そこは「ここではない」という形で体験されうるのに対して、ここを「そこではない」ような場所として体験することは困難である(ここでは便宜上、あそこやかなたなどの遠距離の規定もそこに含めておく)。
ここから出発してそこを規定することはできても、そこから出発してここを規定することはできない、という非対称性については、一つの円を思い浮かべて、ここをその円の中心に置き、そこを中心以外の箇所に置いてみるとすぐ理解できる。
円の中心は、それのまわりに円が形成されるところの、つまりそれがなければ円が円として可能にはならないところの、しかも一つの円についてはたった一つしかありえないところの、きわめて特権的な源泉点である。
これに対して中心以外の点はすべて、それが「中心でない」ということに関しては平等であり、非特権的であり、その意味では交換可能である。
つまり、円の中心として表象されたここの特権性は、もっぱらその源泉点としての唯一性・交換不可能性にある。
この唯一性・交換不可能性はここのポジティヴな本質規定として絶対に欠かすことのできないものであって(これが欠けると、ここは多くのそこの一つになってしまう)、もしここを「そこでない」という仕方で規定しようとすると、このポジティヴな本質規定が欠落してしまう。
これに対して、そこはむしろこのポジティヴな規定を欠いていることをもってその本質としているのだから、「ここでない」という形で十全に規定されうるのである。
以上、木村敏著『分裂病と他者』から抜粋。
う~ん、この文章のおかげで僕が超人を目指していた頃を思い出しました。
当時、僕は狂っていたのだけど、どこが変だったのかよく分かりました。
あの頃、もし誰かに「超人とは何か」と訊かれたら「普通の人を超えた人」と答えたでしょうが、さらに「普通を超えるとはどういうことか」と訊かれたら「普通ではない人になること」と答えただろうからです(それにしても普通って何だ!)。
要するに僕は他者を基準にして(ひねくれた形で)自己を規定しようとしていたのです(証拠をいくら集めても同じこと)。
別の言い方をすれば、僕には本心からなりたいものが何一つなかったのです。
だから、具体的な職業選択にも苦労することになったのです。
でも、遅まきながらこのことに気づけて良かった。
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