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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/1)明日はイタリアンランチに

2015年06月01日 17時15分38秒 | 日常、仕事、認知症
魔の5月が終わった。
本来なら
芽吹く4月から
芽吹いた樹木の若々しい緑の色の5月への移行が好きなのに

自分に降りかかったことが
あんまりよろしくなかった。

1日の初っ端から
義母と衝突して
それがずっと尾を引き
今小康状態であるが
またいつ衝突するかと先行き不安。
そして
中旬に捻挫をして
それも尾を引いている。
痛みが全く取れなくて
引きずりながらの仕事。
ストレス倍増。
今も痛いので、全治3週間か。いやもっとかかるかも。

今日から6月。
衣替えの日。

明日は
半年振りに
Iさんに会う。
恒例のイタリアンのランチの予定。
今日職場の帰りに下見。
定休日だったが、健在。
昨年オープンしたところで、ちょうど
そこを通りかかったときに
メニュー表をもらったんだ。
いつか訪れたい、と思って1年。
食べログを見て、結構人気のある所として定着していた。
楽しみだ。
先日
父が北海道に行ったときにおみやげとして
買って来た
よいとまけ(父の友人が私に、と。いつも父の面倒を見てくれる人。私の小学校時代から
知っている人だ。)などを持って
彼女に会いに行く。

いつも書くことだが
Iさんとは
私の今の職場にいた人。
彼女のきつい指導に胃が参ってしまって、私は2回ほど退職願いを出したほどだ。
そして2回目の退職願が受理されたのが一昨年の夏。
その後
彼女も数ヶ月して辞めた。
彼女の辞めたあとに会社から電話があり、再就職しないかとの誘いがあった。
そして私からの条件付きで、今度は正社員としてではなく
アルバイトとして戻った。
その彼女とは辞めてからの付き合いが濃くなった。
昨年はいろんな所を回った。
彼女には励まされたなあ。
あの強いところが却って弱い私に刺激になったようだ。
指導のきつさはあったけれど
鳩のPちゃんを保護したときも
彼女の機転で、なんだかんだと助けられたんだ。
あのことは本当に感謝している。
もともと、笑わせるのが得意としている彼女。
久しぶりに大笑いしたい。
ずっと暗い1ヶ月だった。


(5/27)重い心で

2015年05月27日 20時27分27秒 | 日常、仕事、認知症
あんなに暑かった土曜、日曜。
今日はひんやりした空気だ。


心が重くなることの連続である。

捻挫した足の痛みが取れない。
明日で2週間である。全く日に日に善くなる気配がない。

昨日の子ネコの件。とうとう捕まえられなかった。
どこかに逃げたのか、今日は全然鳴き声が聴こえない。
昨夜の寒さで体力が無くなったかもしれない。
親元に帰れればいいが、それもわからない。

知人の夫が脳梗塞になったと連絡があった。
これが重い。
知人の心を忖度すると重い。

夫の会社の人が大怪我をしたとのこと。
詳細はわからないが、夫の話を聞いてきた限り、
その人も不運の連続である。

人の身を案じるほど
自分の生活はどうなのかというと
この通り。
義母とは夕方会話したが
抵抗力のない私は
沈んだ心で応対。

そして昨夜眠られず読んだ本(昔のを引っ張り出して再読している今)
の内容。
ノンフィクションのため、
昭和48年前後に起きた事件の当事者は
今、どうしているのかとネットで検索する。
私の若いときはネットがない。
今は
どんなことでも検索ができて

その女性が
義母と同じ年齢だということを知り
現在どのようにして暮らしているのだろうかと巡らす。

1人1人に人生あり。
義母にも人生あり。
若かった頃。
夫を生んだ頃。
可愛かった息子を毎日出迎えたころ。
義母には
あの頃の息子が今でも傍にいるように語る。
認知症じゃなかったころも
よく、聞かされた。
私は親の愛情が薄かったために
親から
そんな思い出は語られないだろう。
最近の語られた思い出は
養子縁組をした頃のことだ。
私は
子供のころから
遠慮気味でオドオドしていて
いつも母の機嫌に左右されて生活してきた人間だ。
夫は
普通に、きわめて当たり前に
母の愛情を受けてきた人間だ。
義母の語る息子への愛は誇張ではない。
母親なら当たり前の愛である。
私は
愛を語られる前に、規律を求められた人間だ。
母の求められる規律に達さない場合
容赦なく鉄拳だ。

夫の母親に初めて接したときに
庭に咲いていたバラを束にしてもらった。
お近づきの印に、と。
買ったバラではなく、庭に咲いていたバラを抱えきれないほどに
持ってきた夫に
今までとは違う、明るい未来を感じさせた夫との出会いだった。
あの頃の義母。
親の愛を身につけた夫。
自分のこれまでの生活を変える
「心の安定」の未来を予感した出会いであった。

しかし人生。
その思い出は消えずとも
色褪せることがある。

もっと客観的に
俯瞰的に
見ることのできる自分でありたい。

(5/26)義母との諍い 2

2015年05月26日 20時13分25秒 | 日常、仕事、認知症
今日は私の休み。
4時過ぎに起きて
5時ごろから夫の朝食の準備。
案の定
義母がその前から起きていて
食堂の周りのドアなど全開していた。
普段は
食事の準備のときは義母の部屋と通じるドア、引き戸は閉めるが
彼女はそれに抗うように
全部オープンにしていつでもこちらに来ることができるようにしているのがこのごろ。

「言いたいことが山ほどある!」と
いつものように話しかけ、一方的に
機関銃の如くわめいている。
彼女の部屋と台所は少し距離があるので
手元で家事の音を出していて、耳の聴こえない私には
何を言っているのかわからない。
それらを聴いているうちに
自分の身体が震えてくるのがわかった。
腕も足も心もガタガタ震えだした。
彼女の声への恐怖心か。
以前、仕事に行く時に前チーフとのやりとりを想像して
ガタガタ震えだしたのを思い出した。
あれが続いて、仕事を辞めることにした。

家事の途中で二階に上がった。
夫はまだ二階で支度中だった。
身体が震える、と訴えて自分自身を落ち着かせた。
すると夫は一階に下りていった。
その後
私がちょっとしてから下りていくと
全部閉まっていた。

家にいる間
また何か言ってくるのでは、と思い
洗濯などをしたあと
二階の奥でネコたちと過ごす。

朝、いつも出てきては怒鳴り散らしている。
夫は
私が仕事に出たあとに
自分で朝食の準備をして新聞を見ながらラジオの音を流していると
必ず、「言いたいことがある」と絡んでくるようだ。
夫は
相手にしない、無視することにしている。
仕事に行く前に相手をしていたら
時間もないし、何より仕事に影響が出る。
昨日も
前日のやりとりが尾を引いて
私の仕事は暗かった。

夫は
ジキルとハイドのような面を持っている、と言った。


どうにかしなければ、と思う。
彼女の病気というよりも
今の状態は
嫁姑の諍いに映る。
言っている内容がこれまでの
「オトコやオンナが来て覗き、あれこれいたずらしている。」というものであれば
まだ擁護できていた。
そんなものはいない、と何とか安心させていた。
自分の物を失くすのもそれらのせいにして
私たちに直接の攻撃をしてはこなかった。
それが今は
「二階に、トモロッシちゃんの(拝み屋の)旦那がいる。」
機嫌のよいときは
「二階の旦那さんも呼んでゴハンを食べさせたら?」となる。
そんなものはいない、二階にいる旦那はあなたの息子だ、と言っても
「いや、いるんでしょ、息子には内緒にしてあげるから。」などと
私が笑って「そうですね」と言えるわけがない。
もしかして
階段の壁とか二階の居間の山Pの写真のことを指しているのか?
あるいは
バイクの青木治親と共に撮った写真を飾っているのを見てか?
あれの撮影者は夫だ。

そしてこのところの口論は
これまでためていたものを吐き出すかのように
現実的な問題を口にする。
挙句の果てに
「だからこの家を建てるのは反対したんだ!」と数十年前のことを言う。
「何を今更言うか。反対したなどとは一度も聞いたことはない。
反対したなら、当然この家は建っていない。あなたがた(義父母)が賛成したから
こうして何十年も経っているのだろう。」
と私もまともに相手してしまうから
売り言葉に買い言葉になっていく。
そこが賢くない、とでもいうのかもしれない。

彼女の言うことに相手してしまう自分、正論を言ってしまう自分が
彼女を追い詰めている、と時折思う。
それは通用しないよ、と隣の奥さんに言われた。
5月1日のことだ。
あの日もいろいろとあった。
そして
彼女が買い物に出かけている間
隣の奥さんの所に行った。
以前、義母の様子がいつもと違うということで
奥さんの所に聞きに行った。
半信半疑だったので、隣の奥さんが客観的に見てどうだったかを知りたくて。
それ以来
この件については触れていなかった。
義母は隣の奥さんを非常に信頼していて
「私の本当の娘のようだ」と私にあてつけのように言うことがある。
私たちが結婚する前からのお付き合いだから
それはそうかもしれない。

そして今回5月1日に言われたのは
一番可哀相なのは義母だ、ということ。
毎日毎日不安でしょうがないんだと思うよ。
あなたと息子がきちんと病院なり連れていって
何かしら手を打たねばならないでしょ、と言われた。
まずは包括支援センターに行って相談してごらん、と。

さて
このような状況で
どのようにして病院に連れていくことができるか。
かかりつけの病院の先生にも協力を仰いだが
進展がない。
こじれてしまった私たちに今は信頼関係はない。


彼女はチヤホヤされていると機嫌がよい。
隣近所の人達と話す彼女は
「私は息子のことが心配で、いつも外に出て帰りを待っているの。」と
言うと
「おばちゃん、岸壁の母だねえ。」と言われて喜んでいる。
5月1日の夜
義母をかわいそうだ、と思ったときに私は
白昼のことを詫びた。
すると
「私はね、こんな胸(小さい)だからオッパイが出なかったの。
だから、一生懸命出して育てたの。」と
1人息子がいかに大事かを切々と言う。
息子がどんなに白髪頭になっても、彼女にとっては
カワイイ息子なんだ。
それがわかった。
が、それまでである。
そのカワイイ息子に朝毎日のようにわめいている。

私がもっともっと
彼女の自慢話を聞いてやれればいいのかもしれない。
もっとスキンシップをとればいいのかもしれない。
しかし
この私も、屈折した生き方をしてきたために
そういうのができない。

そんな2人のぶつかり合いである。



子ネコ騒動。
しかし捕まえられなかった。

(5/24)義母との諍い

2015年05月24日 20時58分45秒 | 日常、仕事、認知症
4月15日
5月1日
そして今日5月24日

このところ
義母との激しい口論が続く。
もう夫に遠慮することなく
義母と対立する私だ。

5月1日の複雑な気持ちも整理できずに
20日ほど経ち
また今日口論になってしまった。

義母は病気なのだ
とせっかく1日に私自身が納得したはずなのに
現実では
どうしても許せない言動等に突っかかる私だ。

私がバカなのか。
賢くなければならないとはわかっているが
賢さとは
どういうことを指すのだろうか。

記録として書いておかねばならないと思いつつも
書けない心境だ。


(5/17)すずめ踊りと点字ブロック

2015年05月17日 22時17分37秒 | 日常、仕事、認知症
青葉祭りというイベントが2日続いた。
街には観光客等にぎわっていた。
そのイベントの1つに、すずめ踊りというのがある。
いろいろな団体のチームがお囃子と踊りをしながら街の中を練り歩く。
それを観るのが楽しみだ。
日本人だけでなく、外国の方も交じって、堂に入った踊りを楽しく披露する。
毎年そんな光景を観てきた。

私の職場はそんなにぎやかな街の中にあり、
窓から仕事をしながら眺められる。
見ていると
1人の目の見えない男性が点字ブロックの上を杖で探りながら歩いていた。
点字ブロックは道路の真ん中にある。
そして反対側から踊りの団体がやってくる。
当然ぶつかるのがわかる。
踊りの先頭の人が気づき、その方を道路の脇に連れていった。
踊りは支障なく続き、観ている人たちは歓声と拍手。
お囃子の音は非常に大きい。
その男性は、点字がないため、立ったまま杖を周りを探ったが
何も当たるものはなく、耳をふさぎ、立ち往生していた。
命綱のブロックがないから、1歩も動けない。
目が見えないから、劈くような音だけが彼を取り巻く。
群衆の中の孤独。
上から見ていて、たくさんの人の踊りに夢中になっている歓声と
その男性の姿の対比がわかった。
私はチーフに事情を話して、
その人を誘導しに行っていいか、と尋ねた。
承諾を得て
捻挫した足をひきずって(2日前に大捻挫した)階段を下りていった。
しかし
その男性の姿がなかった。
たくさん人がいたから紛れたにしても、わかるはずだ。
数十メートル先の横断歩道まで行ってみたがいなかった。
誰かに連れられて点字ブロックのところまで行ったのだろうか。
まあ、人間だから、誰かに誘導をお願いすることができるので
それに親切な方々はたくさんいるので、それほど心配することはないのだろうが
昨日まで気づかなかったことを気づかされた気分だ。
昨日も、楽しくすずめ踊りを観て、カメラに収めたりしていた。
まさか
点字ブロックが道路の真ん中だけにしかないとは。
仙台はこうしたいろんなイベントが街の中、アーケードの中いっぱいある。
おそらくその方も
こうしたイベントがあるときは、点字ブロックが使えない状況もありうる、と
気づかされたに違いない。
せめて予備のブロックが道路の脇にもあれば、なんとかなったかもしれない。
目で見て音で聴いて楽しむ踊り。
それが当たり前と思っていた。
今日は別の視点で観ることができた。

足、捻挫。
どうということもなく歩いていたらグキッと音がしたような感覚で
捻挫した。
たまに捻ることはあるが、今回はひどかった。
数十年前に
生徒とバスケットをしていて捻挫し、こじらせてしまった。
なかなか治らないので外科に行き、電気をかけてもらったが
なぜ、ここまで放っておいたんだ、と怒られた。
それが頭にあったので
今回はとことん冷やした。湿布よりもまず冷やした。
足の裏が床につけばギーンと響くので、ズルズル引きずって移動。
仕事ができない、というのが真っ先に浮かんだ。
幸い捻挫の翌日は休みだったので、ひたすら冷やし。
そして出勤。何とかこなせたが、左足をかばうので動作が緩慢。
チーフが気づかってくれた。

義母は
寝た、と思ったら起きてきて
「トモロッシちゃん、ちょっとおいで!」と命令口調で呼びつける。
始めから挑発されるので私も挑発に乗る。
義母とのやりとりを書いていないが
いろいろとあったので
いつか近いうちに。

今夜は就寝の時間、大幅に過ぎているのでここで終わり。



(4/18)思い出してしまったこと

2015年04月18日 20時18分15秒 | 日常、仕事、認知症
先日の義母との諍いが
自分にとって結構尾を引いている。
気分転換もできずに
仕事を終えたら帰宅し、速攻2階に上がるようにしている。
彼女が認知症であることを私自身が自覚しているにも拘らず
彼女の理不尽な言葉に反応してしまった自分の
やり場のない気持ち。

あの日は全然寝られなくて
書棚を漁って、本を読み出した。
10数年前に
義父が入院した頃に
いよいよ介護生活か、と思って
数冊買い揃えたものの1つ。

「夫婦の親」(新聞記者・柳博雄)
そして昨日は
「父・丹羽文雄 介護の日々」(丹羽の娘・本田桂子)
と立て続けに2冊読み返した。
ほとんど内容は忘れていて
今の自分の心境と照らし合わせて読むことができた。

2冊とも、親の介護についてのドキュメンタリーである。
介護のマニュアル書よりも
こうした実態に直面した「介護する側」の手記のほうが
場面場面での葛藤、怒り、失望とか介護する側の気持ちが手に取るように
わかる。
そして、著者たちと比して
私のそれはまだまだ序の口だということが再認識させられる。
何しろ
義母の状態は、正常、異常7対3の割合なのだから。

義父の場合は
血液のガンで入院した。
義母は毎日、病院に通い、夫の要求に答えてきた。
義父は
非常に細かく几帳面で
他人の力というものをあまり信じなかった。
自分が何でもできる、という職人気質の人で
自分の妻は何もできない(そういうふうにしたのも夫の一面あり)、
それでも義母は献身的に毎日通っていた。
夫婦だから衝突がある。
病気の人間が我がままになるというが、義父はその頑固さがいっそうそう思わせた。
とうとう
義母は音を上げて、「今日は病院にトモロッシちゃん、初めから行って!」と
言う日もあった。
行けば、義父の愚痴の聞き役である。
「うちのやつはなにもできない。」と、妻に対する愚痴を口にする。
私には
毎日、ドライアイスを50グラム買ってこい、と要求。
100gでもない、きっちり50ではなければだめなのだ。
今はそれらをスーパーの食料品売り場等で簡単に手にすることができるが
当時
街はずれの氷屋に、50gのドライアイスをください、と
店主がいい顔しない顧客であった。
ドライアイスは買い置きできない。家庭の冷凍庫に置けない。
よって、少量のドライアイスを買っては病院に運んでいた。

グラム単位で測る計量器械を買ってくれと言われた。
病院で何に使うのか、と聞けば
病院食の1つ1つを計り、何グラム以上は自分は食べてはいけない、と
毎食計量していた。
そんなことを目の前でされれば、病院側もどんな顔をしていたか、と。
ノートに、○○を何グラム、○○を何グラム、というようにビッシリ
書き詰め、それらを看護師に見せたりしていた。
「Sさん、これじゃ、病院の先生以上に細かくて凄いわね。」と
病院泣かせの患者だった。

自宅での介護用のベッドの購入の手続きを役所にしてくる。
それらは全部私の役割だった。
義母はこういうことはできない
息子である私の夫は、仕事と称して、こういうことにタッチしていない。
義父が亡くなったあとの
年金やいろいろな名義の変更等
役所に行くのも私の役目。
嫁だから当然、というのが腑に落ちない私だった。
義母はこういう手続きは
若いときから苦手だった。
ましてや、夫を亡くしての失意のときだから
当然、私の役割、義母も夫もそう思っていた。
私は当時からその考えに疑問に思っていた。
1つの手続きを終えて自宅に戻ると
義母に
「暇だれだったねえ」という言葉を言われる。

「私は何もできないので、いろいろとやってもらってごめんね。私もいっしょに
行けばいいのにね。」とは
とうとう言われなかった。
あるとき
なにかの手続きをやって、そのままにしていたことがあった。
それをやったのかどうかも忘れていた。
そして
夫はそのことを激怒した。
私もそれまで疑問に思ったことを口にした。
「10の1つを忘れたからって、なぜに私がこんなに言われなくてはならないのか。
本来なら、妻であるお義母さんがやることではないか。やれなくても、いっしょに
行って、それらを見るのが筋じゃないか。あなたは何をした。息子であるあなたは
何をした。毎日あちこちと行っている私がこんなに言われるとは。もう、私は
関わらない。親子2人でやれ!」と言った。

私は
あの頃、結婚生活の中で
夫を最も遠い、と感じた時だった。
後にも先にも
あれ以上の困難なことは夫婦にあったけれど
最も、S家で孤立した自分だったと思う。
夫を亡くした妻、という母親の気持ちが可哀相だ、というのは
息子である夫が一番感じていたであろうが
やらなければならない手続きを
そういうことを感じる暇もなくやっていた私には
夫のその言葉は、私と、夫プラス義母との距離を遠ざけるものだった。

そして
次の日
夫は謝ってきた。
「昨日は申し訳なかった。あれこれとやってくれるおまえの気持ちもわからないで。」
と。
夫が謝る、というのは
私の記憶の中で、あれだけである。
それだけ珍しいことなのだ。
だからよっぽど私の言葉が身にしみたのだろう。
互いに許す、互いの立場を理解する、というのは
夫婦の間でなかなかできることではない。

私は

義母が書くべき書類は、なるべく
時間をかけてでも付き添って
義母に書かせている。
義母名義のものは幾らでもある。
私道の件でも、夫と義母の名義だから
義母が書かねばならないことがある。
それらをあのころだったら
私に丸投げして、
私も疑問を持ちながらも従っていたかもしれない。
しかし
今は、字が書ける限り、何枚失敗したとしても
義母に書かせる。
あのころより自分は強くなった。
「世の中知らない」と先日書かれたが
世の中知らないのはあなただ、とずっと思っている。


本の内容を書く予定だったが
義父の死について書いていくうちに思い出してしまった。





(4/15)「厭がらせの年齢」 義母

2015年04月15日 18時05分46秒 | 日常、仕事、認知症
丹羽文雄の短編に
「厭がらせの年齢」という作品がある。
学生時代に読んだのだが
今でいう認知症の老女が家族に厭がらせをして(認知症症状)
親戚にたらいまわしされるといった内容だった。
戦後に書かれたものだから
認知症という言葉はない。どれだけそれが医学的に進んでいたか、
どれだけ一つの家庭に「認知症」を介護する心構え、認識があったか、
当時は皆無に等しい。
21世紀の未来を予告するような警鐘の作品である。
その丹羽の娘が、後に丹羽の認知症に関する(丹羽も長生きし、認知症を発症)本を
出したのもうちにある。
その「厭がらせの年齢」は、80代の認知症を指していて、
私は
たまに「まさに厭がらせの年齢だ」と思ったことがある。

義母。

今日は久々に口論となった。

仕事で疲れて帰宅して遅い昼ごはんをゆったりと紅茶とパソコンで過ごすのが
ひとときの癒しの私。
大体は、帰宅したとたん、玄関先に出てきて
ヘンなことを言って、不快にさせる義母であるが
今日は出てこなかったので安心した。
しかし。

二階に上がったとたん、
廊下のネコの水の上に
大きなダンボール紙に書いた文字を見て、私はカーッとなってしまった。
「世の中、見るべし。自分のことだけ始めから感じ。」
原文。
文章として成り立っていないのはいつものこと。
こういう文言の用紙は、外の植木鉢の下とか、サンルームの植木の所とか
そこかしこにある。
いつも来る(実際はそんなものはいない)、オトコ、オンナ、拝み屋、という
彼女の頭の中の人物に対しての警告文書(しかも読んでもよくわからない)である。

私はそのダンボールを持っていって
下の義母に
どういう意味か、聞きに行った。
「世の中、見るべし」という上から目線の文言が気に入らなかった。
むろん、彼女の方が長く生きているから上から目線もおかしくはないが、
逆にその文言を彼女に言い返したいくらいの気持ちでいる。
これまで彼女の正常なときの
彼女の夫(故義父)、私たち息子夫婦に、精神的、日常的、経済的に
おんぶにだっこ状態で、お嬢様のように過ごしてきた人に言われたくない言葉である。
お風呂のスイッチ一つ「怖くてつけられないの」と正常なときに
自分を正当化してきた彼女にどこか潜在的に侮蔑の意識があった若かった私だ。
私の夫はいつも言う。
「80代で、1人で暮らしている人はたくさんいる。」
義母は働いたこともなければ(義父の仕事の手伝いはしていたが)、介護もしたことがない人だ。
そんな彼女に「世の中、見るべし」なんて言葉言われたくもない。
なぜ、そう思ったか聞くと
「ネコをどうするのか。」と
このごろは彼女のマイブームの言葉が出る。
夫にも言ったそうだ。
要するに、私たちがネコたちを捨てると、勝手に断定しているのだ。
その都度、頭に来ながら、否定し
(否定するのも癪である。そもそもそんな話、どこにも出ていないのだから)
「そんなこと、勝手に思うな!」と私は言った。
「頭がおかしくなるから、話しかけないで!」と言って二階に上がった。

そしてそれで終わらなかった。
パソコンを観ながら、紅茶を二杯飲み、パンを食べたあと(1時間くらいだったか)、
さて、録画でも観るか、とソファに座ってリモコンを取ろうとしたとき
なんと、テーブルの夫の書類の上に
またも2枚目のダンボール紙を発見。
私は1時間ほど、紅茶を飲んで少しクールダウンしていたのだが、2枚目には
全く気づかなかった。
しかも、用がない限り、互いのプライベートの空間には出入りしないという暗黙の
ルールが破られた気持ちになった。
「言いたいこと山程アリ。世の中知らぬ2人に。」原文。

彼女と話さない、とさっき言ったばかりだが
それを持って
また聞きに行った。
彼女もさっきの件で興奮していた。
「言いたいことがあるなら、言ってよ。」私。
「言わない!あんな態度取られて、言うわけないでしょ!」
「世の中、知らないってどういうことなんだ?」
「それ(ダンボール)を持って、あちこちに聞いてみればいいでしょ!それにいつも来ている拝み屋に聞いてみればいいでしょ!世の中、そいういうもんじゃないんだ。」
世の中、世の中、いつも言う。
どうもその拝み屋というのが私の所に来て、いつも話している、と思っているらしい。
これも、最近出てきていた言葉だ。
「拝み屋だなんて、気持ち悪い。お義母さん、おかしいよ!」
「私はおかしくない!おかしいのはそっちだ!」

決裂。
もう、話しかけない。
これ以上、売り言葉に買い言葉。

この間の日曜日(私は出勤日)、夫と義母が買い物に出かけたのだが
車に乗ったとたん「猫たちはどうするのか。」と始まったようだ。
夫も短気なので
そのことで喧嘩になったとか。
私は「あなた、毎日、私直接そういうこと言われているのよ。腹立つでしょ。
謂れのないこと言われて、難癖つけられているみたいで。」

昔学生のころ
知らないおばさんがうちに上がって(父の知っている人?)、
穏やかに話していたのだが
そのうち新興宗教の勧誘になり、その狂信的な言い方に
ぞっとしてしまって、「出ていけ~!」と泣いて言ったことを思い出した。
あることないこと言い始まって、おばさん1人で興奮して、話しても無駄、ということを
思い出した。
何を否定しても、自分の考えが正しい、と思っているから
こっちの言うことを信じない義母。

今日はここまで。
もう、今は義母に触るまい。
自分がおかしくなる。
不快なブログになってごめん。






(4/11)久々に実家へ

2015年04月11日 17時54分17秒 | 日常、仕事、認知症
夕方になって
ようやく空が夕焼け色になって
明日は晴れるようです。
ほとんど1日、小雨状態で
今日花見の人達も気持ちが半減したことでしょう。

その雨の中
月に1回の、ネコの食糧の大量買いに南の名取市に。
そのあと
正月以来の、私の実家訪問。
父の車のタイヤ交換をしに。
寿司を買っていったら、私たちがタイヤの作業をしている間に
両親、久々に寿司をたくさん食べたようで満足げでした。
よかった、よかった。
私はあまり寿司は好きじゃないので、両親が喜んでいたのを見てこちらも満足。
あれこれといろいろなものをもらって帰宅。
義母も連れていくつもりでしたが
朝、誘ったときに(この時点で実家に行く予定はなかった)、
「出かける気分じゃない。」と言われたので無理せず。

帰宅後
義母に
「お義母さん、どうして連れて来なかったのって責められたよ。
お天気が悪いから、そんな気分じゃないようだ、と伝えたから
今度は暖かい日に行こうね。」と伝えた。
「そう言ってくれるだけでも嬉しいね。」と義母。
しかしその後すぐに私にヒソヒソと

「息子の会社、ひどいんじゃない?」
「え、なに?」
「辞めさせられたんでしょ?」
「は?誰がそんなことを言ったの?」
「誰も言っていないけれど、私、そう思っていたの。」
「ちゃんと勤めて、給料もらっていますよ。勝手な想像をして
相手を不快にさせていたら、友達失いますよ。」
「私の頭の中のことなのね。」と引き下がりました。
とにかくマイナーなことばかりを考えてそれを確認しに来る。

今朝も早くに二階に上がってきて
いきなり
「ネコちゃんたちの行き先は決まったの?」と唐突な質問。
一体、どういう思考からそんなことを言うのか。
「それはどういうこと?」
「この家を捨てなくちゃならないんでしょ。ネコたちはどうするのかって
心配しているのよ。」
「家を捨てるようなことがあっても、ネコたちは捨てませんよ。」

私たちの神経を逆撫でするようなことばかりを言いに来る。

まあ
うちはお金がないので
いざとなれば、この家を売れば、ということもありそうですが
今のところ
それはなし。
おそらく、私が
よく新聞に入ってくる、家の売買、間取りのチラシを見ているのを知っていて
そこから妄想が広がっているのかもしれない。
私は、小さいときから、よくノートに
自分の想像の間取りを書いたりするのが好きで
暇があれば、そういうサイトも見ているし
トイレにもそういうチラシを何枚か置いているので
私たちの不在のときに
二階に上がって、トイレのそれらを見てあれこれと想像しているのかもしれないね。
その辺はわからないけれど。

ではいったんここで中断。
さっき
山Pのドラマ(録画)を見終わったばかり。
ページを換えて感想を。

(3/10)平成と西暦をすぐに答えられるかと言うと・・・

2015年03月10日 12時47分09秒 | 日常、仕事、認知症
今日は仕事が休み。
のんびりとしています。

朝は
夫が早くに出勤するため、5時に朝食にしたいということで
4時過ぎには朝食の準備に食堂へ。
すると
すかさず義母が起きてきて
まといつく。

「あんまり朝が早いと、世間がうるさい。」とか言うので
「しょうがないでしょ。働くな、とでも言うの?」と
朝から絡まれるので、絡みつきかえす。
「宣伝カーでは、息子(私の夫)のことを言っていたでしょ。」
「なんて、言っていたの?」とすばやく返すと
義母、咄嗟に出なくてしどろもどろ、ブツブツ。

「お義母さん、私耳が聞こえないから、はっきり言って。」
義母のあれこれに聞き返していると
突然自分の部屋に入ってしまった。
闘っているつもりはないが
朝の忙しいときにこんな調子で絡んでくるので
私も絡み返して、勝ったなんて思ってしまう。
今、じっくり相手してやる時間がない。
昨日の夜も
義母の言葉にカチンと来ていたので
その延長戦になってしまった。

風が強いが、日差しがある。
南の庭が荒れ放題。
今度こそ今度こそ、早めに取り掛かるぞ、と思わせた。
南側はどうしても
義母の部屋に面しているので
私の草取りにあれこれ言ってくるのを回避して
荒れたままになっている。
これでは庭がかわいそうだ。



今年は平成27年。
私はこの平成で何年、というのが苦手だ。
昭和真っ盛りの青春時代を過ごした自分としては
昭和40年が1965年とか
昭和52年が1977年とか
そのとき流行った音楽とか、そのとき起きた事件とか
記憶しているけれど
平成になってから
元号と西暦を合わせるのができない。
時間がかかる。

平成18年が西暦で何年、というのがすぐに出てこない。
そして
平成18年に自分が幾つで、何をしていたかが出てこない。
西暦になればわかるのだが。
例えば
1993年、といえば
自分がバイクに夢中になり始めた年、とすぐに思い出せるのだが
じゃ、1993年が平成何年と、すぐに出ない。
皆さんはすぐに出てきますか。

以前
私の母が脳梗塞のリハビリで
「今年は平成何年ですか。」と先生に問われたとき
母は答えられなかった。
それを×とするのか、私もすぐには答えられないぞ、と思った。
母は答えようとするが焦ってしまってお手上げだった。
心の中で
「お母さん、大丈夫、私もすぐに答えられないよ。」と言った。

東日本大震災は2011年。
すぐに答えられる。
しかし
平成ではすぐに出ない。
今年27年から4を引けばいいのか、と数えてしまうのである。
宮城県沖地震が
1978年、昭和53年、とすぐに出るように
平成23年、と覚えておかねば。
明日
3月11日、震災から4年目。
仕事の後、今年も県庁に献花しに行く。

(3/9)お義母さんのこと

2015年03月09日 17時51分42秒 | 日常、仕事、認知症
どうやら
風邪を引いたようだ。
昨夜
私の寝る前に
(8時過ぎだったか)
義母が二階に上がってきた。
義母は風呂から上がればすぐに寝床に入るのだが
寝床に就いて30分ぐらいしてからだと思う。

「警察を呼ぼうかと思って!」といきなり
強い口調で私に訴える。
「なんで?」
「来てたでしょ、宣伝カー。」
「こんな時間に来るわけないでしょ。」
「とにかく外を見てごらん!」
と、2人で外に出る。
外は雨。
義母がこんな時間に外に出たことはない。
雨に打たれながら
「あ、カエル!」と私は
カエルの重なったのんびりした姿にニコニコして
安全な場所に移してやる。
外は静か。
まだ他の家は
テレビを観たりしての一家団欒の灯り。
その静けさと裏腹の義母の妄想。
「誰も入って来ていないでしょ。」
「いや、入ってきたんだってば。」
「鍵、かかっているよ。」
「いや、いたんだってば。」
「それはおかあさんの頭の中での想像。
大丈夫、私たちいるから。大丈夫。」
と言ったら、
少し安心して自分の部屋に入った。

二階に上がって夫は
何事もなかったようにパソコンに向かっている。
その姿に
少々立腹して
「あなたが先に出ていくべきでしょ。」と言った。
雨に打たれて風邪を引いてしまったようだ。

そして
真夜中。
3時半。
私は起床して
パソコンを開く。
すぐに
階段下のドア(階段前にネコの脱走防止のためにドアがついている)の
バタンと音がした。
義母が二階に上がってくる音だ。
あ、義母がもう起きてきた、と思い
下に行くと
玄関のライトをつけてウロウロする義母。
「早いよ、起きるの。」私。
「トモロッシちゃんも苦労しているから、
私、助けようと思って。」
「助けるって、具体的にどういうふうに?」

脈絡のない会話が続く。
「とにかくまだ起きるのに早いから、もう一度寝てください。」
と言って
私は二階に上がる。

毎日
警察だの、裁判所だのと
言ってくる、最近。

昨年末
ネコのカズの看病のために
私は
1階のオーディオルームから
2階の自分の部屋に寝床を換えた。
1階には
ダイジローが1匹でいるので
可哀相で長年、いっしょに寝ていたのだが
カズの看病のために
久しぶりに自分の部屋で寝ていた。
その真下が義母の部屋なので
私の夜中の起きる音に気づいて
3時半に起きたのだろう。

老人が夜中に起きて徘徊するとかあるが
私も
9時に寝て、自然に3時前後に目が覚めてしまうので
自分も老人のことは言えない。
夜中に起きて徘徊(うちの場合は家の中だけ)、
ありうるな、と思った。
私はパソコンを観る、ということがあるので
動かないが
「おまえも、下(義母のこと)と変わらないぞ、寝てろ。」
と夫に言われる。
だから
老人の家の中の徘徊、特別なことではない、と思った。
7時半ごろ寝れば、その時刻、目が覚めてしまうものね。

今日は帰宅してから
食堂にいる義母に
「カレーがあるから、夜それを食べてね。」と言った。
「これから、スーパーに買い物に行ってくる。あまり閉じこもっていると
ダメだから。」義母。
「雨、降っているよ、まだ。だから、日曜日、(夫の車に乗せられて大きなスーパーに)
買い物に行けばよかったのに。(気分転換に日曜日は夫に連れられて遠くのスーパーに
出かけて買い物をするのが楽しみな義母。しかし昨日の日曜、夫が誘ったが行かなかった。)」
「昨日は行く気分じゃなかった。」
「まあ、そういう時もあるね。じゃあ、気をつけて行ってきてね。」
と、今日は外に行きました。
買い物、きちんと自分でできるんですよ。
お金も出せる。(私の実家の母は、それができない)
夜だけ、妄想が広がる。

(3/3)88歳の婦人のこと、若い男の子の読書。

2015年03月03日 18時48分37秒 | 日常、仕事、認知症
先日
88歳のご婦人と会話した。
東京から
仙台に一人で遊びに来た、という。
過去に仙台に住んでいたのだが
年を取るにつれて
一人暮らしを心配していた東京の家族(息子さんか)が
呼び寄せたとのこと。
それでも
友人がいる仙台に
こうして
「耳と目が利く限り」一人で新幹線に乗って
やってくるのだという。
自分の姑や実家の母親の年齢より上である。
その矍鑠とした姿、若い瞳の輝きに
私は驚いた。
ついつい
比較してしまうのだ。

「自分は年寄りだから」と
自ら年寄り扱いしていると
本当に精神的に老いていく。
年齢に関係なく
「目と耳が利く限り」(このシンプルな言葉が私に響いた)
どこにだって行く、興味を持ったらそれを楽しむ、
自然な気持ちだ。
やはり、無趣味や行動力のないことは
年齢以上に老けさせるようだ。

今更
義母に
「趣味を持て」と言っても
(以前、進言したことがあるが)
「全然、興味なし。人付き合いが疲れる。」などと
言われるのがオチだ。
人に会えば、
ずいぶんと自分のことを語る人なのだ。
私の親類が来れば
「私も仲間に入れて」と二階に上がって来るほどだから
人と話すことは好きなはずだ。
趣味を通してそれをすれば
夜はぐっすりと寝られるはずなのだが・・・

相変わらず
自分の妄想のつぶやきを紙に書いて
あちこちに置いている。
あのオトコやオンナ(妄想ね)に
「勝手に花に水をやるな」とかダンボールに書いて
サンルームの植木鉢の傍に置いている。


私も
年齢を重ねていくと
つい
「年を取った・・」と口走るが
考えてみれば
早朝からの仕事をしているとき
全然
体力的に疲れていないのだ。
身体、丈夫になったなあ、まだまだ行ける、と思っているのである。
何が疲れるかというと
やはり職場での狭い人間関係だなあ。


職場の若い男の子が
文庫本を読んでいた。
「何、読んでいるの?」と尋ねると
「推理小説です。」と答えた。

若い子が本を読んでいる姿を見たのは何年ぶりか。
電車に乗っても(滅多に乗らないが)
周りを見れば
皆、スマホを見ている。
その姿が近年の若者の姿だ、と思っていたので
彼の姿は新鮮だった。
俄然、張り切るオバサンの私。

「うちにいろいろあるからね、何か推薦して持ってくるね。」と
薦め魔の私は言った。

私の書棚の推理小説類を探す。
もうこの書棚とも無縁の生活になっている。
高村薫がいいか
もっと古い人がいいか、などと
何日もかけて
選んだのは
天童荒太の
「家族狩り」である。
これは単行本で、がっちり分厚い。
昨年
TBSでドラマになったばかりだから
(松雪さんがよかったね、その相棒のチビノリダーの人も)
知っているだろうと思いそれを選んだ。
彼はそのドラマを知らなかった。
背表紙はすっかり黄ばんで(96年に購入の文字があるから、20年近く前の本)
いるが
読み応えがあるから、何ヶ月もかかっていいから犯人は誰かを推理してね、と言った。

そして自分は
どちらかと言うと
ノンフィクションが好きなので
それより更に10年以上遡って
80年代に買った
佐木隆三の文庫本を再び読み始めた。
「殺人百科シリーズ」である。
これもお薦めしたい。
すっかり内容も忘れていて
読み始めたら止まらなくなってしまった。
寝る前に読むのだが
目が悪くなっているせいか
文庫本の文字がきつかった。
とうとう目の奥が痛む。
それらも持っていこう。


今年は何か1つでも資格を取れればいいなあ。
そのための勉強をしなくちゃならないけれど。
毎年東京の知人の年賀状には
家族1人1人が今年の目標を書いてくる。
私より年上なのだが(男性)
「今年はより書道(趣味でやっている)を上達させます。」
子どもは
「今年はサッカーを上手くやります。」などと書いてくる。
それを見ると
どんな年齢になっても
趣味を特技にしていく、向上心が見られてちょっとした刺激になるのである。

(2/15)実父からの葉書

2015年02月15日 21時23分22秒 | 日常、仕事、認知症
今朝は
大粒の雪の中、出勤した。
雪が風に舞って、目を開けるのも困難だったが
私の好きな雪の形だ、と思いながら
自転車を漕いだ。

その雪は幻だった。
9時に出勤してくる人たちはその雪粒の大きさを知らない。
2月の雪ははかないね。

同僚のEさんと上司の衝突。
問題は未解決。
これが気になる。


義母の認知症は相変わらず。
日常生活はほとんど支障がないが、
自分が買ったものをすぐに忘れて
これは自分が買ったものじゃない、とこのごろ続く。

私の両親とは
正月以来、いつもと同様、互いに連絡を取り合っていない。
仲良くやっていることだろう。

昨日は
山梨にいる実父から葉書が届いた。
年賀状は、喪中の葉書が届いただけだったので
近況報告はなかったのだが
それが気になったのか
別便で
突然、「元気ですか」と葉書が届く。
老い先短いことの一文が
もしかしたら
存命中に会うことはないのか、とよぎる。
彼には彼の生活、家族があるので
そんなに気にすることでもないのだが
没コミュニケートの私たちなので
後悔のないようにしなければ、とも思う。
私に
半分血の分けた兄弟がそちらにも存在する。
一度も会ったことがない。
彼らは
私の存在を知っている。
私が
「どこか似ているとこがあるのだろうか。」と思うことを
彼らも思っているのだろうか。
それとも未来永劫
何の関わりもなくこのまま会わず仕舞いなのだろうか。

(2/14)今年初めてのブログです。ごめんなさい。

2015年02月14日 17時00分11秒 | 日常、仕事、認知症
お久しぶりです。
今日、漸くパソコン復帰。
今年に入って
気持ちが冬眠状態で
しばらくブログを離れていました。
それでも他の方のブログなどは毎日観ていたのだけれど
先月中旬だったか
ネットに繋がらなくなって
そのまま放置。
夫に、直せと催促されていながらも
何もかも億劫で
直すこともしない状態。
夫もCDの予約のこととか不便になり
今日、業者の方が来訪して、ネット、久しぶりに繋がりました。
それでも
2回ほど、ネットカフェに行って
ここに訪れようとしましたが
肝心の
ブログに入るパスワードなどを忘れてしまって
入れなかった。

そして
今日も、あれこれやってみて
ようやくgooIDなどがわかったようで
書き込むことができました。

今年に入って初めてのブログです。
相変わらず、仕事と家庭の往復のみの生活。

撮りだめしたドラマなどを観たり
ネコと過ごしたり
ささやかな生活をしています。

ドラマ、「ウロボロス」面白いね。
斗真君のドラマとして初めて、面白いと思った。
そのあと、山Pが控えているのね。

ではでは
これから更新頑張ります。
よろしく。

(12/31)今年の出会い

2014年12月31日 04時43分43秒 | 日常、仕事、認知症
出勤前に。

今年の出会いを考えてみた。

元同僚のIさん。
彼女に今年非常にお世話になった。

日曜日(28日)
どうしても年内に挨拶したくて
この日に会った。
もっと前の日に約束していたのだが
カズのことがあって
仕事が終わったら即帰っていたので
この日に伸ばしてもらった。

彼女と会うときは
イタリアンと決めている。

うちの職場の近くに
つい先日オープンしたばかりのそれがあった。
そこにする。

お歳暮の形で
商品券と彼女の好きなお菓子の詰め合わせ。
ところが
彼女はそれ以上のものを私に用意しており
恐縮した。

彼女は今の仕事に張り切っている。
彼女自身
これまで生きてきて
正社員としてちゃんとしたお給料、ボーナス等の出るところは
初めてらしい。
むろん
元の職場(今、私がアルバイトしている所)でも正社員だったが
給料の面、退職金なしなど悲惨だったために
やめても全く影響のない所だったので
カウントしていないらしい。

その初ボーナスで
トモロッシさんに、といろいろ買ってきたのだ。

私はこの1年
彼女との食べ歩き、いろんな神社などの訪問、
そしてつらいときのアドバイスなど
感謝でいっぱいだった。

来年もまた暖かくなったら
自転車で
古い町並みを探して、イタリアンを見つけて
食べ歩きの
ストレス解消をしたいものだ。

そんな彼女に感謝して
今年を締めくくる。

今日、大晦日。これから仕事。
そして明日元旦。仕事である。
そのあと
私の実家に行く予定。
今日は
午後からおせち作り。
昼寝をしたいが、時間がない。

ではこれから
仕事に行ってきます。

今年は怠慢なブログでごめんなさい。
反省しきり。

では来年もよろしくお願いします。

(12/31)遅ればせながら、旅行の話を。

2014年12月31日 04時23分22秒 | 日常、仕事、認知症

旅行に行ってから1週間以上経ち
ブログを書く。

すぐに書きたいところだったが
疲れが取れずに
仕事になり
この年末忙しいときに書き始める。

総じて
楽しい旅行になった。

普段あまりコミュニケーションのない人たちと
楽しく接することができてよかったと思う。

1日目は
横浜に。
皆は八景島に行くとのことだったが
私はジャスさんに久々に会うために
横浜駅で皆と別れる。

横浜駅の複雑さ。
何とか待ち合わせ場所に行けた。





駅に隣接するデパート(?)の地下にある
喫煙OKの軽食喫茶でまずはお話。
そのあと
ラーメン博物館という所へ。
夜の中華が控えているので
私は軽めに小ラーメン。
昭和の雰囲気を出した町並みを再現していたが
やはり本物には勝てない雰囲気。





この感じが好き。
そして
ようやく
落ち着いていろいろとお話。



彼女の飲んだドライジンジャエール。

お互いの生活のこと、彼女の友人のことなど
互いに年を重ねていくと
人生、良いことばかりじゃないことを
若い彼女周辺に起きていることを知る。
ジャスさんは私の教え子です。
もう何十年もお付き合いがあり
教え子感覚より
友人感覚なんですね。
私の
昭和の香りを持つ街の佇まい好きを理解してくれるのも
彼女。

私自ら
東京方面に出かけることができない今
こうして
研修旅行を利用して
彼女に会えたことを喜んでいる。
彼女が帰省したときには
極力会えるように、といつも願っている。


桜木町の駅前で別れて
私は研修の同僚たちと
ホテルで合流。
そのまま中華街へ。
料理はまあまあ。


私たちの泊まったホテル(コンチ何とかというホテル)を
翌日の朝撮る。

この周辺、さすが大都会横浜だった。
あまりに洗練されすぎていた。
海と現代的な意匠のビル群の素晴しさ、絵になる美しさは
よかったが
私の気持ちとは一致しなかった。

それは東京に着いて気づいた。
東京駅で降りて
はとバスのある場所へ。

はとバスの中から見える
銀座の街。
新しいものと老舗のものの混在。
これがよかった。
威風堂々。

そして皇居。
ちょうど翌日の天皇誕生日を控えての
警備などの訓練の場面にでくわした。
それらも写真に収める。

お昼は帝国ホテルのランチ。
う~ん、これは・・・
まあ、はとバスの一環ですから。
本当はすごくおいしいのでしょう。

そして冒頭の写真のスカイツリーへ。
自分が個人的に東京に行くとしたら
スカイツリーはおそらく行かないであろうから
この研修旅行に参加した理由の1つ。


お天気もよく
富士山が見えました。
あまりの人の混雑と
他の人たちとの行動もあって
自分の思うように、じっくりと眺めることは
できなかったが
それなりに堪能できたと思う。

浅草の問屋街をバスから眺めるのがよかった。
ここで降りて、もっともっと歩きながら見て回りたいと思った。


隅田川を渡る橋に
ノブタをプロデュースを思い起こさせる。

ブログに載せなかったが
90枚以上の写真。
会社の仲間を撮ったのが多かったが
それらを編集して後に皆に配る。

仙台に帰ると
雪がゆっくりと降っていた。
これが北国なら猛吹雪。
自宅には
歩いて15分ほどで着く。
歩きながら
雪を眺めつつ
火照った心を冷やした。

たった1泊の旅行。
良い体験だった。