昨日に続き玉村さんの絵のついて…
玉村さんの絵を一目見ると。ボタニカルアートかな、と思いますが。
水彩画で、日本画の顔料も使ったり、じっくり見て描くことにこだわって、現在に至っているようだ。日本画家の子として生まれ。高校生まで絵を描いていたが、受験でやめて、41歳で大病したことがきっかけで、また、絵筆をとる。
もっとも満ち足りた、静謐な幸福感を味わうことが出来るのはアトリエの朝の時間。採ってきた花を自然の光の中で間近に眺め、花びらが少しずつ動いていく。限りある生命を目に見えるままの姿を紙の上に写し取っていく。
生きた植物には、朝の光が必要なのだ。野菜を朝早く収穫するのは、朝の野菜がいちばん元気だから。花も朝がもっとも美しい。
年をとると、若い頃と同じようには出来ない。といって若さを失ったことを嘆くものだが、若い頃に出来なかったことが、年を取ったために出来るようになったということでもあり、年齢が新しい自分を発見させてくれることを素直に喜びたい。
花屋で売られる花と違う、野で育った花の凛とした美しさを知った。
日本画はそのもの自体に陰影を付けなくてよい。平面的に、一様の明るさで描いてかまわない。日本の画法で、クロっぽい陰影のようなものが描かれるのは、物体によって生じる物理的な陰影とは無関係の、心理的な陰影であり、隈と呼ぶ。
父の言葉「空で描くな。茶碗一個でもいいから、よく見て描きなさい」
母からは、貧しくても失わない気高い心と、些事をおろそかにしない現実的な生活能力を学んだ。父からは、大声と、大食と禿頭と絵を描くDNAを受け継いだ。
日常の生活の中に溶け込んだ絵がふと新たな感慨を与えてくれる。新しい発見が、嬉しい気分を引き立て、寂しい心を癒し、日常のわずかの間でも忘れさせてくれるのが、絵の効用であり、アートの力。暮らしの中に絵を持つことの意味。
生命あるモノを描く絵だから、日常の暮らしの中で見てもらいたい絵だから、ライフアート。
絵は住んでいる空間に飾って、暮らしの中で接するもの。私は自分の作品を愛しすぎて手放すのが苦しかった。アマチュアとは、愛する人、の意味である
絵を買うというのは、他のものを買うのと違って、無くてもいいものに高い代金を支払うのである。絵が無くても死にはしないし、絵があっても空腹が満たされるわけでもない。最初の決心には大きなエネルギーが必要だが、日常の中に絵がある暮らしをどういうものかを一度知った人は、それから、絵を買う人になる。
絵を買う人と買わない人の間には、どこかに思い切ってジャンプしなければ超えられない溝があるのだろう。
絵は、どこから描き初めても良い。また、どこで終わっても良い。何を描いても。描かなくても、自由である。だから何も描かれていないキャンバスに向かうとき気分は開放感に満ちている。
昨年春、箱根芦の湖畔に玉村豊男ライフアートミュージアムを開館して。ワイナリー、レストラン、農場経営、画家、文筆活動と…、ご活躍だ。
久々にやって来たよ・・・そして過去記事も読ませてもらって 相変わらずmintちゃんの興味はひまわりの種の数ほどある・・・と感心^^
(先日行った美術館で“飛翔を経験したひまわりの種”
って作品があってね~妙に自分の中でうけてて 使ってみたんだけど・・・・種の数より多いかもね!?)
でも ここで気になる日本画・・・実はずっと以前から描きたくってねぇ・・・
先月 ひょんなことから 縁ができて もしかしたら習うかもしんないのだ
でもイロハも知らないんだけれど やってみたい~~
我が相方は 絵を買う人だ・・・
私は以前模造品を買う人だったのだけれど オリジナルを見てしまうと わかんないくせに模造品は買うまい・・・と思ってしまった
絵がある暮らしを知ってしまった・・・か!?
だが確かに、何かを知る度に。ワクワクしたり、それいいねってノリがよいのは…。
関西系の血が混じっているからなのでしょうか?
そうだよね。本当に気に入った絵を求めるといった生活は、究極の人生の飛翔かもしれない…
などとつぶやいて。
えっ、今度は日本画ですか?
私は絵手紙は習っていたので、顔料はあるんだけどなあ~。
描くと、本が読めなくなるしなあ~。
季節柄、編み物もしたいしなあ~
ああ~時間がたりない