戦前、1932年~1945年現在の中国東北部に「満州国」という名の日本の傀儡国家が存在した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD
国王(皇帝)は、清朝のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀だった。溥儀を背後から操った日本側の黒子は、関東軍参謀、石原莞爾だったといわれ、実務上のトップは、満州国財政部次長と国務院総務長官を兼任していた岸信介だった。
岸は、満州と朝鮮の運営資金を、麻薬(アヘン・モルヒネ・ヘロイン)を昭和通商という会社を設立させて、世界に広く密売することで集めていた。
いわば、世界最大の麻薬売人であり、当時、全世界の9割の麻薬を扱ったといわれる。
1931年9月18日、石原莞爾による謀略とされる柳条湖事件~満洲事変が勃発、関東軍が満洲全土を掌握した。その後、中華民国からの独立を宣言し、1932年3月1日の満洲国建国に至った。
満洲国皇帝には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
満洲国は自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。
溥儀は、満州国建国の際に、昭和天皇裕仁に招かれ、裕仁は溥儀に対して「兄弟」と呼んだ。つまり、裕仁は、満州人が日本人と同族であると認識していたのである。
その「満州人」という民族は、ツングース騎馬民族で、10世紀頃、哈爾浜に首府を置いた金国をもって歴史に登場する。呼び名は「女真族」であった。
女真族は、およそ1000万人ほどの民族人口を擁し、独自の「女真語」を持つ文化的歴史も小さからぬ民族であるが、女直と呼ばれたり、後に「マンジュ=満州族」と改名したりもした。
後に、ヌルハチという英雄が出て、後金を建国するに至り、やがて「清国」を成立させ、中国全土を支配する中華王朝の一角を占めるようになるほどの巨大な歴史的存在である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9C%9F
私が「女真族」に関心を持ったのは、半世紀近い前の若いころ、日中友好協会正統本部と関わっていて、いわゆる「戦災孤児」問題に触れて、彼らの軌跡を調べているうち、「どんな理由で、満州の人々は、日本人孤児を温かく引き取って育てたのか?」という疑問が湧いていたからだ。
そして、戦災孤児たちの育ての親である満州人(女真族)の写真を見て驚いた。
それは、何から何まで、日本人と瓜二つであり、まったく見分けのつかない民族だったからだ。
http://torii.akazawa-project.jp/cms/photo_archive/tanino/photo.html
私の祖母は、中津川市の隣村である黒川村の出身だが、戦前、農地に恵まれない貧しい土地だった東濃地域からは、たくさんの人々が満州開拓移民として渡航した。
そのほとんどが、敗戦とともに筆舌に尽くしがたい悲惨な経験をしている。女性たちは、ロシア兵に強姦され、また開拓民の帰還を保証するための人身御供とされた。
https://www.bookbang.jp/review/article/727047
東濃地域出身者の満州難民で、戦災孤児となり、満州の人たちに育てられた人は非常に多い。だが、満州の土着民は、日本軍による圧政を受けた被害者であったにもかかわらず、多くの身寄りを失った日本人児童を引き取って家族のように暖かく育ててくれた。
理由は何だったのか? それは、満州人の日本人に酷似した写真を見ていて、なんとなく分かるような気がした。
女真族は、ツングース民族であるため、よく狩猟民族といわれて東隣の濊国エベンキ族と同じように見られるが、実は全然違う。
現代韓国人の直接の先祖は、エベンキ族だが、韓国人は、それが明らかにされたとたん、遺伝子解析情報を隠してしまい、今では、伽耶国の末裔であると言い換えるようになった。
伽耶こそは、実は女真族の移動経路にある国であり、北朝鮮民が女真族であっても、韓国民は濊族エベンキの末裔というべきなのだ。
https://haryu-korea.net/evenki
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1658661309/l50
https://ameblo.jp/michiru619/entry-11757498983.html
エベンキは、典型的な狩猟漁労民族だったが、女真族は、養豚農耕を行っていた証拠がある。
https://talkiyanhoninjai.net/archives/566
AD300年(応神14年)頃、日本書紀に、弓月氏(秦氏)の一族が数万人~数十万人の単位で、百済を経て日本に移住したとの記述がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B
これこそ、江上波夫が描いた壮大な「騎馬民族征服王朝説」の動かしがたい証拠なのだが、このとき日本列島に移住した騎馬民族こそ、女真族の先祖にあたる高句麗人(扶余人)であったことは、ほぼ確実である。
私は、金建国以降の女真族という名を、あえて騎馬民族にも使っている。それは、民族の特徴と分布が分かりやすいからだが、「女真」という言葉は、本来は、「人々」という形容に近い言葉で、10世紀よりも、はるかに古くから使われていた可能性が強いと考えていることもある。
日本人の半分程度いる大陸系の人々は中華征服王朝=清国を作った女真族(高句麗・扶余族)の末裔と考えてもよいと思う。裕仁氏が言ったように、同じ先祖から来た民族(兄弟)なのだ。
とりわけ、私が住んでいる中津川市のある岐阜県、福井県、長野県、山陰、関東、東北(岩手県まで)は、大半が清国人と同じ、女真の血が流れていると考えている。
女真族の特徴は、高い知的能力、やや高身長で、すらりとした贅肉のない体躯、やや面長、一重まぶた、乾燥型耳垢などの特徴を持っている。
これはツングース騎馬民族の特性でもある。
中津川市で人々を観察していると、本当にスタイルの良い、浅田真央のような女性が多いのに驚かされる。私のようなデブは極めて少ない。その理由は、痩せていないと乗馬が困難だったからである。
この人たちは、馬を引きつれて京都・福井から東山道(中山道の前身)を経由して拡大したのだ。
だから東山道には、秦の始皇帝が配備したのと同じ「駅馬制」が敷かれていた。中津川の大井宿も、駅馬の大基地だった。
私は、以前、この民俗に興味を持って分布を調べたことがあるが、ほとんど東山道界隈であることを確信した。それは群馬を経て岩手県まで続いていた。大谷翔平もその末裔だ。
まさに、「この人こそ女真」というべき典型的な女真族の特徴を持った、経済学者の三橋貴明が、「騎馬民族征服王朝説」を虚構としているのは、まことに滑稽笑止だ。
https://www.youtube.com/watch?v=j14IfcwBOSY
結局、参政党のような「日本を天皇の国にする」と主張する右翼たちが、平泉澄が作った「万世一系論」の虚構デマを盲信し、神武天皇という蘇州呉国由来の移住王君を天皇家の始祖とする完全に誤った妄想に取り憑かれ、それを正当化することに必死で、歴史の真実を歪曲し、天皇家が百済・高句麗由来であることを、どうしても理解できないのだ。
今の天皇のオヤジである明仁氏も、自分たちが高句麗由来である事実に言及している。つまり、明仁氏は裕仁氏の薫陶を受けて、天皇家が清国人と兄弟である事実を理解している。
【桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています】
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
ここで女真族の特徴を、もう一度おさらいする。
・豚を家畜・主食にしていて、獣の皮を服としている。
(女真移住地域の山陰や越地域では、現在でも養豚が非常に盛んである。霊的な記憶があるのか、養豚業の人たちは、すらりとして、一重まぶたの女真族の特徴を持った経営者が多い。)
・髪を編んでいる(辮髪)。
辮髪は、日本に渡って「武士の月代」になったことが分かっている。これは乗馬と同じで、武家の習俗である。乗馬ズボンは内股のこすれを予防するためのもので、日本に渡って袴になった。
また風圧による髪の乱れを防ぐための「みずら結い」は、やはり辮髪の編み上げから来ていると思われる。
・強力な毒矢の技術を持っている。(日本武家も鳥兜を使った)
・貂を狩り、その毛皮を中国へ交易品として輸出した。
・人の尿を貯めて、顔や手を洗った。
・防寒のためか、地中に竪穴を掘って、そこに住む。(平安時代まで庶民の一般的住居)
・統一的な政治指導者はおらず、部族ごとに分かれて暮らしていた。指導者は互選ではなく血縁で決まる。(日本の土着豪族のシステムだった)
これらも、民俗学研究の進化とともに明らかにされると予想している。
民族には、歴史のなかでの霊的な記憶を共有していると私は考えている。
神武天皇は、呉越戦争で敗北した蘇州呉国の太伯の身内であることは、中国史学でも常識として考えられている。それは2500年ほど前のことだ。
だが、江上波夫によれば、AD300年前後に、日本の権力者の民俗が、突然激しい変化を遂げた。
古墳は円墳だったものが方墳に変わった。そして、それまでなかった大量の馬具が方墳から出土するようになった。直剣やズボンが登場するのも、このころだ。
呉越のような米作農耕民族は、刈り取りのため曲刃を好む。また水田や河川干潟に入るため裾からげのできる和服=呉服を好む。
直剣は、騎馬戦争のとき、敵を突くことに有利なのだ。ズボンは乗馬には欠かせない。聖徳太子の絵は、すべてズボンであり、直系先祖は、百済武寧王の子といわれる継体天皇と目されている。
もしも、民族固有の霊的な記憶があるとするなら、それは、乗馬と養豚だろうと私は思う。
女真末裔は、馬が大好きだ。競馬を見ると興奮する。馬と一緒に生きてゆくのだ。
そして養豚農業が重要なライフスタイルだった。豚そのものは、イノシシを家畜にすれば豚に変わるが、その糞を使って農業をする炭素還元農業は、もしかしたら女真族の記憶に刻まれ、今でもそうした農業を好むのではないかと思う。
水郷地帯の呉国では、移動条件から馬ではなく鶏が好まれた。だから、呉由来の弥生人たちは、養鶏農業を好む。
このあたりの民俗は、たぶん今でも連綿と受け継がれているような気がする。