人間もどきの世界観

ほんととつもりのクロスオーバー人生。救いは妄想でも他者のために死に物狂いになったこと。

呪い

2010年06月30日 07時15分34秒 | インポート

 僕は小学四年生の頃、初めて自覚的に人を呪いました。相手は三十代半ば位の男でした。

 なぜ僕がこの男を呪ったかと言うと、この男が僕の母を傷つけたからです。

 僕はなぜか歯医者には母と一緒に東京の代々木病院まで通っていたのですが、そこから帰宅するために乗った電車内でいきなり彼は僕と会話している母の足を蹴っ飛ばしたのです。母は彼に何も悪いことはしていないのに「すみません」と謝り(そうしたら即座に彼は「いいえー!」と目を閉じて返事しました)、かぶさるようにして僕を彼から離れた所に移動させました。

 その時の彼の嬉しそうな挙動から僕ははっきり彼に異常性を認めました。だけどなぜ彼があのようなことをしたのかいまだに分かりません。

 とにかく自宅に戻り、母の足にくっきり残っていた紫色の大きな痣(アザ)を見て、僕は怒りで気が狂いそうになりました。そしてそれから何週間も彼の顔を思い出しては苦しみました。

 人を恨むと自分の精神が蝕(むしば)まれていくという自覚があったからこそそれを解決しようとしたと思うのですが、そのための方法が当時の僕には「仕返し」しか思いつきませんでした。でも仕返すといっても相手は目の前にいない。だから呪った。当時の僕が「呪い」という言葉を知っていたかというと定かでないのですが、あれは確かに呪いです。

 僕は家族には自分の暗い一面を見られたくなかったので一人になった時だけ隠れて呪いました。「神さま(ただし、キリスト教の神ではない)、僕は何々を我慢しますから代わりにあいつを殺してください!」というふうに。

 それから十数年後、統合失調症になった時も僕は多くの人を呪いましたが、質的にはこの時と全く変わりがありませんでした。

 要するに僕が何を言いたいかと言うと、この点に関して僕の精神は全く成長していなかったということです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (27)
この記事をはてなブックマークに追加

獣(けだもの)

2010年06月29日 07時14分18秒 | インポート

 僕は大学生の時聴いた保健体育のW講師の話が今でも忘れられません。

 どういうものだったかと言うと、彼がドイツ(東ドイツだったと思う)のホームステイ先のポテト料理を「おいしい」と言ったらそれ以来毎回同じポテト料理ばかりを(しかも大量に)出されて困ったという話です。

 僕はこの話を聴いて戦慄しました。善意なのか、悪意なのか、人種差別なのか、単に神経が鈍いだけなのか、それとも経済的に余裕がないのか、怠惰なのか、はっきり特定できないけど恐ろしい話です。

 普通の日本人の感覚で言えば、相手にその料理を「おいしい」と言われたからといって次回もその料理を作ってくれと頼んでいるわけではないことぐらい分かると思うのですが、彼らにとってはそうではないのでしょうか。そうだとしたらうっかり「おいしい」などと言えなくなってしまう。考えただけでそんな生活は窮屈だし、不自然だし、息が詰まりそうになります。

 W講師もさすがに耐え切れなくなり相手に対して文句を言ったらケンカになったそうです。当時の僕には何となく白色人種に対するコンプレックスがあったので僕はW講師の勇気に感心させられました。

 日本人は繊細な美意識を大切にしてきた民族です。これをグローバル社会の中で尚、保ち続けるにはどうしたらよいか。こういう問題意識を持つことは日本人にとって悪いことではないと思います。

 強い人間が肯定されるのは彼がより多くの価値を守ることができるに違いないと見做されるからです。そして価値とは多分に精神的なものです。守るべき価値もなく、ただ強さばかり求める人間は「獣(けだもの)」になっていくと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (22)
この記事をはてなブックマークに追加

創造と破壊について

2010年06月28日 08時02分44秒 | インポート

 何かを創造したいという人の中にとにかく既存のもの(者、物)や価値観を破壊しなければならないと「思考」する人がいます。そして古いと決め付けてそれらを否定しようとするのです。

 でもそういうやり方ははっきり言って間違っていると思います。既存のものや価値観だって何らかの正当性を持っているからこそ支持されていると思うからです。

 だから本当に何かを創造したいのならまず「観察」しなければならないと思います。観察の対象は外なる世界(他者)だけでなく、内なる世界(自己)も含みます。他者とは宇宙、自然、植物、動物、社会、他人、死者などです。自己とは自己意識、心の皺(しわ)から推測される無意識、記憶などです。

 そうしているうちに物事のメリットとデメリット、意味や役割を「認識」できるようになると思います。そしてそれが「理解」につながるのだと思います。

 いくら思考に思考を重ねても(ただ前の思考を否定して別の思考で置き換えるという試みを積み重ねても)妄想に陥っていくだけだと思います。

この文章で僕が強調しておきたいことは二つあります。一つは「破壊の後に創造が来るのではない」ということ、「創造が人によっては破壊に映るだけ」ということ、つまり「創造と破壊は同じ一つのもの」ということ、そういう意味で「創造イコール破壊」ということです。そしてもう一つは「人間には無から有は創り出せない」ということ、「人間にできることは与えられていたことに気づいていくことだけ」ということです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (24)
この記事をはてなブックマークに追加

保険

2010年06月27日 08時14分33秒 | インポート

 僕は35歳位の時、主治医のY先生に「治療は終わった」と告げられたのですが、いまだに抗精神病薬を服用しています。

 だけど最近僕には僕の精神的な問題は解決したという自覚が生まれたので先生に「リスパダールを3錠から2錠に減らしてもらえないか」と要求したのです。

 でもそうしたら先生から「保険のために飲んでおいて」と言われてしまったのです。そして僕はその「保険」という言葉に引っ掛かってしまいました。先生は誠実な人柄だから悪気はないことは分かるのです(たぶん確実なことの保証という意味で使ったのでしょう)が、保険という言葉がずっと僕の中に残ってしまいました。

 ちなみに僕の父は保険屋でした。

保険について言うと、僕は一体人間の精神はそんなもので守ることができるのかと疑ってしまうのです。せいぜい気休め程度にしかならないと思っているのです。またそれでよしとすることによって必要な労を惜しむ怠惰さを感じるのです。さらにまた保険では遅いのです。保険が実際に僕を守るのは僕がダメになってからだからです。しかも一時的で不十分です。

 別の角度からも見てみます。

 一つの狂いも許さない、誰も狂わせないという社会は理想的でしょうか。僕はそうは思いません。むしろ脅迫的なものを感じます。

それより狂ってもいい、その代わり与えた損失は償わせるという狂いを許容する社会のほうが人間の精神のためには好ましいと思います。ベースに信頼関係があるからです。そもそも保険はそういうことが前提の社会で生まれたのではないでしょうか。

 でも保険のために薬を飲むというのは前者の社会と同じ発想だと思います。

 「先生、薬を飲むことを保険にたとえるのは誤解を招きやすいので止めたほうがいいのではないかな?それでは一体誰のための保険なのかと考えてしまいます」。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (27)
この記事をはてなブックマークに追加

シャローム

2010年06月26日 07時24分35秒 | インポート

 ほんのちょっとの勘違いが人間をとてつもなく苦しめるのです。

現代の日本人(特に男性)が気づかなければならないことは「人間は強いから安定するわけではない」ということだと思います。

人間という者は自分が独りではない、他の多くの者とつながっていたのだという認識を持てた時初めて本当に安定するのだと思います。そしてそれから未来を夢見ることができるのだと思います。

「他の多くの者」とは宇宙、地球、自然、植物、動物、人間、記憶のことです。

だから「強さ」はどんなことがあっても関係を保ち続けるという所で発揮されるのでなければならないと思います。

強くなるために鈍くなってはいけないと思います。

鈍い人も確かに安定はしていますが、それはたまたまその人が生きている環境がその人に適合しているというだけのことに過ぎません。

だから環境が変わればそういう人はあっけなく淘汰されると思います。

またそういう人は環境に適応しようと毎日四苦八苦している人の気持ちが理解できないものです。そういう人の美質を発見し、認識することができないからです。だから共感も湧かないのです。その鈍さが周囲の人たちを傷つけるだけで精神は全く鍛えられません。

一人ひとりが一人じゃない。夜空に輝いている星はつながって星座になります。真の連帯とはそういうものだと思います。

しなやかにいた方がいい。柔軟に生きていこう。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加

天使の羽

2010年06月25日 08時08分05秒 | インポート

 その日は雨が降っていて校庭で体育の授業ができなかったため、教室で保健体育の授業を受けていたというような記憶が僕の中にうっすらと残っています。

そして人間のタイプを気質で分類して説明している箇所が教科書をペラペラと開いてみた僕の目に留まったので、僕は興味を持ってそこを読んでみたのです。

 正直言って、当時の僕の理解力では内容が難し過ぎて完全には理解できなかったのですが、その記述から僕になんとなく伝わってきたことは「人間には救いがない」という感じでした。

分裂気質の箇所を読んでみても、循環気質の箇所を読んでみても、癲癇気質の箇所を読んでみても、なんか出口が見つからないのです。

外が暗かったから教室には蛍光灯がついていたのですが、なんとなく薄暗いなと感じたり、その場に居続けることに苦痛を感じたりしました。いつの間にか僕は一人周りから浮き上がってしまったように感じられて落ち着かなくなってしまったからです。

その頃の僕は「イエス・キリスト」とか「十字架」とか「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」などという言葉は知っていたのですが、まだキリスト教の本質とはどのようなものかということを全くと言っていいほど理解していませんでした。

ただ「天使」という言葉はなんかほんわかしたイメージを持って使っていました。

そしてそれまで僕は自己認識が甘かったから漠然と天使みたいになれたらいいなと思っていたのです。

気質の分類は僕にそういうことを気づかせると同時に抵抗感も覚えさせたのでした。それは僕の心を地面に縛りつけて飛べなくしようとしたような感じでした。要するに僕はそれに対して悪意を認めたのです。

あれから30年経ちました。カトリック教会の小冊子に載っている天使は外見が人間とほとんど同じに描かれています。違うのは背中に羽がついていることだけです。それは僕に結局人間は形を超えたものを表現するのにも形(世界にあらかじめ存在している材料)を使用しなければならないことを教えます。

天使。それは人間と共通点を持ちながらも少しだけ人間より自由な存在。人間に羽をつけて表現した。今よりもう少し良くなりたい。良くなれそうな気がする。天使の羽、それは人間の淡い願望。

自分にないものは信じられない。人間とはそういうものなのでした。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (20)
この記事をはてなブックマークに追加

許し 2

2010年06月24日 08時20分40秒 | インポート

 僕をアルバイトで使ってくれた社長は「人間は基本的に許せないものだ」とおっしゃっていました。正直な意見だと思います。

 「全ての人間は平等である」という観念はすばらしいものですが、それには一つ落とし穴があります。平等という意識があるから、自分を貶(おとし)めた相手を許せなくなって、憎んだり恨んだりしてしまうということです。

 それはその人が幼稚な自己愛の持ち主であることを証明しているのですが、本人がそのことに気づくには独りで生きていては難しいでしょう。ちなみに僕も人生という旅の途中で彷徨(さまよ)っている未熟者です。

 人というものは己の意志の力だけでは他者を許せるものではないと思います。他者を知ったり、自分も他者と同じ弱みを持っていることを自覚できたりしなければ許せるものではないと思います。他者の痛みを理解できないからです。がんばっている人の多くが他者に不寛容なのはそのためだと思います。

だから僕には現代の日本人は強くなろうと能力をつけていくだけでなく、他者を知ったり、己の弱さを自覚していったりすることも必要だと思われるのです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (20)
この記事をはてなブックマークに追加

花と女性

2010年06月23日 08時44分43秒 | インポート

 僕と母はこの頃時々二人で公園の中を散歩します。そしてその時彼女は道端に咲いている花を「わぁーきれい!」とか言って嬉しそうに摘みます。

 それを見て僕は「可哀相だから止めろ」と言ってやるのですが、彼女は止めようとしません。僕としては花だって生き物だからその生命を絶ってはいけないという論理で彼女を責めるのですが、どうやら彼女は別の論理(?)で生きているらしいのです。

 でも今の僕には彼女の気持ちがなんとなく分かるのです。

 数年前のある日、アルバイトの帰り道で僕の心は道端に咲いていたたくさんの小さな赤い花(後でサルビアと知る)に引きつけられてしまいました。そして僕は花に対して心から関心を持ったのです。心から。この赤い花たちは誰に見せようとして色づいているのだろうと。

 花は植物の生殖器ですが、単に生殖目的ならあんなに美しい色形やいい匂いは必要ないはずです。花には眼や鼻がないのですから。

 そういう認識から僕の妄想かもしれませんが、僕には次のように思われるのです。花にとっての幸せは人に自分の存在を認めてもらうことではないのか。どうしても自分のものにしたいと人に思わせるほどにと。

 摘まれたらその花の生命は終わるけど、僕には花にとってはその存在価値を認められたのなら満足して死ねるのではないかと思われるのです。

 花を女性が男性よりも愛するのはその価値を男性よりも認めてしまうからではないのか。認めてやるのではなくて認めてしまうのではないか。

 そういう思いもあるから、僕はこの問題について善悪で裁いてはいけないのではないかとも思ってしまうのです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (23)
この記事をはてなブックマークに追加

タレント(才能)

2010年06月22日 08時15分31秒 | インポート

 僕がカトリック教会の障害者の集いに通い始めた頃の話。

 みんなで仕事について話していた時、僕が不用意に「障害者が働けないのはしょうがないよね」と言ったら、神父さんに「そんなことはありません」とはっきり否定されてしまいました。

 それに対して僕はよく分かっていないのに慌てて自分の意見を誤魔化して引っ込めました。

 そしてそういう自分を情けないと思いつつ、後で何故そう言われたのか考えてみました。

 イエスはよく弟子たちに譬(たとえ)を用いて教えを語りました。その一つに「タラントンの譬」があります。どういう話かというと、これから旅に出ようとする主人が自分自身の僕(しもべ)たちを呼んで財産を預けます。主人は、僕のおのおのの能力に応じて、ある者には5タラントン(貨幣の単位)、ある者には2タラントン、ある者には1タラントンを預け旅に出ました。そして主人が旅に出ている間、5タラントンを与えられた僕はそれを使って働きほかに5タラントンを儲け、2タラントンを与えられた僕はそれを使って働きほかに2タラントンを儲けて、旅から帰ってきて清算を求めた主人に褒められます。しかし預かった1タラントンを失うことを恐れ、地中に埋めておいたためにまったく儲けることのなかった僕は叱られるという話です。

僕は神父さんの発言の裏にはこの譬があったのだと推測するのですがどうでしょうか。

イエスの説く神は障害のあるなしで人を差別したりしません。そうではなく、与えられた能力や環境でその人がどれだけ一生懸命生きているかということを評価します。つまり統合失調症にかかったからダメ人間などとはしません。統合失調症にかかったとしてもどれだけ自分の能力を開花させることができたかを評価してくれるのです。なんともありがたいことです。

最近、僕は自分が精神障害者になって良かったと思います。障害のない人生は克服するものがないから意味も生まれないし、つまらない。なんでも自分の思いのままになったらかえって不幸になるだろう。ある程度の制限がある環境に置かれた方が自己を成長させるには好ましい。制限のある中でよりよく生きようと工夫しながら生きることに喜びも楽しみもあるということを知ったからです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (17)
この記事をはてなブックマークに追加

矛盾

2010年06月21日 08時23分26秒 | インポート

ある精神科医が精神病者のことを「矛盾に耐える力がない人」のように説明していました。

 だけど僕はそれを読んで不愉快になりました。

なぜならそういう表現をすると健常者とはいかにも矛盾に耐えて生きている人のように思わせるけど僕は彼らが本当に矛盾に耐えて生きているのであろうかと疑っているからです。

 僕にはむしろ健常者といわれる人たちの多くは幸運(?)なことに矛盾を抱え込まずに済んでいるだけなのではないかと思われるのです。

 生きることは殺すこと。「愛は地球を救う」といいますが、地球を壊すのもまた愛ゆえ(愛する人を守りたい。より良い生活をさせたい)ではないのか。いったい人間の精神性は進歩しているのか退化しているのか。

 僕にはみんながそういうことを立ち止まってゆっくり考えまいとして自分の仕事や娯楽に没頭しているような気がするのです。忙しいうちは目の前にある問題にだけ集中でき、自己の正当性を揺さぶられるようなことは考えずに済むからです。そして現代人はそういうふうに逃げたり誤魔化したりしているうちに立ち止まることさえもできなくなっているような気がするのです。

 人間はとてもエゴイスティック(利己的)な生き物です。人間が生きるということはエゴ(自我)を拡大するということです。強くならなければ生きていけないという現実が厳然としてあるから仕方ありません。

だけど人間はエゴを拡大していくだけでは満たされない、自分以外のものに自分を与えようとする(自己犠牲の精神も満たしたくなる)生き物でもあります。なぜなら人間は自分以外の他者と本気で交わりたいという願望も持つ生き物だからです。

だから仕事で作り笑いをし続けることができなくなるのはその人の劣等性を証明しているのでは全然なく、むしろその人が真実に生きたいという願望を持っていることを証明しているので僕には喜ばしいことに思われるのです。

 ところでこういうエゴと自己犠牲の精神を持つ人間はいかにも精神が分裂しているように見えますが、これは人間を観念的に捉えようとすることに原因があると思います。

 どういうことかというと、そういう捉え方をするとエゴと自己犠牲の精神がその人の意識の表面に同時に表れているように思ってしまうからです。

 だけど本当はエゴと自己犠牲の精神は意識の表面に同時には表れないのです(表れそうになっている人は統合失調症を疑ってください)。欲しがることも与えることもいったん止めてニュートラル(中立)の立場に立てた時分かるのですが、エゴを拡大している時は意識の表面にはエゴだけ、それが極まって反転すると自己犠牲の精神が裏から表に表れるということなのだと思います。そして自己犠牲の精神も極まると反転してエゴが表れる。それを繰り返し続ける。

 こういう人間の精神の仕掛けによって人間は自己の正当性を検証してきたのだと思います。

人間は特別な訓練でもしない限り、無為で居つづけることはできないと思います。すぐに自分の正当性が疑わしく思われてくるからです。そして何かをせずにはいられなくなります。「何にもしない」ということも「する」という選択の一つです。

いや、というか人間は生きているうちは何かをしているのです。自分は透明な存在になったつもりでいても、自分が気づかないだけで、自分の体は生まれてこの方活動し続けています。人間もまた生き物(イキモノ)なのでした。

何故こんな回り道をしなければならないのか。人間には精神があるからです。

 人間はこの厄介なものを何とかして生きていかなければならない宿命があるのだと思います。

だけどエゴか自己犠牲の精神かどちらか一方に徹しきれないからといって自分を責める必要など全くなかったのです。どちらも取ろうとしていいのでした。

全てはこの世界で生き延びるために備わったのだと思います。そのことに気づけば、生きるのがかなり楽になると思います。

 当たり前かもしれませんが、ありのままに生きているという実感は自分を肯定できない人には湧かないと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (26)
この記事をはてなブックマークに追加

性の抑圧

2010年06月20日 08時28分40秒 | インポート

 僕は一度だけ風俗店なるものに入ったことがあります。そこは覗き専門の店でした。

 あれは僕が25歳の時、三浪して入学した大学の卒業式があった日の夜のことでした。僕は大学の友人たちと一緒に居酒屋や新宿の高層ビル内のレストランで見たことも聞いたこともない銘柄の酒を数種類飲んだ後、歌舞伎町のその店にふらっと入ったのです。

 僕は極度の恥ずかしがり屋で(高校生の頃など自宅の風呂に入る時でさえ鍵を閉めタオルを巻いていた)売春婦に自分の裸を晒すことには強い抵抗感がありましたが、覗き部屋なら服を脱ぐ必要はないのでその心配はないと思ったのです。エロ本を見るような調子でその店に入ったのです。

 個室に入ると窓越しに中心の部屋を見ることができるようになっていました。中心の部屋は円筒形をしていてその周りに窓が張り巡らされていました。窓はマジックミラーになっていて、こちらからは相手を見ることができるけど、相手からはこちらを見ることができないようになっていました。個室には安っぽい椅子とティッシュペーパーとおしぼりとゴミ箱が備えてありました。そして女性が中心の部屋に入ってきて服を脱ぎ彼女の裸を見せるというサービスでした。

 僕はそれを見て興奮しました。だけど同時に彼女はこの仕事を好き好んでしているのだろうか?とか彼女の両親はこのことを承知しているのだろうか?とか余計なことを考えてしまいました。彼女から受ける印象があまりにも暗いのでそんなことを考えてしまったのかも知れません。

 また彼女が近づくにつれ、そんなはずはないのだけど、彼女に欲情している自分を見られているような恥ずかしさに包まれ僕の気持ちは萎えてしまいました。

 結局射精できず時間が来たので不完全燃焼のまま外へ出ました。僕が友人たちにそのことを話すと彼らもそのようでした。

 これが僕の唯一の風俗体験です。

そしてこれから約七ヶ月後、僕は統合失調症の急性期に陥ります。

今になって思うのですが、僕の統合失調症の原因の一つに性の抑圧が絡んでいたことは間違いありません。僕が(被害・恋愛・誇大)妄想を逞しくしたのは生身の女性相手に性欲を満たすことを許してこなかったことが大きいと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

勇者

2010年06月19日 08時12分54秒 | インポート

 僕は大学生の時、聖書を原文で読めたらいいなと思って『ヘブライ語入門』という本を買って読んでみましたが、難しくて途中で挫折してしまいました。

 それでも分かる箇所だけでも覚えておこうと思っていくつかの言葉を覚えておきました。

 それはどのような言葉かというと【賢者とはどのような者か。全ての人から学ぶ者である】とか【勇者とはどのような者か。自分の衝動を克服する者である】とか【富者とはどのような者か。自分の分け前に満足する者である】とかです。

 後で調べたらこれらはミシュナのアヴォートという篇の四章一節の言葉でした。ミシュナとは二世紀末にラビ・ユダ・ハナシーがそれまで伝承されてきた口伝律法集から宗教生活に関するものを六篇に編纂した教典で後にタルムード(ユダヤ教口伝律法の総称。生活・宗教・道徳に関する律法の集大成)の基となったものです。

 僕は大学の受験科目に世界史を選択していたのでユダヤ人が「選民思想」を持ってきたことは知っていたのですが、彼らの優秀さも認めてしまったので、彼らから吸収できるものは吸収してやろうと思ったのです。

 僕が自分を脅したり、あざけったり、非難したりする幻聴に6年間耐えたのはユダヤの言葉を知っていたことが大きいです。ただしそれは僕の宗教妄想を発展させもしましたが。これは僕が未熟だったからです。

 ところで普通の人は他人から悪口を言われたら自分も言い返しますよね。僕もそれがその場限りで終わるなら「目には目を、歯には歯を」の同害報復(タリオ)の原理に適うし健全な反応だと思います。

 だけどそういう争いはだんだんエスカレートしていくものです。なぜなら自分が敵視している相手がだんだん脅威に感じられてくるからです。自分が相手に向けている敵意以上の敵意を相手が自分に向けてくるに違いないと思い込んでしまうからです。普通イマジネーション(想像力)はよい意味で使われることが多いのですが、それが己の恐怖心と結びついた時は悪い結果を招きやすくなります。

 そういうことを知っていたからユダヤ人は勇者を自分の衝動を克服する者であると定義したのだと思います。

 今の日本社会は何かをすることばかり評価するようになってきましたが、僕はユダヤ人から余計なことはしないほうがかえって平和をもたらすということを学んだのです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (13)
この記事をはてなブックマークに追加

結婚と人間の本質との関係

2010年06月18日 08時09分10秒 | インポート

 人は何故結婚するのでしょうか。そして何故家族を形成するのでしょうか。この世には何十億という男と女が存在しているのに何故結婚などという不自由な制度が維持されてきたのでしょうか。結婚という制度は人間の本質とどのように係わり合っているのでしょうか。

 現在人間は生物界に君臨しています。それは人間の欲望が強かったためだと思います。

 だけど欲望とは不足を満たそうとする心ですから、いつも欲望に捕らわれている人間は見方によるといつも不十分な存在者(弱者)とも言えると思います。

 そして人間は一人では自己肯定感をもてない生き物なのだとも思います。究極的には神という絶対的な身元保証人(?)を必要とするようになります。

 だから人間にとって耐えられないほど辛いことの一つが自分の愛する対象であると同時に自分を愛してくれる対象であるパートナーを喪失するということになるのでしょう。

 対象を喪失するということはパートナーの死によるものだけで起こるとは限りません。パートナーがそれまで自分が知っていると思っていた人間ではなくなるというようなことも含まれます。具体的には認知症になるとか浮気をされることです。

 ここでは浮気について述べます。

人間関係を維持するためには信頼関係が必要となりますが、逆に言えば信頼関係がなければ人間関係も成り立ち難くなるということです。

 人を裏切ることがいつも悪いとは言いません。自分の目に裏切りと映ることもパートナーにとってはより真実と信じるもののために生きようとして行ったということもあるからです。

 でも僕は性的な裏切りだけは許せそうもありません。それが僕という人間を構成する大切な核を決定的に破壊するに違いないと思っているからです。そうなったらもはや僕はそのパートナーと別れるでしょう。そして愛情を注ぎ、注がれる新しい対象を探し求めることになると思います。僕は未熟者なのかもしれません。もっと広い心を持たなければいけないのかもしれません。

 だけど出来もしないのに出来ると思わせるのは罪つくりな(的をはずさせる)ことだとも思います。人は優しさから嘘をつくこともありますが、僕はなるべく自分の心を誤魔化したくないのです。

 だから自分も相手も生かしながら生きていくにはどうしたらよいのかと思案しているのです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (14)
この記事をはてなブックマークに追加

悪夢

2010年06月17日 07時28分37秒 | インポート

 僕が精神病院に入院中、看護婦さんたちに連れられて集団で近くの文化会館に入ったことがありました。そしてそこにあった一枚の知的障害者の絵の展覧会のポスターを見て僕は遠い昔の記憶を思い出しました。

 それは僕が幼稚園児の頃のことです。その頃、僕は毎晩のように悪夢ばかり見ていた時期がありました。茶色とか紫色が混ざり合いながら漂う汚くて混沌とした夢でした。目の前のポスターはまさにその夢と同じようでした。

それにしてもなぜ僕はあんな夢ばかり見ていたのでしょうか。僕は幼稚園でいやなことがあったわけでもなく(僕は幼稚園でいやなことをされたという記憶がありません)、むしろ毎日楽しかったのに、夜寝ると悪夢ばかり見ていました。

ところで以前、僕は子供の頃から家が最も心安らげる場所で好きだと述べましたが、夜、明かりが消えた家の中は怖かったです。階段の上から真っ暗な一階を見るのが当時の僕は死ぬほど怖かった。電灯をつけても怖かった。そして僕はその恐怖を小学生になってからも克服できずにいました。

でもある日、〈家の中が怖いのなら外ですればいいのだ!〉と閃いて、二階のベランダからおしっこをしました。明け方の広い空の下でするおしっこは言いようもない解放感があり、また大きな放物線を描きながら長い時間をかけて地面に落ちるおしっこを見るのは初めてだったせいか面白くて、とても気持ちが良かった。でも、少し視線を右にずらすと、不思議そうに僕のいる方向を見上げている裏の家のおばさんが目に入りました。〈ああ、僕のおしっこよ、頼むから早く止まってくれー〉。とても時間が長く感じられた恥ずかしい体験です。

中学生にもなると真夜中でも平気になるのですが、それは自分の心が成長したおかげでしょう。それは恐怖心を克服する精神力がついたからとも言えるし、危険なものと危険でないものの区別がついてきたからとも言えるでしょう。

これからさらに心が成長すればするほど恐怖心は少なくなっていくのでしょうか。恐怖心は生きていくために必要だから残っているのでしょうが、それに支配されてしまうと幸せは感じられないので、ほどほどにしておきたいものです。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (9)
この記事をはてなブックマークに追加

感情表出

2010年06月16日 07時53分17秒 | インポート

 統合失調症の寛解期にある僕ですが、今でも時々「死にたい」とつぶやいてしまうことがあります。だけど本当に辛くてどうしようもなくてそう言うのではなくて、昔の口癖が残っているようなのです。だからその言葉を発する時僕は平然としています。そばに母がいるときも同じです。そして母も平然としています。

 だけど何年か前に母は僕が「死にたい」と言ったら「バイ、バイ」と手を振りました。そして僕はそれを見て無性に腹が立ちました。母はすぐに謝りましたが、僕の怒りはなかなか収まりませんでした。

 しばらくたって、なぜあんなに腹が立ったのか振り返って考えてみました。そして僕はあることに気がつきました。僕は母と僕が母のお腹にいる頃からずっと一緒に暮らしてきましたが、それまで僕は母から「死ね」という言葉を言われた記憶が一回もなかったのです。父からは僕が子供の頃から「死ね!」とか「死んじゃえ!」と何度も言われたことがありましたが(声の調子まで覚えている)、母からそんな否定的な言葉を浴びせられたことは一回もなかったのです。母から言われた否定的な言葉で僕が覚えているのは「お前なんかうちの子じゃない!」とか「うちから出て行け!」くらいのものです。

 よくよく考えてみると、これはすごいことなのではないか?僕なんかこれまで母に「死ね!」とか「くそばばぁ!」という否定的な言葉を何度言ったか知れないほど言ってきたのに。

 母に確認してみたらどうやら母は「死ね」という否定的な言葉を意識的に使わなかったようなのです。僕は母を見直してしまいました。

 感情表出が高い家族の下では統合失調症が治りにくいというデータがありますが、本当だと思います。

 僕の病が寛解したのは母が何かをするだけでなく何かをしなかったことも大きいと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント (3)
この記事をはてなブックマークに追加