大学生だった頃、僕は友人に「悩むのではない、考えるのだ」とかなんとか言っていた。あの頃の僕は「思考」というものに過大な価値を置いていたような気がする。【この世には真理というものがどこかにあり、それは不動の存在で、だから人間は思考を積み重ねることによって少しでもそれに近づかなければならない】とかなんとか・・・。今から見るとまるで旧約聖書創世記のバベルの塔の物語のようではないか。
でも哲学や宗教を学ぶうちに分かってきたことはいくら思考を積み重ねてみてもグルグル周辺を回るだけで「存在の神秘」には辿り着くことはできないというものだった。
また科学にしたって世界がいかにして成り立っているかという説明はできても、なぜそんなものが存在するのかという疑問には答えられない。せいぜいそうなっているからそうなっているのだと答えるのがオチだろう。
大学では学問を自然科学や人文科学や社会科学などと分類していたが、そこには物事を客観的に観ることを是とする意思が透けて見える。確かにそれは大事である。それを否定するつもりは全くない。
だけど人間は物事を純粋に客観的に観ることができるのか(主観が必ず混じるのではないか)、またたとえそれができたとしても、それで相手の内的真実まで理解できるのか疑問である。