これは「インパール作戦」のことで、今から約80年あまり前の話だ。
国鉄の機関士だった私の父親が、三河地区から徴兵されて、中支戦線からビルマ戦線に転戦し、インパール作戦に従軍した。新潟から嫁いだ母と結婚し、名古屋市覚王山で一緒に暮らし始めた直後のことだった。
父は、幸い奇跡的に帰還することができたが、父の所属した大隊(たぶん第15師団、名古屋師管区)で、3000名のうち帰還者は100名に満たなかったと言っていた。
以下の証言は、今年105歳になる元兵士の証言だ。父は1923年生まれなので、この人より3歳若かった。しかし、太平洋戦争に徴兵されて、最も苛酷な運命を生きた同じ世代だ。
この世代の人たちは、亡くなった戦友の分まで、しっかり生きねばばらないと決意した人が多かった。
地獄の戦場で鍛え抜かれた精神力には、みんな凄みがあったと思う。
【特集】戦後80年 “白骨街道
”生き抜いて インパール作戦参加の105歳元兵士 「生きることがモットーだった」 ≪テレビ新潟≫ 8/13(水)
https://news.yahoo.co.jp/articles/3689b1b61e4017cdc7aa8f2c9c52de19c58b8047
日本軍が3万人の死者を出したインパール作戦から生きて帰った105歳の元兵士の証言です。
【動画で見る】「白骨街道」生き抜いて インパール作戦に参加 105歳元兵士の証言
https://www.youtube.com/watch?v=_08qq3MV5ew&ab_channel=TeNY%E6%96%B0%E6%BD%9F%E4%B8%80%E7%95%AA%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9
飢えと病で兵士が次々と倒れ、「白骨街道」と呼ばれた撤退の道。戦禍の記憶を物語るのは、消えない傷跡と「命の恩人」と呼ぶ中将の存在です。
◆傷跡が語る「白骨街道」
インパール作戦に参加した当時は20代前半。あれから80年以上が経ちました。
105歳の元兵士、佐藤哲雄さんです。脚には飛行機の砲弾で受けた深い傷跡が残ります。
(佐藤哲雄さん)
「砲弾を出すための間、病院がないものだから20日か1か月も経ってやっと病院に行って出したんだ。その代わり砲弾が腐ってここまできた」
作戦は失敗し、撤退戦も凄惨を極めました。
(佐藤哲雄さん)
「死んでる死んでる!撤退する時だってコヒマから撤退する時だって弾丸に当たって死んだ人もいるけれど栄養失調で亡くなった人がいっぱいなんだ。食うものがない、なんでもいいから食うから下痢を起こしてマラリアになる。だからインパール街道は白骨街道になってしまった」
◆「生きて帰って国を守れ」
高田歩兵第五十八連隊に所属(前列右が佐藤さん)
新潟県の最北部にある村上市の山北地区。佐藤さんはこの場所で生まれ育ち、戦場へと旅立ちました。
“赤紙”の召集を受け、新発田の歩兵第十六連隊に入ったのは20歳の時。翌年から高田歩兵第五十八連隊に所属。1944年、インパール作戦に参加します。
新発田を発つ前、上官から受けた訓示はいまも覚えています。
(佐藤哲雄さん)
「“死ぬばかりが国のためじゃない。死んでは国は守れない。生きて帰ってきて国を守れ” これが最後の訓示だった」
◆物資補給で「無謀」 インパール作戦
インパール作戦は、ビルマを占領した日本軍が連合軍の拠点だったインド北東部の攻略を目指した作戦です。
武器や食料など物資が考慮されず、いまでは「無謀な作戦」とされています。
戦死者は3万人。日本軍が撤退した道には多くの遺体が残され「白骨街道」と呼ばれました。
「インパール作戦みたいに負け戦になると人間は固まって逃げるようになる。1人では心細いから、2人、3人と固まる。これはダメなんだ。戦車でも飛行機でもそれを追っかけていく。固まるな、固まるなと俺は指導していた」
佐藤さんは当時、伍長。かつて上官からもらった言葉を部下に伝えていました。
「自分が指揮している人に戦死者はいない生きることをモットーに指導していたから」
しかし襲ってくるのは敵軍だけではありません。
「みんな熱を出してふらふらして歩いているわけだ。ハゲタカがその元気ない人に 追突してくる。“エサ”を獲るために。倒れた兵隊の上にのしかかって殺されてしまう」
◆中将の「抗命」で救われた命
佐藤幸徳中将(庄内町立図書館所蔵/1930年に岡山県で行われた陸軍特別大演習。当時は陸軍少佐)
日本だけで死者310万人と言われる太平洋戦争。
「インパール作戦が始まってから勝てる見込みはないと思ったな」
山形県の庄内町「乗慶寺」に、佐藤さんが「命の恩人」と呼ぶ人の追慕碑があります。
佐藤幸徳中将。佐藤さんが所属する第31師団を率い、軍司令部から物資の補給がなかったことから独断で撤退を決めた人物です。
インパール作戦について中将は「大失態」、「実行不可能」と、批判的に述べています。
中将が撤退を決めたことは軍に逆らった「抗命」とされ、評価が分かれる面もあります。しかし将軍に感謝する元兵士たちが追慕碑を建立し、「撤退決断により生かされた我ら」と刻みました。
◆2年近い抑留経て帰国 父からは…
「“お前たちはこうして剣術の稽古をしていて大変、大変大事なことだ。ただし、たまにはあの向こうに流れている川で釣りでもして、心を癒しておけ”。
こういう言葉をかけられた。偉ぶらない人だった。親とか友達みたいな喋り方だったな。軍隊式みたいに、偉い人が話すような、そんなしゃべりではなかった」
1944年6月に撤退は始まり、佐藤さんはバナナの根を食べるなどして飢えをしのぎなら命を守りました。
終戦後は2年近い抑留を経て、帰国を果たしますが、父からは冷たい言葉を浴びました。
「帰ってきた時は、親父から“負けてきたような兵隊は来るな”と言われた」
◆「白骨街道」生き抜いて
戦後は農業や林業に就いた佐藤さん。
保管する古びた紙には軍歴が連なります。戦犯とされることをおそれ、公にできるまで時間がかかりました。
(佐藤哲雄さん)
「いまは時代が流れ、変わったからいいけれど、当時は長く(戦争に) いたなんていうと、ああだこうだいう人がいた。ずっとこういう戦争はしないようにしてもらいたい」
戦後80年。白骨街道を生き抜いた元兵士は、過酷さを伝える貴重な証言者です。
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引用以上
インパール作戦 ウィキ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
1944年3月より、同年7月頃まで約4か月間の作戦。
作戦を立案し、実行したのは、牟田口廉也中将だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F
牟田口は、後の戦争評論家たちから、日本軍史上最低最悪の司令官と評された。
彼の特異性としては、「大和魂」が大好きな精神主義が挙げられる。彼は盧溝橋事件の主犯ともいわれた。
インパール作戦で、ビルマからインパールに向かって3000mの峻険な山脈を10万人の兵士が超えるのに、ろくな食料も兵器も兵站支援部隊も用意せず、ひたすら大和魂をけしかけて、兵士たちに無理難題を押し付けて、作戦を失敗に終わらせた。
https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5957588.html
公式な戦死者は約3万人だが、餓死、病死者を含めれば、犠牲者はその2倍に達するという評価もある。日本側の動員者は約10万人といわれた。
それは、ガダルカナル作戦と並んで、太平洋戦争史上最悪の戦いだった。
傷口からダラダラとウミを流す者、手榴弾で自決する者…“白骨街道”と呼ばれた“地獄のインパール撤退戦”《兵士の証言》
https://bunshun.jp/articles/-/72335
上に紹介した、佐藤哲雄さんの所属は、高田歩兵連隊で、第31師団所属。
司令官は、佐藤幸徳中将、彼が、最初に牟田口指揮官の愚かさを見抜き、作戦の失敗を確信して戦線離脱を決定した。
当時は、軍部から独断で戦線離脱を果たし、反逆者の扱いを受けた。彼の指揮下にあった日本海側の部隊からは生還者が多く出た。
父親は、もっとも犠牲者の多かった15師団だったが、父は少しだけ英語が話せたおかげで、初期に通訳としてインパールの英軍と交渉にあたり、そのまま拘束され捕虜になったおかげで、生き延びることができた。
1年以上拘束され、まるでナチスの生き残り囚人のように骨皮筋衛門となって舞鶴に帰還することができた。
60㎏あった体重は、30Kg以下に減っていたという。
父が、老人ホームに入ってから語ったことだが、当時の陸軍は、部下を殴ることをコミュニケーションと勘違いした上官が多くて、父が蒸気機関車運転免許を持っていたことや、英語が少しだけ話せたことで、上官から妬まれ、殴られたことが多かったという。頭を殴られて気を失うことも珍しくなかった。
後に、父が老いて認知症になった理由の一つが、軍隊でさんざん殴られたことだったと私は思う。脳挫傷を起こすと、年老いてから結果がやってくる。
軍隊では、「生意気だ」という言葉を「しゃらくさい=洒落臭い」と言い換えることが多かった。その方がダイレクトな感情が薄まり、かっこいいと思ったのだろうか?
父は私を叱るときも、よく「洒落臭い」を連発した。
儒教の序列主義の価値観のなかで、自分より格下、目下だと思った相手が、自分より価値の高いことと評価されるとき、人は生意気=洒落臭いを多用するのだ。
ちょうど、韓国人にとって、日本人は自分たちより格下であり、見下すべき人間と信じている者が多い。それが、自分たちより上の生活をしていたり、価値あるものをもっていたりすると、優越感が棄損されて「洒落臭い」という感情になる。
儒教というのは、人間をランキング付けするヒエラルキー社会なので、序列が下の者が、豊かだったり、優れたりしていると激怒してしまうことになる。
日本人は、序列より人情を優先する人が多いので、朝鮮半島のこの価値観はわからないだろう。
父が徴兵された日本軍も、ヒエラルキー社会の典型で、まさに儒教組織だった。
「生意気=洒落臭い」という表現こそ、ヒエラルキー社会の代名詞であり、本質的な価値観だと私は思う。
この言葉を持っている人は、儒教の序列思想に毒されている人であり、他人を見下すことを、人生のモチベーションの根源に置いてしまった人だ。
我々は、次の世代に対し、生意気という言葉の意味を、否定的に伝えてゆかなければならないだろう。
私個人の体験でいえば、母親が新潟美人だったことで、学校でいじめられる原因になった。母が美人であることは「生意気」だったのだ。
父は優秀だったことで、脳を損傷するほと殴られる原因になった。
これがヒエラルキー社会なのだ。
インパール作戦の最高司令官、すべての責任を負うべき牟田口廉也は、動員された10万人の兵の大半が死亡した責任を負う立場だが、彼は、連合軍に投降し、生き延びた。A級戦犯にもならなかった。
牟田口は、作戦の失敗を、「兵に大和魂がなかったせいだ」と自己弁護を続けた。
1966年まで生き延びた、この男の死を追悼する者はいなかった。