自己認識の作業は、26歳の時任意入院した精神病院の一室で始めてから、ずっと続けてきました。「内観」という手法を用いたのです。内観は大学の「刑事政策」の講義で習いました。内観は、仏教の修行法の一つだそうで、自己を見つめるために、過去に自分が人からしてもらったことや人にしてあげたことなどを挙げ連ねていくというものです。いっぺんに思い出すのではなく、特定の人について、何週間もかけ時間を区切って思い出していくというものです。主観的なことでも、紙に書き続けていれば、後になってからこんなこと書いていたのだと客観的に見ることができます。こういうことを、十数年間、私は続けてきたのです。
こんにちは。私は統合失調症という精神病を患っている40代半ばの中年男性です。これから私はこの病にかかった体験談を語りたいと思います。何故ならこの病のため、未だに私は一般の同年代の男女が当然のように行なっている生産活動を行なえずにいるからです。こうして私の体験を文章に残そうと思うのはただこの不全感に対処するためと言っても過言ではありません。自分の人生は精神病によってかなり成功の確率が制限されたけど、それでも私は誰かの役に立つことによって自分の人生にも意味があったと思いたいのです。こういう意図とは逆の結果を招いてしまうかも知れませんが、私に残された道はこれしかないと確信しています。この文章を読んで不快になったらごめんなさい。どうか許してください。
ブログの更新は新年になってからしようと思っていたのですが、思ったより早く充電が済んだので、明日(30日)から再開いたします。
47回にわたり、僕の統合失調症に関する体験談が続きますが、どうかお付き合いください。
それが済んだら、また以前のスタイルでやっていこうと思っています。
それから再びマーちゃんがブログのコメント欄に自分の体験談を書いてくれると思います。
それではよろしくお願いします。
僕のブログですが、しばらくお休みします。基本的に僕のブログは自己認識のプロセスの結果を公表することを目的に始めたものなのですが、一応これが達成できたからです。「現時点で書きたいことは全て書いた」という感じです。本当はすでに自己の体験談を47の記事に分けて保存してあるのですが、来年になったら順次UPしていきたいと思っています。とりあえずしばらくは今までとは違う生活を楽しもうと思っています。今まで僕のブログを読んでくれた人に感謝します。ありがとうございました。
僕は自分の子供がほしかった。
僕の子孫が後々まで地上にたくさん増えてくれたらいいのにと思っていた。
どれだけ自分が好きなのか?と思われるかもしれないが、僕にはそういう願望があった。
でも昔からこういう願望が僕の中にあったわけではない。
よく考えてみると、この願望は旧約聖書を読んでからのものだったのだ。
知らぬ間に僕は旧約聖書の思想の影響を深いところで受けていたのだ。
でも最近、僕はこの呪縛から逃れつつある。
そもそも子供は僕の遺伝子の半分しか受け継げないし、代を重ねれば、必然的に僕の遺伝子は薄まっていかざるを得ない。
どの道、僕の遺伝子など残せないのだ。
それに遺伝子を残すことが大切なら、僕の遺伝子と重なる遺伝子を持った人たちは五万といるだろうし、それほど深刻になる必要はないのではないかと思い始めている。
ここに来て、地球に生き残るのは僕や僕の子孫でなくてもいいと思える。
そう思えるようになって少し楽になった。
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空も、海も、大地も
泣かないし、笑わないし、怒りもしない
お前がいなければ世界は空虚
真偽も、善悪も、美醜も無い
この世界に意味を与えるのはお前
憎む、愛する
どちらも同根
それについて神は否定しない
でも世界が意味を与えてくれと頼んだわけではない
人は虚無に耐えられないからいろいろやってみただけの話
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若い頃はヌード写真を見るだけですごく興奮した。
でも最近の僕は昔ほど興奮しなくなった。写真から受ける印象はみんな何となく同じで、顔も体も目に焼きつかないので、覚えるのが難しい。
そういうものに関心がなくなってきたのは生身の女性と付き合ったからだと思う。女性に対する幻想が薄れたからだとも思う。
声が聴きたい。微笑んでほしい。キスした。怒られた。泣かれた。抱き合った。いい加減にしろよ!といらだった。独り占めにしたいと思った。自由意志で僕だけを愛してほしいと思った。
旧約聖書の最初の女性であるハヴァとは命という意味であるが、彼女もそんな感じであった。心は、病んでいたが、生きていた。
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真理は太陽だとすると、自分は種だと思う。
そして喜びは花で、真実は果実だと思う。
全ての人間には真理を求めようとする性質が生まれつき備わっていると思う。
しかし現実の人生は真理から程遠く、求めれば求めるほど挫折する運命にある。
それにもかかわらず人間は、一時的にネガティブな感情を抱いたとしても、本性に従い再び歩き出す。
そして己の弱さを克服したことが喜びになり、努力の結果が真実として残るのだろう。
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生きている間のことだけ考えて、その後のことを考えずにいられる君は強い。
その後のことを考えてしまい、虚無に捕らわれ、気がふれそうになっている僕は弱い。
だから僕は神さまに救ってもらうしかない。
まるごと愛してもらうしかない。
決して僕が神さまを「所有」するのではなく。
その実感が是非とも必要だ。
過去の日記にこんなことが書いてあった。
今日はいい日だった。
今日が昨日になってもこの気持ちは残るだろうか。
こんないい日にはそうそう恵まれるものじゃない。
今日はもうすぐ終わる。
でもこの思いは一生残したい。
ここに書かれているようなことは今、「感覚的」には薄れてしまって、ほとんど思い出せない。僕は文字にすることによって新鮮な感じを留めて置こうと企てたのだが、失敗だったようだ。
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若い頃の僕は他人の助けをあてにするような人に対して、どうしてそうなる前にもっと努力しなかったのかと冷ややかな態度を取っていました。
だから僕は能力を付けたかったのでしょう。
だけどそういう意識の根底には他人に対する恐れと不信感があります。
言い換えれば、僕が能力を付けたかったのは、純粋にそうすることが喜びだったからではありませんでした。
現代人は他人に迷惑をかけてはいけないと言いつつ、孤立感を深めていくけど、その点では僕も同じようなものでした。
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①「他人」を切り捨てることは、「自分」を切り捨てること。
②「他人」を大切にすることは、「自分」を大切にすること。
③「自分」を切り捨てることは、「他人」を切り捨てること。
④「自分」を大切にすることは、「他人」を大切にすること。
だと基本的には思うのだけど、それではお互い駄目になってしまうような時もあるのかな。
とにかく自我を確立するために他者を必要とするところに人間の難しさがあるよね。
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お釈迦様の教えによると、人間は声聞(しょうもん)型・菩薩(ぼさつ)型・縁覚(えんがく)型の三つのタイプに分けられるそうです。
そして教育を施す時には各々違った乗り物に乗せなければならないと説いたそうです。
声聞型は、いわゆる、優等生タイプ。
菩薩型は、学問はできないけれど、人助けをするタイプ。
縁覚型は、師匠の言うことが聞けない、創造タイプだそうです。
でも僕は現代日本の教育現場では一人ひとりの生徒に対して適切な指導などできていないと思います。
現場の先生だけを責めているのではないのです。
そうではなくて教育システムが何とかならないものかと憂えているのです。
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幻聴でも夜空の月が僕に語りかけてくれたことは一度もなかった
1991年の10月下旬、世界中に僕の声が響き渡った時でさえも
月は何も言ってくれなかった
無言の月
冷たい月
アポロ11号が月面着陸したのがいけなかったのかな
それにしても「ここかー諸悪の根源はー」という幻聴は何を指しているのか
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