるし・・・、と言ってはみたが
片倉小十郎に固執しているようだ。

「2年前の仙台一人旅のあと、どこかに行ったの?」
私は、京都とか、ディズニーランドとかを想定しての質問。
「フランス」
「え??一人で?なぜ初の外国一人旅を英語圏にしない?」
しかも、パックツァーではなく、全部一人で、計画を立て、ホテルも自分で予約。
一体その勇気、行動力はどこから?
私の姪?妹の子ども?
ちょっと感動に震えてしまった私です。

携帯を見たら、年頃の子は皆持っているはずのスマホではない。
ガラケーです。
「あらら、じゃ、ラインとかやっていないでしょ。」
「そうなんです、友人皆、ラインでやりとりして、私だけ仲間はずれなんですw」
そんな姪がおもしろい。
我が道を行く姪。人は人、自分は自分、というのを目の前で見せてくれた若者です。

うちに来て、ネコたちを愛でる姿は
私や妹の遺伝子を受け継いでいる。
私と妹は父親違いなのだが、猫好きはすっかり同じ。

空港で
妹の好きなずんだ餅とふなっしーのストラップを。
独眼流正宗仕様と笹かま仕様。
こういうのが好きなのは私と妹。
姪は、こんな親姉妹をどう思っているでしょうかね。
なんか、また
姪がふらりと仙台に
やってきそうです。
親戚に泊まったり、いっしょに行動することよりも
自分で計画を立てて、一人でとことん調べたりするのが好きそうで
その合間に、牛タンをご馳走してくれる仙台の伯母さんに会おう、というところでしょうか。
なかなかそれもよし。

後に
妹から
北海道の白いトウモロコシを送られました。
皆に分けて、おいしいおいしいと食べました。

(7/28)ブログ、書かないでごめんなさい。

2014年07月28日 21時40分08秒 | 日常、仕事、認知症
またまたブランクありすぎのブログになってしまった。
忙しい仕事の連続で
帰ってきてはダラーッと寝て、起きての生活。
この暑さ、本格的な夏、ですよね、東北も。
今朝は湿度が低くて、今日は過ごしやすいか、と思ったけれど
午後には暑くなって、体調悪くなる。
ちょっとネットの見すぎもある。
一昨日の佐世保の女子高生の事件。
衝撃的で、モヤモヤしている。

休日には
義母の相手。
財布と鍵を無くした(義母は、それを、うちに来る誰かが持っていったと言う。)
ということで、いっしょになって探す。
とにかく寝る前に
どこかに自分で隠して、どこに隠したかわからなくなって
それを誰かのせいにして、延々私も探す。
八幡神社に行ったときに、彼女のためにお守りを買ったのだがそれが付いている。
ようやくようやく、ダンボールの中からそれらが出てくる。
彼女は、自分がそうしたにも拘らず、持っていかれた、という認識しかない。
何にでも鈴を付けておくように言った。
外で落とした可能性は低かったので、うちの中にあるだろう、またどこかとんでもない所に隠したのであろう、という気持ちで探したので
見つかるのは時間の問題だったが、隠す場所が多すぎる。
ティッシュボックスから見つかった別の財布もあった。

こんなことになるのは、近所の○○さんが宗教関係に入っているので、どうのこうの、と
何十回も○○さんの名前を出すので、
「お義母さん、絶対○○さんの家に突撃しないでね。」と釘を刺す。
義母は、これまでも疑問に思ったり、妄想で疑ったりすると、その疑問の家に行って尋ねる人だから、それが心配。

年を取ると
こうなっていくのか・・・と立腹よりは、老人の悲哀を感じてしまう。
私にもいつかはやってくるこの年齢、この心の形。



前回のブログで
元同僚のIさんと会ったことを書いた。
また数ヵ月後に会うのであろうと、別れた。
ところがそのあと10日も経たないうちに会った。
北海道からメロンが送られてきて
彼女がメロン好きなのでどうしても渡したかった。
そのため、仕事が終わってから、彼女の住む町まで自転車に乗って出かける。
彼女は翌日から新しい職場に行くことになっているので
街の中心部まで来てもらうのは躊躇した。
そこで私が出かける。
仕事が終わって息つく暇もなく、自転車30分。
若干上りである。
カフェでお話。
まずは、彼女から勇気をもらったことの御礼。
彼女の後押しで、1つ解決。
そしてその後、もう1つ解決。
あのとき、「彼女の強気を私に・・・」という思いを胸に秘めて
行動開始した。
少し、気が楽になった。

悩んでばかりの人生だなあ、私。
それもこれも、私のだらしなさかな。
だから夫に言われるんだ。


こんな愚痴っぽいことを書いてばかりではだめだ。
明日は体調良く
キリッとした生活にしたいね。

(7/13)清々しい一日、金曜日。

2014年07月13日 17時30分53秒 | 日常、仕事、認知症
金曜日
仕事が終わって大急ぎで
Iさんとの待ち合わせの場所へ。
1ヶ月ぶりの再会です。
その前日の私の心は非常に重かった。
ブログに書いたとおりの沈鬱な状況。
彼女へのメールの返事も暗かった。
そんな状態で会うのは失礼かなとも思っていた。

場所は
一番町にある
いろは横丁。
ここは私にとって思い出深い場所。
今の職場がこうして街の中にあるにも拘らず
同じ中心部である一番町には全然来ていなかった。
特に
いろは横丁のある一番町2丁目界隈は。
いろいろと変わったなあ、と眺めつつ歩く。

そして彼女とまず
横丁を一周して目的の店へ。


「ろっこ」というピザ屋へ。
席、6席カウンターのみ。
非常に狭い。
横丁の店は大体狭い。
10人入れば少々広い、というような店が建ち並ぶ。
おいしく、たらふく食べることができた。
きっと、2人のヘンな話、両隣のOLに聞かれただろうなあ。
私の今抱えている問題のことね。

そこを出て、しばしあちこちの店を観る。
知っているおじちゃん、おばちゃんたちの姿がチラホラ見えたが
皆、忙しい時間帯だったので、声をかけずにそこを後にした。
今度は一人で来てみよう。
ランチの人たちで賑わっていた界隈である。
それは昨日父に報告した。
母を連れてきたいと思ったが母はもう外に出るのはいやだろう。

そこは
両親の店があったところだ。
私のもう一つの青春がそこにあったんだ。



東北大方面も歩いて、ここに喫茶店があった、本屋があった、などと会話しつつ。
丸善も駅前に移動したし
残るは、金港堂という書店、ヤマハ楽器店。
皆、思い出の場所だ。

そして柳町の
大日如来神社に行った。
お参り。
「この間(6月6日)も神社など行ったりしてずいぶんお参りしたよね。
お地蔵さんにもいっぱい触ったし。」と私。
そこにベンチがあったので座ってそんな話になる。
すると
Iさんが
「私ね、トモロッシさんに御礼したいことがあるの。」と話し始めた。
「この間、八幡神社に行ったでしょ。私ね、こんなに近くに住んでいながら
お参りしたことがなかったのよね。三居沢(さんきょさわ)にも小さいときに
お姉ちゃんと行ったきりで、怖くてもう行けない、と言っていたのに、トモロッシさんを
案内しなくちゃと思って、恐々行ったけれど。」

ここで
前回彼女と、彼女の住む町「八幡町」界隈を散策したときの写真を数点載せます。

三居沢不動尊の入り口。確かに鬱蒼としていて、子供心に怖いと思うかも。





猫塚があったり、滝の中にかわいい地蔵があったり、ずいぶん私たちはあちこちの石碑、地蔵に触れて、手を合わせた。


ここは山形に行く途中にある、昭和34年に起きた、バス転落事故の犠牲者のための石碑。
彼女のお母さんが若いときにそのバスに乗っていた、という話を聞いていた。
ここで手を合わせたときに、私、鉄柱で怪我をした。
「入るなって言われたのかなあ。いや、もうほとんど誰も手を合わせることがなかったから、私たちが来てびっくりしたのかも。」なんて会話していた。それを彼女のお姉さんに
オモシロおかしく伝えたらしい。あの怪我、結構彼女にも印象深かったようだ。







長い階段を上ってお参りした八幡神社。
そして隣の敷地にあったお寺にも。



お寺の敷地のコンクリート養生の、猫の足跡。

そのほか、街道にある、もう文字が見えなくなっていた地蔵、石碑に
私たちは
ずいぶんとあの日、お参りした。地蔵の頭を撫でた。

そして
さっきの彼女の話に戻ります。
「せっかく、八幡神社に来たから、きちんとお参りしたんだ。そしたらね、まもなく転機が訪れたのよ。私の変化。」
「何?何?ご利益あったの?」と質問攻め。
そして、その内容を話してくれる。
それは割愛するが、
「その転機は、偶然であるが、神社にお参りしたことが通じたのかなって。もし、トモロッシさんが神社などを訪れたいと言わなかったら、未だに私は神社に来ていなかったと思うの。」と感謝された。
その顛末を彼女が姉に話したら、「じゃ、お礼参りしなくちゃだめでしょ。」ということで、再び神社に行ったそうだ。
そして私に、お守りを買ってきてくれていた。
紫のフクロウのお守り。
粛々として私は受け取った。
彼女の住む町に行く、ということで
彼女は私の行きたいところを自転車で案内してくれた。坂道があり、下りはいいが、上りは自転車を降りて歩く。2人の中年女の自転車散策。かなり疲れたはず。
他にもいろんな所を訪れた。写真をいっぱい撮った。
充実した一日だった。
その日を、彼女も大事にしていてくれた。
もちろん偶然かもしれない、その転機とお参り。
が、彼女は「最初は、神社に行くなんて、苦痛だったのよ。」という初めの気持ちとは裏腹に、神社に行ったことによって、急に生活の転機が訪れたことと結び付けないわけにはいかなかったのだろう。よいことです。

彼女の意志的な話を聞いて、強いな、と思う私。
刺激である。
私は良い刺激をもらった。

そして清々しい気持ちで別れた。
夕食を食べるころ
外が赤々としていた。
私は外に出た。


朝焼けのような夕焼け。自然の美しさ。
昨日どん底だった気持ちが今日清々しくなれた(もちろん問題は未解決だが)。
一日、生き延びてよかったのだ。
そう思った。
こんな美しい夕焼けを見るのは生涯幾つあるのか。
皆、テレビを観ていないで、ごはんを食べていないで、この夕焼けを見てごらん、と思った。
そして、夜は満月がゆっくりゆっくりとかすかに移動しているようだった。








(7/13)暑くてベランダで寝る。

2014年07月13日 09時38分41秒 | 日常、仕事、認知症
昨日、仙台、30度を超えた暑い日。
夜、暑くて暑くて
ベランダでミミやナナと寛いでいるうちに
ここで寝よう、と
敷物と枕を持ってきて
本当に寝てしまった。
本当に外で寝てしまった、と
早朝4時過ぎに目が覚めて
自分の行動にちょっぴり驚き。
ミミもナナも、私と寝られることに喜んでいた。
いつもは
下のオーディオルームでダイジローと寝ているのだが
密室的な部屋なので(それに今は鍵を掛けて寝ている)
暑苦しさが目に見えていた。
でも
今日からまたオーディオで寝ます。
ベランダの床は身体が痛いので。
それにいつ雨が降ってくるかわからないし。
しかし、この味を覚えた私は
またいつか
この行動に出ることが予測できる。

昨日は
義母を連れて
私の実家へ。
私の母親と義母の会話は全く聞いていなかったけれど
老人は老人同士
ちょっと認知症の入った者同士として
会話は弾んでいたようだ。

私は父と北海道の話。
夫はムスッとしてテレビ。

寿司を買っていったので
母、義母、夫は寿司。
私と父は
餅。父が自動餅つきでついてくれた。

実家の庭仕事をする予定でいたが
あまりの暑さに、しなくなったのでラッキー。

親を連れて親に会う・・・ちょっとした親孝行でした。

次の項目では
前日
Iさんと会ったことを。

(7/5)久々のブログ。

2014年07月05日 10時32分41秒 | 日常、仕事、認知症
一ヶ月近く書いていない。
あれよあれよと7月。

録画していたドラマ「家族狩り」を観る。
松雪さん、いいねえ。
私の耳、彼女の低音聞き取りにくいけれど
彼女の演技、好きです。
字幕でなんとか。
しかしwowowでは字幕が出ない。
大泉洋と彼女のドラマのときはマイッタ。
あのドラマ、良かったんだ。

これから
実家の母の様子を見に行く。
父が3日から北海道に行った。
老老介護の唯一の拠り所としていた北海道行き。
80歳越えても、杖をつきながら、一人で旅立った。
父の北海道時代の友人の1人に、予め葉書を送っておいた。
何かあったらよろしく、と。
私の小さいときから知っている方。
脳梗塞の母は現在
一人でも留守番ができる。
ストーブを使わない時期なのでその点は安心している。
せかされなければ、なんとか自分の頭のペースで
家事をやれる。
午後からおもむろに出かけよう。

(6/8)風呂場に義母の持っていくもの

2014年06月08日 21時30分13秒 | 日常、仕事、認知症
義母
お風呂に
自分の財産(通帳、お金)の入った袋を持って行く。

お風呂から上がったら
「また、話を聞いて。」と言われた。

「自分が数えたお金がまちがっていたのか、訂正された金額が書かれた
紙が入っていた。全部、覗かれているので、風呂場に持っていった。」
と言われた。

どこに隠しても、見つけられるから持っていったとのこと。

なんか、認知症症状の典型だね。
年金とか通帳とかの言葉が出てきた辺りから
いよいよ、お金が盗まれたに発展していくのでは、と
予測していたが
まさか
風呂場まで持っていっていたとは。

「あちこち隠して、今度はどこに隠したかわからなくなって、
オトコが盗んだ、とならないように。」私。

昨夜
夫が、「明日(つまり今日)、車で買い物に連れていくから。」と誘ったが
(私は今日は仕事)、義母は迷っていた。
「家を空けると泥棒が入るから、行くのを迷っている。」
「泥棒が入ったって、うちには盗まれる財産はないよ。」
結局、出かけたらしい。
おそらく、全財産を持ち歩いているに違いない。

私はそれは危険だ、と言った。
老人がひったくられることが多いこと、どこに置き忘れたかわからなくなるから
家に置いておくように、と言ったが
「外で盗まれたほうがあきらめがつく。」だって。
聞く耳持たず。

ネットで
認知症のあれこれを読んでいると
この「財産が盗まれた、財布が盗まれた、嫁が盗ったに違いない。」というのが
よく出てくる。
お義母さんもその典型になりつつある。
今は
私に話しているけれど、いつそのようになるのか時間の問題。
その良い応対例として
「いっしょに探しましょう。」と言って、嫁が見つけても、有った、と言わずに
その辺りに導いて、本人が見つけるようにしむけるんだって。
大体、義母側の生活範囲に滅多に入ることがないので
どこにどう隠したか絶対、見つからないと思う。本人曰く
「絶対、見つからない所に隠していても、見つけられてしまう。」と言うくらいに
ヘンな所に隠してあるらしい。
まだ、隠し場所を覚えているからいいが。
私は年に数回(1,2回)ほど、彼女の生活範囲に行くが
昨年トイレや風呂場(1階にも風呂場がある。しかし今は2階の風呂に入っている)を
見たが、風呂場が納戸代わりになってしまって、そこに物がぎっしり積み上げられていた。
何が積んであるか、全然思い出せないが、いつのまに積まれていた。
義母が死んだあと、ここを片付けるはいやだなあ、と思ったものだ。
かといって、捨てろ、とまで言えなかった。
私は私で、屋根裏に、どっさりと、古い本とか昔の仕事のものとか、いろいろと
積んである。
そこを整理したいが、うちのネコたちには内緒の部屋なので開けられない。
初代のネコたちがよくそこに入って遊んでいた。
今のネコたちは10数年、その存在を知らない。
開かずの間、ネコたちの知らない箇所、3箇所あり。

私も思い切って、断捨離をしなくては。


金曜日(6日)、元同僚のIさんと会い、歴史散歩。
後ほど。

(6/3)義母との会話

2014年06月03日 17時19分02秒 | 日常、仕事、認知症
帰宅恐怖症候群である私。
勝手に名前つけてみた。
いや、一般にあるのかもしれない。

早めに仕事が終わって
帰宅するときの気持ち。
どこかのコンビニでお昼を買って、家に帰って、食べて、寝る。
大体こんな感じの毎日。

デパートの地下で夕食材料を買って、パンを買って
いざ帰宅となったが
何となく帰りたくない。

近くの公園で
そのパンを食べる。
たまにそういうことをするので、それほど自分で奇異ではない。
ハトもカラスもいないなあと思っていると
3羽のハトがやってきた。
パンのかけらをポイポイやって、
ハトのPちゃんを思い浮かべて(Pちゃんの羽模様はもうちょっと違ったなあ、と。)
無為に過ごす。

帰ったら
また義母が出てきて何か言うんだろうなあ、と。


ここ毎日のように
帰宅後に何かの理由をつけて玄関のところに顔を出す。
普通の家庭では当たり前の光景かもしれないけれど
うちでは
これまで用事のない限り
顔を出さないし、私もすぐに二階に上がって行く。

夜は夜で
義母は7時過ぎに寝るのだが
私が9時就寝で、下の部屋に下りていくと
暗い廊下をウロウロしている義母がいる。
暗闇にいると、ドキッとする。
そして必ず
「ダイちゃんが・・・」と
私といっしょに寝るダイジローのことを言う。
そんなことはあまりなかったが
このごろ富に多い。
きっと寝付けず、ウロウロしているのだろう。


そして午後帰宅したら
やっぱり食堂から出てきた。

「トモロッシちゃんにまた話さなくてはと思っていたんだけれど。」
先日の夜、書類をガサゴソしていたのを目撃した、と先日のブログに書いたが
それだ、と思った。

「また、(男が)やって来て、いろいろと動かされているんだけれど。
とにかく見て。」
「何をされたの?」
「私の年金の書類とか・・・(年金とか通帳とか、認知症には欠かせないアイテム?)、
どこから箱をもってきたのか、箱にきちんとまとめておさまっているの。見て、見て。」
(あなた、この間、整理していたでしょうに)
買い物袋など持ったまま部屋に導かれる。
「ほら、これ。どっから(どこから)持ってきたんだか(箱)。こうやって『年金』て
書いてあるし。」
(おっかさん、それあなたの文字。・・・言わなかったよ。)
「よかったね、整理してくれたんだね。」
「この間の下着もね、洗ったのよ。そしたらね、引き出しに綺麗に整頓されているのよ、いつのまに。見て、見て。」
「え、この間の下着、気持ち悪いからって捨てることになっていたでしょ。」
「いや、捨てようと思ったんだけれど、切って雑巾にしようかと思ってね。」と
引き出しを見せる。
「あらあ、綺麗に整頓されているね。きっと、守り神なんだよ。守られているんだよ。」
おそらく
自分で整理整頓したのを見てもらいたくての言動だと思うけれど、本人は正気です。
「いいんじゃないの?(男が)やって来て、綺麗に整頓してくれるなら。物が無くなっているわけじゃないし。守り神のようなもの。」
「ものが無くなったら、ドロボー!と言って交番に来てもらうから。」

「ついでに、食堂の食器棚のあの崩れそうな食器もいつか整理してくれたらいいね。」
と言ってみた。(夫の言われたとおりのセリフ。)
義母は笑いながら
「ハハハ。あれは地震のときのだからねえ。」
さてさて、それはやってくれるでしょうか、オトコ。

このぐらいのことなら、お付き合いしますよ、おっかさん。
今日のトモロッシ、合格です。
お義母さんのソレも合格です。
これが先日のネガティブな妄想だったら、私も我慢できません。
我慢して
「そうだねえ、○○さん(夫)は悪いことをしたんだねえ。」なんて
ウソでも言えない。
その辺の修行が足りない、と指摘されても、認知症初心者の私は
真実を曲げたくない。
どうか、お義母さん、平和な認知症でありますように。

私の母は、認知症という意味がわからないから
明るい認知症、穏やかな認知症という感じ(これからどう変わるかわからないが)だったので、余裕の対応できたけれど、
やはり義母のソレは時折、こちら側にも辛いものがある。


自分の中で
彼女の言動が認知症の症状だとわかってはきたけれど
まだ「?」のところがある。

今後死ぬまで
ストレートに「引き出しの中を整頓したから、見て」という表現ができないのだろうか、と。
正常なときに、それを表現できればいい。
もしかしたら
「オトコ」が整頓していった、と言えば
トモロッシちゃんはこっちを向いてくれるかもしれない、という義母の深層心理が
働いたのかもしれない、と文学的に受け止めてみる。
いやいや
認知症に、文学的解釈はなし、と言われるか。



(6/1)今日は暑い。いろいろ。

2014年06月01日 17時29分37秒 | 日常、仕事、認知症
暑い。
昨日から暑い。
今日は仕事が休み。

夫は
昨日会社の仕事上の付き合いで
岩沼(震災で津波被害があったところ。仙台空港のあるところ。ここも被害が酷かった)
の防潮林植樹祭に参加した。
全国から参加者6千人とのこと。大規模です。
その話を聞いて、私も参加したかったなあと思った。
20本ほど夫は植樹したそうです。

これまで存在した長く連なった防潮林が震災津波で流され、その生まれ変わりとして新しく植えられた樹木。
6千人の思いが込められている。
暑いにも拘らず、こうしてボランティアで参加し、一人一人が「大きくなれ。津波から守ってくれ。」という思いを込めて植える・・・参加したかったよ。
そして、仕事上とはいえ、夫がこういうことに参加できたことを私は嬉しく思った。
小泉進次郎氏、西村雅彦氏、石井竜也氏、鈴木京香さん、SUGIZO氏など著名人も参加。

SUGIZO氏のブログ(twitter)では植樹の画。
ああ、こうして植えられたんだなあ、と。

夫は日焼けして、顔が真っ赤になって帰宅。他の方もきっとそうでしょう。
お疲れ様でした。

近いうちに、夫とともにそこを訪れてみたいね。
「千年希望の丘植樹祭」 希望の名前だ。


今日は夫と休みが重なったので
お昼は
近くの中華屋へ。
以前勤めていた職場のすぐ傍。
ここの冷やし中華、ラーメン、五目あんかけ焼きそばがどこよりもおいしい。
いつもこの3つのどれにしようか迷う。
どれも少しずつ食べたい。
ここは思い出の場所。もう何十年も通っている。
昨年の暮れから今年の2月過ぎにかけて店を閉じたことがあった。
調理人の奥さん(教え子のお母さん)が体調悪くしてしばらく休んでいた。
もう閉店かなあ、と寂しく思っていたが
あるとき、復活していた。
お菓子を持って、「頑張り過ぎないように。適度に休んで、長く続けて。」と
言ってきた。
そして今日も行って来た。忙しいところに、わざわざ顔を出すのも申し訳ないので
ただ食べてきた。
5月の連休のときに
夫と3日連続で、3軒の中華屋へ。
結局、やっぱりここのが一番おいしい、と思った自分。
ホームページもないし、食べログにもない中華屋。
でも何十年も続いているので、やっぱり近所の人気店なのだ。
おばちゃん、元気で細長く続けてほしい。



さて、義母。
昨日、一昨日と
お風呂に入れる時刻に
「お義母さん、お風呂いいですよ~」と声をかけるために
義母の居室を開けると
義母は自分の化粧台近辺の書類(らしきもの。紙類)を見ていたり
昨日は、仏壇の引き出しに入っている書類らしきものを探し見ていた。

ああ
これは
「また、ナニナニが替えられている」とか「ナニナニが見られた形跡がある」の
セリフが出るのだなあと予感。

夫にあとで
そのことを言うと
夫は
「土地の権利書はどうなっている?ちゃんと上にあるか?ヘンにどこかに渡されたら
大変だぞ。」と言った。
私も、整理のヘタな人間なので、しかも権利書なんて滅多に見ないもの、ハテ、どこにしまったかと探し始めた。
自分の部屋にいることがなくなった今、
自分の机の中(おそらくあそこにしまっている、と思ったところ)を探したら
ちゃんとあった。
夫に見せる。

土地は、夫と義母の名義。
舅が亡くなったとき、2人で相続した。
家は夫と私の名義。
夫の実家であるここに、戦後建てた古い家があった。
同居をきっかけに家を建て直したのだが
建築のお金は私たち2人のお金。義父義母からは援助なし。
おかげで、今ローンで苦しんでいる私たち。(いや、これにはわけがあるんですが)

義父が亡くなったあとに、土地の権利書は義母が預かっていた。
家の権利書は私たち。

数年前(このブログを始める前)、
隣のマンション建設の件で、我が路地の人間たちがいろいろと動き出したとき、
私道の権利の有無の問題になった。
路地の家は戦前から住んでいる者(勿論世代交代している)と戦後土地を買って来た者がおり、
私道の権利のないものとあるものとのばらつきがあった。

で、その権利のないもの側にうちが入っていた。
隣とその隣と、うちと斜め向かいの家と、都合4,5件。
私道の権利がなくても、戦後何十年と問題なく過ごしてきたものだから
たまに親の段階で話題になっても、そのまま保留になっていた。
そこにマンション問題。
そして隣とその隣が動き出した。
双方とも同じ所有者から土地を買ったらしく、市内に健在だったらしく
比較的すぐに私道の権利を買うことができた。
街の真ん中なので、それなりのお金を支払ったらしい。
それらが解決したあとに
隣の奥さんから
「お宅も以前の所有者を見つけて解決したほうがいいよ。」とアドバイスされた。

私道の権利がない、ということを私はその時点で知った。
私は頭に血が上る。
夫も義母も亡義父もこれまでどうしてきたのか、と思った。
戦後すぐに、処理しておくべきだったことを
平成のこの時期に、どうしてくれようか、と。
何から手をつけたらいいのか全くわからなかった。
これは私がやるべき問題か?○○家(夫の)がやるべきことだったでしょ、と
夫に言った。
そこで義母に、私道の件は生前義父はなんと言っていたのかなど、尋ねる。
わかったことは
義父は一度、その権利を買うために動いたことがあったらしい。
何しろ、戦前の話。しかも、この市にいない、県北のどこかの村らしい。
生きているのか、死んでいるのか、全くわからない。
あの律義な義父さえギブアップした件。
義父の残してあったメモや資料などを私が引き継ぐ。

そして
不動産のことで一度相談したことがある不動産会社のおじさんに
詳細を書いて手紙を送る。
こういう問題について全くど素人の自分は
戦前の土地や戦後すぐの土地問題について調べることは気の遠くなることだと
嘆きつつ相談。
お金のない私たちが一体どこまでできるのか。
お金があれば、例えば権利のある隣の家から、どんとお金を出して買えば解決できるかもしれないが、それもできそうにない。なにより、権利を売りたくない、というニュアンスもあったのだから。

その殺気立った私の気持ちを汲んでくれ
おじさんは何とか探してみましょう、と果てしない約束。

(ちょっとここで中断。土地の権利書を探していたとき、当時の一連の手紙や資料などが出てきて、それらを眺めてしまったために、思い出してしまった一昨日。
夕食の準備をしなくては。)






(5/30)せっかくの休日。義母のこと。

2014年05月30日 17時45分13秒 | 日常、仕事、認知症
数日の仕事の忙しさに
昨日は帰宅して、すぐに眠った。
横になったとたん、ものの数秒で寝入ったと思う。
疲れて眠る、ということができるだけでも健康なのかもしれない。
心にいろんなことが渦巻いていたら
どんなに眠くても寝られないかもしれない。

そして今日は休日。
やるべきことをやろう、と早朝から動き始める。
庭の雑草があっというまに鬱蒼としてきた。
昨年の夏の
仕事を辞めたあとに無心に草取りをしていたことを思い出す。
ひどくならないうちに少しでも、と時間を決めてやる。
義母が顔を出すが、特に手伝うわけでもない。

そのあと
二階に上がって、掃除機をかけて洗濯ものを干して・・・

義母が上がってきた。
二階の居間のガラス戸を叩く音。

「一階の全部を(男が)替えていったが、二階はどうか。」と
言われた。
「二階は全然、替わっていないよ。一階の何が変わったの?」
「ぜーんぶ!警察に言おうかと思って。」
「仮に警察が来て、何がどう替わったかを説明するにも
リストアップしておかなければ。具体的に、何が変わったか書いてごらん。
仏壇も大きく変わっている、と言うけれど、どの大きさから替わったか、説明できる?」
「通帳も見られた跡がある。」
(認知症の被害妄想の中で、この通帳のことがよく書いてあったので
それまで、義母の口から出てこなかったから安心していたが、とうとう出てきた。)
「見られた跡、というのも具体的にどういうことか、警察に説明しなくては。」
ここまではまだよかった。
私も我慢して応対していたが・・・

「仏様と関係あるのかな、○○(息子の名。私の夫)のこととか。」義母。
「○○さんがどうしたって?」
「息子が悪いことをしているから(仏罰が当たった、ということか。)。」
「はあ?○○さんが何で、悪いことをしているのよ。」
ここから私、彼女のそれに付き合えなくなった。
「○○さんは、うちのために一生懸命に働いているでしょ。どうしてそんなことが
出てくるの?」
「だって、カレンダーの下に書いてある会社が、私の持っているカレンダーと
二階にあるカレンダーの名前がいっしょでしょ。」
どのカレンダーのことか、一階に行ってみた。
義母が書き込みしているカレンダーは、夫の会社から、取引先からもらってきたもの。
二階のカレンダーも、もらってきたものだが、別な取引先のもの。
そして、二階のカレンダーは
居間に貼ってあって
私はいろんな書き込みをしている。
ガソリン代、幾らとかネコ缶幾らとか、水道代幾らとか、ふなっしーの出演日とかその他諸々。
羽生君のパレードのためにIさんと会うとか、ね。プライベートなもの。
「お義母さんは、二階の居間に入ったの?いろいろ、見ているの?
そもそも、○○さんが悪いことをしたとか、カレンダーとかどんな関係が?」
「車だって、朝見たら、ない。」
「何時に見ているの?」
「3時とか、4時ごろ。そのあと、また朝、車で出かける。」
(心の中で、私は、バカ、と言っていた。夫が可哀相。仕事で早朝でかけるときが
ある。福島や気仙沼に。夫は初めて行く所を前日の夜に何度もチェックしている。
私も早朝起きなので、夫の早出のときはおにぎりなどを作っている。
夕方は残業がないときは5時半に帰宅する。帰宅するときは、眠っているかもしれない
私に必ず、今から帰るから、と携帯に電話をよこす。)
そんな夫のことを侮辱された思いで、自分の息子なのに、悪さをしたから仏壇が
替えられているとは、私は冷静に応対できなかった。
そのうち、嫁がこうした、ああした、となっていくのかもしれない。

これまで、一連のことをここに書いて、ほかの人に具体的な相談をしたことがなかった。
姉妹もいない、近所でこんなことを話す相手もいない。

(ここで、今、夫から電話あり。帰宅する、と。今日は肉ね、と私は言った。夫は肉が
大好きで、たっぷり食べたい派。)

隣の奥さんに話に行った。
奥さんは、仏壇を替えられた、という義母から、朝の8時くらいに呼び出しがかかったと
昨日あたりに知った私。義母から聞かされたので。
だから
多少のことは奥さんも知っているので通じやすい。なにより、義母と仲が良いし、案じてくれている。
しかし、私の口から言ったことはなかった。
炊飯器の操作をされている、という場面で出くわしたことがあったが
私の口から言ったことはなかった。

そして一連の出来事を話す。
私の親のことも知っているので、2人がガンで入院したこと、2人とも1年以内に2回も
手術をしてそれにかかりっきりだったこと。
それに対して、義母がまだ認知症になっていなかったときに
「こっちも親だ!」と私に投げかけたことも。
それ以来、私は実家に行くということを義母に言わなくなった。
4月末に実家に行ったときに、父の田舎から送られた米をもらったのだが
それさえ隠している。今までは、「米もらってきたよ~。」と気軽に言ってきたのだが。

義母は、塀から覗かれている、と言っていたとき(2月ごろ)、全く付き合いのない家にまで行って「電気、操作されていないか。」と尋ねたことも噂になっていた。
結局、息子と嫁はどう考えているのか、ということも。
それは想像していた。
義母に、あそこの家にも行ってきた、と言われたときにそれをすぐに思った。
こうして
近隣に広がるんだなあ、と。

隣の奥さんも、姑、舅を90歳過ぎまで世話をした人。
認知症もあった、という。
いよいよ、私の世代になったね、と言われた。
誰もが通りすぎてきたことだ、心して行かねば。
来週、支援センターに行ってくる。
今日は
これで精一杯の身体。

このブログ、夫、見るのかな。
夫は
自分の親のことを近所に知られることに厭いはしない。
ただ、夫の性格(短気)上、上記のことは言わない。
カレンダーと夫の悪さと、どうつながるのか結局わからなかった。
追及しても辻褄が合っていないので、やめた。

こんなこと、書いていいのかね。
書いてしまったけれど。

(5/25)義母の話に乗ってみる

2014年05月25日 21時42分23秒 | 日常、仕事、認知症
日曜の夜は
夫の就寝時刻が早い。
7時過ぎには寝てしまう。
私は9時の予定。

ブログを書く日にち間隔をあけてしまうね。
ここ数日は朝はひんやりとして
早朝起きは寒いのでまだストーブをつけています。
今日は暑くなる予定だったが
日差しが曇りだったのでそれほど暑くならず。

朝から
義母に呼び出され
いろいろと聞かされる。
彼女は今、毎日のように日記のようなものをつけて
毎日やってくる「電気男」(と彼女は名づけている)の様子を
書き連ね、それに対する心情を添えている。
それを私に見せて
「この間は、家に入ってきて
住所録に赤線を引いていった。そしてメモも残していった。」と言う。
「それを見せて。」
持ってきた電話番号を記入した住所録を見ると
確かに赤線が引いてある。
しかし、それらを見ていると全部、亡くなった方とかもう親交のない人たちばかり。
おそらく義母が正常なときに
それらに線を引いたのであろう。
しかし自分は引いていない、と言う。
男が書いたというメモには
「人形の供養、回収してくれるところの住所と電話番号。」が書かれていた。
これも義母の筆跡である。
「私の字に似せて書いてあるが、私ではない。」と言う。

人形、というのは
義母が昔から集めていた人形や小物のこと。
この家を建てたときに義母のために作りつけで壁面一面の棚を誂えた。
自慢の人形棚である。
家を建てたころはそれを喜んでいた。そこには私の集めたキティのぬいぐるみたちや
私の苫小牧時代の思い出の人形も飾ってもらっている。
その人形の今後のことを考えていたのか、日記にもそれらしきことが書いてある。
自分が死んだら、人形も供養してほしいとかそんなことかもしれない。

その日記は支離滅裂な文章で、書き殴り状態。頭に浮かんだ言葉をそのまま
殴り書きしたような。
それらを詳しく読むことはしなかったが、妄想と闘っている義母の孤独を感じた。

今日は早めにお風呂に入ってもらった。
私が家事をしているとき、風呂上りにまたやってくる。

「さっきの話の続きがあるのだけれど、ちょっと見に来て。」と呼ばれる。
「男が家に入ってきて、納戸の模様替えをしていっている。」
そして
下着の入った引き出しを開けて
「自分の買ったものじゃないものを置いていっている。」
と、明らかに義母の下着(メリヤスシャツなど)なのだが
それらを買っていないと言う。
「じゃ、自分が買っていないもの、男が置いていったものを選んでちょうだい。」と
私もその話に乗った。
「これも違う」と10枚くらいの古いものを床に置いた。
試しに、未使用のレースのスリップを手にして、「これは?」と尋ねると
「これは私のもの。」と言う。
義母はピンクとか赤が好きなので、下着は皆ピンクだ。男が置いていったのも
ピンクだ。しかも古い。
「じゃ、気持ち悪いから、捨てた方がいいね。」と私。そうする、と素直に従った。
本来、下着を置いていくはずがない、男が入ってくるはずがない、という問題なのだが
敢えてそこは男が置いていった、という前提での話に乗った私である。
(私としてもこれ、大事)

ふと、タンスの上を見ると
大仏(鎌倉の大仏ね)の置物が後ろ向きに、窓に向かって鎮座ましましていた。
その後姿が可愛くて、頭をなでながら笑い、「お義母さんを守ってね。」と言った。
その大仏は、私のかつての職場での修学旅行の引率のときにおみやげに買ってきたものだ。
義母の居間に行き、「お義母さん、人形のことは心配しなくていいよ。このままで
いいよ。」と伝えた。私が引き継ぐのであろう。
ただ、私の代で終わりだ。子どもも姉妹もいない。そのあとどうなるのかは後から考えよう。
義母が死んだら、人形もいっしょに供養を、というのは悲しすぎる。
昭和10年代、20年代のものもあろう。皆で引き継ごうじゃないか。
それらを愛する人たちがこの世にきっといるだろう。

部屋のものが増えている、と言う。男が置いていっている、と言う。
「無くなっていないで、増えているのね。じゃ、いいんじゃない。
来るもの拒まずで、いこう。」と言った。

「玄関のシーサーの置物が替えられている。」とも言われた。
「あれは、○○さん(私の夫、彼女の大事な一人息子)が沖縄に行ったときに
買ってきたものでしょ。替わっていないよ。」
「いや、前は優しい顔だったのに、今のは怒った顔になっている。」
「怒った顔になったからといって、捨てないでね。可哀相でしょ、それじゃ。」
そのシーサー、ネコたちが跨いだりして倒れて、耳が欠けている。
シーサー、怒った顔だよね、もともと。どんな顔だったんだろう、最初。
いやいや、最初から怒っているよ。

これらに付き合って
2階の夫に報告。
「男がものを置いていっているということで古い下着、捨てることになりました。」
夫、
「じゃ、食器も男が置いていったことにして捨てるように言え。」だって。
その食器とは
戸棚いっぱいに、義母の食器があるのだけれど、実は
地震のときに中でひっくり返って、開けるとなだれ落ちるということで開けるのを禁止
している(私)。
使わないので、本当は捨てたいのだが(夫につい先日、食器棚に自分たちの食器を入れたくても、あなたのお義母さんが古い食器捨ててくれないから入らない!と文句を言ったばかり)、彼女は物を捨てるというのはもったいない、と思っているので、半ば諦めている。
お義母さん、男は食器も置いていったかもしれないよ。


さてさて
今日は割りと自分も彼女に同調しながら進めることができた。
実は
先日、元同僚のミラさんから
認知症の資料をいただいた。
それを見て、敢えて義母の話に乗ってみる、という試み。
明日からまた忙しい私。
毎日のようにこれらに付き合えない精神。
どうなることやら。




(5/21)花の再生

2014年05月21日 09時36分36秒 | 日常、仕事、認知症
今日は
生憎の雨の休日。

五月が後半に入った。
一番過ごしやすい月。
さわやか、という言葉がピッタリの月。

早朝出勤するとき
路地を自転車で出ると
車通りの視界が急に開けて
汚れていない空気と生まれたての青空に
「おはよう!」と思わず声をかけてしまいそうだ。
そんなさわやかな気持ちをすぐにでもブログに書きたいが
いざ仕事が始まると
それを忘れ
仕事が終わるとぐったりして家に着き
眠ってしまう毎日。

こんなさわやかな気持ちで出勤するのは貴重だぞ、
もうすぐどんよりした梅雨になったり
暑い夏になるぞ、と戒めて
さわやかさを書き留めたい気持ちだった。

そして今朝は雨。
肌寒い。

昨夜、小雨になったので
カエルたちはどうしているかと
庭に出ると

諦めていたバラが咲いていた。
もう何年も
枯れた木の状態のままのバラ。
そこに一つの黄色のバラが大輪になって咲いていた。
毎日横を通りながらも気が付かなかった。
新しい枝が出ていたのだ。
諦めなくてよかった。
明日の朝(今朝)写真に撮ろうと思った。

そしてさっき
そのバラの写真を撮りにいったら
雨で散っていた。
でも、せっかくだから。

来年はもっと花をつけてくれることを望む。

東側のバラの写真を撮る。
蕾のままのが多い。
南のバラは咲いているのがあったが、晴れた日に撮ろう。








一番下のバラは
7年前、隣のマンションが建つときに
庭の樹木が切り出され、
そのバラも切られる、ということで
あまりに可哀相で、譲ってもらったものだ。
うちでこうして
再生している。
しかし、手入れが悪くて、よくアブラムシ等にやられて
花をつけても途中で枯らしてしまうことが毎年あった。
今年は早めにアブラムシ退治。
蕾がたくさんついている。
花開くのはもう少ししてから。

もう一つ花の写真を。

これは蘭の仲間?
花の名前に疎い私です。

これは
20年位前に
元の職場の先輩が
理科室で育てていたもの。
すごく小さかった。
もう捨ててもいいような状態だった。
そこで私が譲り受け
義母や義父(当時生きていた)に預ければ
生き返るよ、と言って花のついていない状態で戴いた。
それが
こうして年毎に大きくなって
花をたくさんつけている。
玄関の花に目を向ける心のゆとりがないままに
過ごしてきた。
ふと先日、あ、この花、○○先生から譲ってもらったものだ、と
我に返った。
彼は
5年ほど前に亡くなった。
もう既に体調不良で退職していたが
自宅で悠々自適の生活を送っていたにも拘らず
60代の若さで亡くなった。
確か
ブログをやっていた頃だったので
おそらくこのブログのどこかに書いてある。
泣けてしょうがなかった。
皆、泣いていた。

さっきの
大輪の黄色のバラ。
枝の大半が枯れていて、もう生き返らないと思っていたのに
数年して新しい枝が伸び、花を一つつけた。
再生。

隣のマンション建設前の庭のバラ。
切られて捨てられる寸前
うちに来て
再生。

そしてこの玄関の花。
捨てられそうになっていたものが
こうして何十年も咲いている。
花が枯れても、毎年新しい花が咲く。
人の命は
枯れたら最期、生き返らない。
花の再生に
羨望と尊敬を持つ、私だ。