今から67年前、熊本県水俣湾周辺で、恐ろしい病気が大規模に発生していることが「チッソ水俣工場附属病院の細川医師」によって明らかにされた。
1950年代の初め、住民は猫が踊るような異常な素振りを見せるのに気づいた。やがて猫は、ひどい痙攣を起こし、恐ろしい鳴き声を立て、ついには死んでいった。
1956年頃、水俣の住民も同じような症状を経験し始めた。手足のしびれ・痙攣、高熱、視覚及び聴覚障害などを訴える人で病院はごった返した。意識を失い死んでしまう人も大勢いた。
被害を訴える人は、周辺自治体も含めて数万人に達したが、現在まで水俣病認定を受けているのは約3000人にすぎない。
この病気の原因について、ほとんどの住民が、地域経済の中核であり、多くの住民の雇用を担っていたチッソ工場からの排水を疑っていたが、会社側は、「証拠がない」として認めようとしなかった。チッソの力が地域社会のなかで、あまりにも大きいため、漁師以外の住民は、大きな声で糾弾することができなかった。
水俣市は、チッソが主役として君臨する「企業城下町」だったのだ。
そして、被害者が声を上げることに対して、会社側の利益が損なわれるとチッソ関係者は住民に声を出さないことを要求した。経営者は、まるでお殿様のように傲慢な独善姿勢を続けようとした。
国(通産省)や熊本県にも救済を求めたが、彼らは決して住民の側に立たず、チッソの利権に沿った対策しかしなかった。
熊本県は、チッソの「家来」だったのだ。
住民の被害の訴えを押し潰した最大の功労者は、水俣チッソ労働組合だった。宇井純は労組を「会社側の別働隊」と評している。
チッソ企業と労組が、水俣病の原因が、同社が製造しているアセトアルデヒド製造排水であることを知ったのは、同社附属病院の細川医師が猫に廃液を投与したところ、水俣病を発症した事実を確認したことによる、それは1959年10月のことだった。
だが、会社側も労組も、この事実を隠蔽しようとし、細川医師に対して排水の猫投与実験の中止を命令した。
それまで会社側が主張してきた、責任逃れのための農薬説、爆薬説を振りかざして、排水原因説を徹底的に隠蔽し、証拠を破壊しようとした。
国や県、地元メディアも、チッソに追従して、細川医師の実験結果を闇に葬った。
当時の社長は、吉岡喜一という人物で、隠蔽工作は、この男の指示と考えられ、後に患者団体は殺人罪で刑事告訴したが、検察は勝手に「業務上過失」に切り替えた。
その後、社長を引き継いだ後藤舜吉と、雅子皇后の祖父である江頭豊が、患者たちの救済を妨げた悪質なチッソ経営者として重要である。
国と県は、水俣病によって水俣工場の生産が妨げられないこと、水俣病にともなうチッソ側の補償負担を出来るだけ軽くすることを住民に宣言した。
つまり、国と県は、もの凄い数の犠牲者が出てからも徹頭徹尾、加害者チッソの側に立ち続けた。
チッソは、原因と自分の責任を隠したまま、白々しく「お情け」を住民に与えようとした。それは「わずかな見舞金を与えることと引き換えに、一切の責任を追及しない」とするものだった。
被害者対応としてチッソに動きがあったのは、会社側が水俣病の原因がチッソ排水であることを知った1959年に、水俣病の患者組織との間で交わした「見舞金契約」であった。これは後々までチッソ側の卑劣さを示した姿勢として後世に残すべきものだった。
この契約は“真摯”とは程遠い対応だった。死亡患者に弔慰金と葬祭料を含む一時金、生存患者には年金を払うといったが、あくまで、チッソは加害者であることを認めず、住民に「格別のお情け」を与えてやるという内容だ。
そして、もし将来、チッソの工場排水が原因だと決まっても、新たな補償金の要求は一切行わないと契約内容に明記されていた。(後に公序良俗則違反で無効認定された)
そしてその3年後、1962年には、生まれながらに水俣病の症状を持った「胎児性水俣病」が初めて“公式確認”された。胎児にも影響が出ると判明し、事態はより深刻になった。
https://www.sankei.com/article/20211217-C23H3D7GH5JZHKZNQAKBDROIIY/photo/DQ2QSCA47BJWTOQEQY2XAO7T2Q/
チッソ・水俣工場が、原因となったアセトアルデヒドの製造を停止したのは、水俣病の原因であることを確認できてから6年後。1968年の5月だった。そして、停止から4カ月が経過した同年9月、ついに政府は工場排水が原因だという見解を示した。
チッソ側は、6年間も、被害を無視して原因排水を水俣湾に垂れ流すという稀代の犯罪行為を続けた。
これは、まさしく「未必の故意による殺人」に他ならなかった。
このときの社長は、現皇后の母方祖父である江頭豊だった。江頭が1964年以来、殺人排水垂れ流しの最高責任者になっていたので、患者団体は、江頭の身内関係者すべてを呪った。
そして雅子皇后は、精神の激しい不調を訴え続けた。「呪い」の意味を知っている人なら、それが何を意味するのか理解できるだろう。
なお、国(通産省)側の水俣病に対する犯罪的対応の最高責任者=通産大臣は、池田勇人・石井光次郎・椎名悦三郎・佐藤栄作であった。
いずれも、庶民の命を虫けらのようにしか思わない企業社会最優先の政治家ばかりだ。
チッソ側の代官だった熊本県知事は、寺本廣作だった。この男は、女子人身売買に関わった疑いで裁判所に召喚されたことがある。
水俣病の発生が確認されてから67年、水俣病裁判は未だに続いている。それは、政府とチッソが、可能な限り負担を軽減しようとケチなことばかり考えているからだ。
胎児性の水俣病罹患者も多く、まだ補償も終わっていない。そして、チッソも政府も、被害を訴える数万人の人々のなかで、とりわけ深刻な約3000名しか救済補償をしていない。
大半の人々の申請を「虚偽」と決めつけているのだ。
救済策から疎外された未認定患者たちは、救済を求めて国を訴えている。
一審の熊本地裁では、患者たちが全面勝訴したが、公害訴訟の通例どおり、国は上訴して取り消しを求めている。
水俣病訴訟 救済策の対象外の原告全員を水俣病と認定 大阪地裁 2023年9月27日
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230927/k10014208051000.html
2023/10/03 水俣病訴訟「国は控訴断念を」~大阪地裁で全面勝訴をうけ・原告ら
https://www.ourplanet-tv.org/47773/
1959年7月22日、熊大研究班は、ハンターラッセルらの報告を手がかりにした研究をもとに、有機水銀が原因だと発表した。不知火海一帯の漁民が、排水停止・工場の操業停止を要求し始めた。チッソ・通産省は、全力を挙げて「有機水銀説」を否定しようとした。
1959年11月12日、厚生大臣の諮問を受けた食品衛生調査会は、熊大研究班の結論を受け入れ、「水俣病は水俣湾魚介類を食べておこる中枢神経系の中毒疾患であり、主な原因はある種の有機水銀化合物である」と答申した。
池田勇人通産大臣は(政府内でもっとも発言力があった)「水銀と結論するのは早すぎる」と、厚生大臣の報告を無視した。水俣工場のアセトアルデヒド工程と水俣病とを関連づけられたくなかったのだ。
以後、チッソ、通産省、熊本県は、水俣病の原因と責任を明確にしないまま事件を終わらせることに全力をあげた。
衝撃的な事実だが、実は水俣病が発生したのは、1950年代の水俣湾周辺だけではないことが、後に明らかにされた。
日本政府が統治中だった、戦前の朝鮮総督府時代、チッソは、咸鏡南道興南に㈱朝鮮窒素肥料に世界最大級の肥料工場を建設し、やはりアセトアルデヒドを含む製品や、化学肥料などを大規模に製造していた。
このとき、すでに水俣病とそっくりな症状が地元民に発生していた。これは「興南病」と呼ばれた。しかし当時は軍部が強大な権限を持っていて、住民の訴えを暴力的に握りつぶしていた。
また、ハムフンのチッソ工場内には理研の研究所が併設され、湯川秀樹を長として海軍により原爆開発が進められていた。(以下のリンク参照)
2021.10.15 水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと
https://gendai.media/articles/-/88303
(全部引用が必要なほど重大な内容ばかりだが、長すぎて文字フローになる)
【水俣と同じように、興南でも従業員の間で“奇病”発生の噂があったという。石原信夫医師は、熊本大学文書館の「<水俣病>研究プロジェクト」で「水俣病の前に興南病があった。
水俣病は晴天の霹靂ではない」と題した論文を発表している。その中で、日窒は水俣病よりも前に、興南工場で有機水銀中毒による「興南病」を引き起こしていたことを明らかにしている。
「操業開始後の早い時期(1936年頃)には、アセトアルデヒド生産の結果である有機水銀中毒の危険性が存在していたと推測できる。
(略)『興南病』と名付けられた疾患は専ら工場内で発生していた中毒症であり、原因物質はアセトアルデヒド合成で副生された有機水銀(多分、メチル水銀)による中毒であったと結論できる。つまり、興南病はアセトアルデヒド合成の結果としての有機水銀中毒であり、水俣病との関連で考えねばならないと言える」(石原論文)
そして興南工場でのアセトアルデヒド生産量や、そのための水銀消耗量と有機水銀の副生量は水俣以上であり、有機水銀中毒発生の危険性は水俣を上回っていた可能性があるという。
またその廃棄物は、無処理のまま海に投棄されていたと考えられるとする。ただそこが水俣湾のような限定された海域でなかったため、海流によって希釈拡散されただけなのだ。
「興南からの引揚者の多くは、かつて興南で発生していた『興南病』に関するかなりの情報を持っていた筈であるが、水俣工場再建に際しては殆ど考慮しなかった」(石原論文)
このように巨大化学コンビナート「日本窒素肥料興南工場」は、朝鮮総督府や軍と一体の国策会社として核兵器開発を含め戦争遂行に大きく加担。その中で、労働者の命や健康をまったく顧みない企業体質となった。
その結果、興南工場で起きた有機水銀中毒を教訓とすることなく、水俣で再びより深刻な被害を引き起こしたのである。】
******************************************************
引用以上
あまりにも重要な内容ばかりなので、全文紹介したかったが長すぎた。2015年当時の現代ビジネスは、伊藤孝司さんだけでなく、本当に素晴らしい文献的価値の高い記事が満載だった。
今は右寄りの編集者によって、魚住昭さんさえ追放されてしまっている。
私は、ここで書きたかったのは、水俣病を全身全霊で追求しなかった結果が、福島第一原発事故をはじめとする原子力産業公害をのさばらせた結果を招いたということだ。
ここで、江頭豊や吉岡喜一、池田勇人らを地獄に送り返していかなかったことが、水俣病を数百倍の規模にした原子力産業公害を招いたのである。
それは、社会党や共産党、労組でさえ、一種の権威主義に陥り、民衆に寄り添って、その苦悩を共有するという姿勢を見失っていたことが原因である。
私は父親が愛労評の事務局長だったので、労組や社会党の正体を身近に見続けてきた。また共産党は、もっとひどい権威主義で、「優秀な指導部が愚かな大衆を指導する」というレーニンの一党独裁思想を教条的に援用した結果、志位和夫が23年にもわたって独裁組織を私物化している。
国家権力や私企業が民衆の生活を破壊し、人権を破壊しはじめたとき、それを怒り立ち上がる勢力が、権力側と同じように組織され、一定の権威主義に陥ってゆく姿を、私は半世紀以上見せつけられてきた。
ちょっと組織が成立すると、そのトップは、すぐに偉くなったと勘違いして、底辺の人々に寄り添わなくなるのだ。
それは人間性の問題というより、組織が持つ本質的な特性だと思う。
もし人間解放を求める運動があるとすれば、それは組織とは別の形を考えるしかないだろう。少なくとも、20名を超える規模の組織が成立すると、必ず分業が成立する。
このとき、組織は自らを疎外するのだ。
官僚組織になれば、もう民衆の生の声は、組織の利権の餌に変わってゆくしかないのだ。
水俣病問題をすべて書こうとすれば、この文章の数百倍の分量が必要になる。今回は、わずかなエッセンスだけを抜き書きした。
ウィキの説明は、よくできているので、知りたい方はお読みください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85
1950年代の初め、住民は猫が踊るような異常な素振りを見せるのに気づいた。やがて猫は、ひどい痙攣を起こし、恐ろしい鳴き声を立て、ついには死んでいった。
1956年頃、水俣の住民も同じような症状を経験し始めた。手足のしびれ・痙攣、高熱、視覚及び聴覚障害などを訴える人で病院はごった返した。意識を失い死んでしまう人も大勢いた。
被害を訴える人は、周辺自治体も含めて数万人に達したが、現在まで水俣病認定を受けているのは約3000人にすぎない。
この病気の原因について、ほとんどの住民が、地域経済の中核であり、多くの住民の雇用を担っていたチッソ工場からの排水を疑っていたが、会社側は、「証拠がない」として認めようとしなかった。チッソの力が地域社会のなかで、あまりにも大きいため、漁師以外の住民は、大きな声で糾弾することができなかった。
水俣市は、チッソが主役として君臨する「企業城下町」だったのだ。
そして、被害者が声を上げることに対して、会社側の利益が損なわれるとチッソ関係者は住民に声を出さないことを要求した。経営者は、まるでお殿様のように傲慢な独善姿勢を続けようとした。
国(通産省)や熊本県にも救済を求めたが、彼らは決して住民の側に立たず、チッソの利権に沿った対策しかしなかった。
熊本県は、チッソの「家来」だったのだ。
住民の被害の訴えを押し潰した最大の功労者は、水俣チッソ労働組合だった。宇井純は労組を「会社側の別働隊」と評している。
チッソ企業と労組が、水俣病の原因が、同社が製造しているアセトアルデヒド製造排水であることを知ったのは、同社附属病院の細川医師が猫に廃液を投与したところ、水俣病を発症した事実を確認したことによる、それは1959年10月のことだった。
だが、会社側も労組も、この事実を隠蔽しようとし、細川医師に対して排水の猫投与実験の中止を命令した。
それまで会社側が主張してきた、責任逃れのための農薬説、爆薬説を振りかざして、排水原因説を徹底的に隠蔽し、証拠を破壊しようとした。
国や県、地元メディアも、チッソに追従して、細川医師の実験結果を闇に葬った。
当時の社長は、吉岡喜一という人物で、隠蔽工作は、この男の指示と考えられ、後に患者団体は殺人罪で刑事告訴したが、検察は勝手に「業務上過失」に切り替えた。
その後、社長を引き継いだ後藤舜吉と、雅子皇后の祖父である江頭豊が、患者たちの救済を妨げた悪質なチッソ経営者として重要である。
国と県は、水俣病によって水俣工場の生産が妨げられないこと、水俣病にともなうチッソ側の補償負担を出来るだけ軽くすることを住民に宣言した。
つまり、国と県は、もの凄い数の犠牲者が出てからも徹頭徹尾、加害者チッソの側に立ち続けた。
チッソは、原因と自分の責任を隠したまま、白々しく「お情け」を住民に与えようとした。それは「わずかな見舞金を与えることと引き換えに、一切の責任を追及しない」とするものだった。
被害者対応としてチッソに動きがあったのは、会社側が水俣病の原因がチッソ排水であることを知った1959年に、水俣病の患者組織との間で交わした「見舞金契約」であった。これは後々までチッソ側の卑劣さを示した姿勢として後世に残すべきものだった。
この契約は“真摯”とは程遠い対応だった。死亡患者に弔慰金と葬祭料を含む一時金、生存患者には年金を払うといったが、あくまで、チッソは加害者であることを認めず、住民に「格別のお情け」を与えてやるという内容だ。
そして、もし将来、チッソの工場排水が原因だと決まっても、新たな補償金の要求は一切行わないと契約内容に明記されていた。(後に公序良俗則違反で無効認定された)
そしてその3年後、1962年には、生まれながらに水俣病の症状を持った「胎児性水俣病」が初めて“公式確認”された。胎児にも影響が出ると判明し、事態はより深刻になった。
https://www.sankei.com/article/20211217-C23H3D7GH5JZHKZNQAKBDROIIY/photo/DQ2QSCA47BJWTOQEQY2XAO7T2Q/
チッソ・水俣工場が、原因となったアセトアルデヒドの製造を停止したのは、水俣病の原因であることを確認できてから6年後。1968年の5月だった。そして、停止から4カ月が経過した同年9月、ついに政府は工場排水が原因だという見解を示した。
チッソ側は、6年間も、被害を無視して原因排水を水俣湾に垂れ流すという稀代の犯罪行為を続けた。
これは、まさしく「未必の故意による殺人」に他ならなかった。
このときの社長は、現皇后の母方祖父である江頭豊だった。江頭が1964年以来、殺人排水垂れ流しの最高責任者になっていたので、患者団体は、江頭の身内関係者すべてを呪った。
そして雅子皇后は、精神の激しい不調を訴え続けた。「呪い」の意味を知っている人なら、それが何を意味するのか理解できるだろう。
なお、国(通産省)側の水俣病に対する犯罪的対応の最高責任者=通産大臣は、池田勇人・石井光次郎・椎名悦三郎・佐藤栄作であった。
いずれも、庶民の命を虫けらのようにしか思わない企業社会最優先の政治家ばかりだ。
チッソ側の代官だった熊本県知事は、寺本廣作だった。この男は、女子人身売買に関わった疑いで裁判所に召喚されたことがある。
水俣病の発生が確認されてから67年、水俣病裁判は未だに続いている。それは、政府とチッソが、可能な限り負担を軽減しようとケチなことばかり考えているからだ。
胎児性の水俣病罹患者も多く、まだ補償も終わっていない。そして、チッソも政府も、被害を訴える数万人の人々のなかで、とりわけ深刻な約3000名しか救済補償をしていない。
大半の人々の申請を「虚偽」と決めつけているのだ。
救済策から疎外された未認定患者たちは、救済を求めて国を訴えている。
一審の熊本地裁では、患者たちが全面勝訴したが、公害訴訟の通例どおり、国は上訴して取り消しを求めている。
水俣病訴訟 救済策の対象外の原告全員を水俣病と認定 大阪地裁 2023年9月27日
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230927/k10014208051000.html
2023/10/03 水俣病訴訟「国は控訴断念を」~大阪地裁で全面勝訴をうけ・原告ら
https://www.ourplanet-tv.org/47773/
1959年7月22日、熊大研究班は、ハンターラッセルらの報告を手がかりにした研究をもとに、有機水銀が原因だと発表した。不知火海一帯の漁民が、排水停止・工場の操業停止を要求し始めた。チッソ・通産省は、全力を挙げて「有機水銀説」を否定しようとした。
1959年11月12日、厚生大臣の諮問を受けた食品衛生調査会は、熊大研究班の結論を受け入れ、「水俣病は水俣湾魚介類を食べておこる中枢神経系の中毒疾患であり、主な原因はある種の有機水銀化合物である」と答申した。
池田勇人通産大臣は(政府内でもっとも発言力があった)「水銀と結論するのは早すぎる」と、厚生大臣の報告を無視した。水俣工場のアセトアルデヒド工程と水俣病とを関連づけられたくなかったのだ。
以後、チッソ、通産省、熊本県は、水俣病の原因と責任を明確にしないまま事件を終わらせることに全力をあげた。
衝撃的な事実だが、実は水俣病が発生したのは、1950年代の水俣湾周辺だけではないことが、後に明らかにされた。
日本政府が統治中だった、戦前の朝鮮総督府時代、チッソは、咸鏡南道興南に㈱朝鮮窒素肥料に世界最大級の肥料工場を建設し、やはりアセトアルデヒドを含む製品や、化学肥料などを大規模に製造していた。
このとき、すでに水俣病とそっくりな症状が地元民に発生していた。これは「興南病」と呼ばれた。しかし当時は軍部が強大な権限を持っていて、住民の訴えを暴力的に握りつぶしていた。
また、ハムフンのチッソ工場内には理研の研究所が併設され、湯川秀樹を長として海軍により原爆開発が進められていた。(以下のリンク参照)
2021.10.15 水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと
https://gendai.media/articles/-/88303
(全部引用が必要なほど重大な内容ばかりだが、長すぎて文字フローになる)
【水俣と同じように、興南でも従業員の間で“奇病”発生の噂があったという。石原信夫医師は、熊本大学文書館の「<水俣病>研究プロジェクト」で「水俣病の前に興南病があった。
水俣病は晴天の霹靂ではない」と題した論文を発表している。その中で、日窒は水俣病よりも前に、興南工場で有機水銀中毒による「興南病」を引き起こしていたことを明らかにしている。
「操業開始後の早い時期(1936年頃)には、アセトアルデヒド生産の結果である有機水銀中毒の危険性が存在していたと推測できる。
(略)『興南病』と名付けられた疾患は専ら工場内で発生していた中毒症であり、原因物質はアセトアルデヒド合成で副生された有機水銀(多分、メチル水銀)による中毒であったと結論できる。つまり、興南病はアセトアルデヒド合成の結果としての有機水銀中毒であり、水俣病との関連で考えねばならないと言える」(石原論文)
そして興南工場でのアセトアルデヒド生産量や、そのための水銀消耗量と有機水銀の副生量は水俣以上であり、有機水銀中毒発生の危険性は水俣を上回っていた可能性があるという。
またその廃棄物は、無処理のまま海に投棄されていたと考えられるとする。ただそこが水俣湾のような限定された海域でなかったため、海流によって希釈拡散されただけなのだ。
「興南からの引揚者の多くは、かつて興南で発生していた『興南病』に関するかなりの情報を持っていた筈であるが、水俣工場再建に際しては殆ど考慮しなかった」(石原論文)
このように巨大化学コンビナート「日本窒素肥料興南工場」は、朝鮮総督府や軍と一体の国策会社として核兵器開発を含め戦争遂行に大きく加担。その中で、労働者の命や健康をまったく顧みない企業体質となった。
その結果、興南工場で起きた有機水銀中毒を教訓とすることなく、水俣で再びより深刻な被害を引き起こしたのである。】
******************************************************
引用以上
あまりにも重要な内容ばかりなので、全文紹介したかったが長すぎた。2015年当時の現代ビジネスは、伊藤孝司さんだけでなく、本当に素晴らしい文献的価値の高い記事が満載だった。
今は右寄りの編集者によって、魚住昭さんさえ追放されてしまっている。
私は、ここで書きたかったのは、水俣病を全身全霊で追求しなかった結果が、福島第一原発事故をはじめとする原子力産業公害をのさばらせた結果を招いたということだ。
ここで、江頭豊や吉岡喜一、池田勇人らを地獄に送り返していかなかったことが、水俣病を数百倍の規模にした原子力産業公害を招いたのである。
それは、社会党や共産党、労組でさえ、一種の権威主義に陥り、民衆に寄り添って、その苦悩を共有するという姿勢を見失っていたことが原因である。
私は父親が愛労評の事務局長だったので、労組や社会党の正体を身近に見続けてきた。また共産党は、もっとひどい権威主義で、「優秀な指導部が愚かな大衆を指導する」というレーニンの一党独裁思想を教条的に援用した結果、志位和夫が23年にもわたって独裁組織を私物化している。
国家権力や私企業が民衆の生活を破壊し、人権を破壊しはじめたとき、それを怒り立ち上がる勢力が、権力側と同じように組織され、一定の権威主義に陥ってゆく姿を、私は半世紀以上見せつけられてきた。
ちょっと組織が成立すると、そのトップは、すぐに偉くなったと勘違いして、底辺の人々に寄り添わなくなるのだ。
それは人間性の問題というより、組織が持つ本質的な特性だと思う。
もし人間解放を求める運動があるとすれば、それは組織とは別の形を考えるしかないだろう。少なくとも、20名を超える規模の組織が成立すると、必ず分業が成立する。
このとき、組織は自らを疎外するのだ。
官僚組織になれば、もう民衆の生の声は、組織の利権の餌に変わってゆくしかないのだ。
水俣病問題をすべて書こうとすれば、この文章の数百倍の分量が必要になる。今回は、わずかなエッセンスだけを抜き書きした。
ウィキの説明は、よくできているので、知りたい方はお読みください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%BF%A3%E7%97%85