一本の棒のように
今日は水曜日。僕の大脳皮質には、それはまだしっかりと位置付けられているのだが、それとて、もしかしたら何十年にも亘って縛られてきた慣習の為せる業で、唯の思い込みの名残かも知れない。
例えば、あのふた昔も三昔も前のボウリング大会の予定だったり、富士のすそ野をドライブする忘年会の日程だったり、或いは二日続きの徹マンの開始時刻の記述があったり、そう、稀には逢引きのwednesdayだったりもした曜日のように。
それから僕は三十数年を自営業の店主として過ごしてきた。会社員だった頃の身動きできない窮屈さ(それは当たり前のことなのだが・・)や、息の詰まりからは解放されたのだが、曜日の呪縛から完全に逃れたわけではなかった。否むしろ、一人での仕事を始めてからの方が、それぞれの曜日に担わせる責任は増加したかも知れない。
会社勤めの頃のように詳細な制約こそなくなったが、其れとは裏腹に、生活がかかっているという重圧に時々は眩暈がするほどの日時を過ごしてきたのだ。そのターニングポイントから早や35年目の春を迎えた。そうして、今迄のように曜日の圧迫感も薄れてきて、少しづつ生産活動からretireする時刻が迫ってきているのを感じるこの頃になった。
今日、短い午睡の最中に突然目覚めて、降ってくるもの達と触れ合いながら、こんな一篇の詩を書いた。
「一本の棒のように」
僕は一本の棒のように、横になる
自由に使える時間が生まれて
一も二もなく
僕は一本の棒のように
横たわって無になる
僕の全部がその様に願って
僕の全部が
一も二もなく従う
希望に乗って飛び立った、35年前の空へ
その時と同じ時刻に
今はたった一人
一本の棒のように、転がる
僕の目蓋の中を
一万有余の時間が飛び去ったのだ
そのまま、一本の棒になって
僕は一時間
一も二もなく無に居た
*
書いていて不意に思い出したのだ。今日の遠山の霞のように、遙か遠くで朧気になってしまった”あの日”の記念日の事を。日付も曜日も人生で最も輝き、最も明瞭で、その役割のclimaxのように在った日時の輝きを。
それにしても、一万有余の月日の何と瞬く間の移ろいであることよ!!
一本の棒になって僕は考える。今日の午後には仕事は皆無だけれど、今日は間違いなく水曜日で、明日は一日中の仕上げ日で、金曜日には何時もの在所へ外交に出向く。土曜日にはクリーニング済みの品物を積んで、九時前には出発。峠を越え四十分運転して他市の在所まで届けるのだ。
年毎に軽四貨物の荷室には空きが目立ってきているが、兎に角まだ僕は仕事をして、今でも曜日とかかわりを持っているのだ。もう少し廃業はしないと心づもりしているので、日時や曜日が混迷の坩堝に落ちてしまうのは幾らか先送りできそうだが、どんなに頑張っても否応なく、或いは是非もなく、周囲の状況が遠くない明日の何処かで、走り寄って来ては僕にレッドカードを提示するだろう。
*
03/22 06:57:06