プシコの架空世界

ホレホレ触るとはじけるゾ。
理性がなければ狂いません(妄想の形成にも理性の助けがいる)。

カミングアウト

2010年04月30日 06時50分22秒 | インポート

 先日、僕は教会の聖書研究会で『マルコによる福音書』一章四〇節から四五節を勉強しました。そこはイエスが重い皮膚病(ハンセン病)を患っている人を清めるという話なのですが、今回はそこで僕が気づかされたことを述べたいと思います。

 僕が気になったのはイエスがその人の病気を治した後の四三節と四四節です。

 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献(ささ)げて、人々に証明しなさい。」

 なぜイエスは自分が行ったわざを口止めしたのだろう?

 それはイエスの謙遜のためだと思うとか、イエスは人々が彼の奇跡ばかりを求めて近づいてくるのを危惧したのではないかとかいう意見や敵対する勢力の妬みを危惧したのではないかという意見がありました。

 またなぜ、重い皮膚病を患った人が、イエスに口止めされたにもかかわらず、大いにこの出来事(言葉)を人々に告げ、言い広め始めたかという疑問もありました。

 それに対しては、人というものは秘密にしておいてと言われたことほど言いふらしたくなるものだとか、よほど病気を治してもらったことが嬉しかったのだろうとかいう意見がありました。

 そして僕はこれらの意見に納得して家に帰ってきたのですが、しばらくして一つのことが頭に浮かんできました。

 それは重い皮膚病を患っていた人のその後のことです。聖書には書かれていませんが、この人のその後が気になりました。

 この人の病気は治りました。しかし、彼は彼の所属していた社会に無事復帰し、めでたし、めでたしで終わったのでしょうか?僕はそう簡単にはいかないのではないかと思ってしまうのです。この人はイエスの厳しい注意を破り自分に起こったことを他人に話したことにより、今は治っているとはいえ、過去に重い皮膚病を患っていたことを知られてしまったわけです。

 本人は、かつて人に忌み嫌われている病気に罹っていたとはいえ、今はもう治ったのだからいいではないかと思っているとしましょう。でもそれを受ける周囲の人々も同じように思うとは限りません。他人にはあの人は人に忌み嫌われている病気に罹っていたのだという偏見を与えるのではないでしょうか?

 そしてそれを知ったら彼は傷つくのではないでしょうか?それでも彼の傷は彼が彼を知る人々の中で生きる限り残り続けるのです。

 聖書には書いてありませんがイエスはそのことを知っていたのだと僕は思いました。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の途中で

2010年04月29日 12時31分36秒 | インポート

 僕が精神科に通院するようになってから今年2003年の11月で12年になります。この間いろいろなことがありましたが、今の僕は統合失調症になったことを恥じても悔いてもいません。僕たちはただ常識という幻から醒めるのが早かっただけのこと、そしてそれゆえに虚無に捕われただけのことだと思っています。

 常識とは人間同士が生活する上でなるべく傷つかないようにするために出来上がった知識だと思いますが、社会の常識と自分の価値観が対立した時摩擦が生じます。そしてそういう時たいていの人はごまかしたり逃げたり要するに妥協しますが、己のプライドにかけてそれができない人がいます。それが統合失調症者だと思っています。

 僕には日本社会の常識に従うか『出エジプト記』に登場するモーセが神に授与されたという十戒に従うかという葛藤が長い間ありました。

 でも社会は変わってくれない。人を不安にさせる虚無が立ち塞がります。その緊張を緩和させようと脳の中でドーパミンという神経伝達物質が流れるのですが、あまりにもその葛藤が続きすぎるとその分泌が過剰になり脳を興奮させ狂わせる(幻覚や妄想を生み出す)のだと思います。

 だけど僕はいつまでもそこに安住するつもりはありません。これから本当に自分を構築していくのです。

 毎日、自分に本当に必要なものを得て、不必要なものはどんどん捨てて生きよう。11年前僕は退院後復職しましたが続かず失職して本当に自分の未来に絶望しました。でも幸いなことにまだ自分自身には絶望していませんでした。僕は精神科医に「忘れなさい」と言われていたこともあって辛い出来事を忘れたかった。でもそれ以上に心のどこかで自分のことを本当に偏見なしに理解して欲しいと思っていました。それなくして忘れようにも忘れられないと思いました。過去を清算しなければ僕の未来はないと思いました。

 本当に理解されるためには自分に起こったことを本当に話さなければならない。本当のことを話すためには思い出さなければならないと思いました。

 そのため死にたくなったり恨んだりを繰り返しましたけどそういうごまかしのきかない努力をしているうちに他の誰でもない自分自身の物語ができていたのです。そしてそれは実際他者と本音で語り合ったり本を読んだりして強化されました。

 存在の根拠といえる自分自身を得た。これが僕の強みです。

 僕の父は生前、僕と弟に「自分がされてイヤだと思うことは他人に行うな」とよく言いました。また僕が所属している作業所のスタッフ(今は辞めてしまったのでいませんが)のMさんは僕に「自分の好きなことをしなさい」と言いました。僕はこの二つを心がけています。自分の責任を持って生きる。そこに自由があります。

 僕は完全な者になりたいです。完全な者とは欠点のない(隙のない)者とは違います。あらゆる隷属から解放された捕われのない境地に至った者を言います。

 人間は自覚的であろうとなかろうと欲深い生き物です。そしてその欲深さゆえにがんじがらめになる生き物です。そういう不自由さから離れた自然の法則にのっとった生き方を僕はしたいのです。

 僕は僕たちが個性的なものを追い求めるのは普遍に至るためでなくてはいけないと思います。

 一つ一つの小さな川が最後には海という一つの大きな場所に辿り着くように、人間というものは一人一人異なる人生を歩みますが、その道で真摯に生きていれば皆同じ真理に至ると思うからです。

 いつまで続くか分かりませんが、僕は命が尽きるまで精神的に向上したいと思っています。人がよりよく生きようとするのは、草木がお日様に向かって成長するのと同じくらい自然なことだと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人を恨まず、自分を見捨てず

2010年04月28日 09時47分29秒 | インポート

 「人を恨まず、自分を見捨てず」。父が生前、心を病んだ僕によく言っていた言葉です。でも僕は昔のイヤなことを思い出すとすぐに人を恨んでしまう。人を恨まないで生きられる人なんて本当にいるのだろうかと疑ったりしました。

 人をいくら恨んでも効果はありません。恨んでも相手はなんともありません。苦しいのは自分だけです。ばからしい。でもやめられません。ヒマな上に世間が狭い分、僕が思い出すのは同じようなことばかりでした。

 仕返しするわけにもいかないので「死にたい。死にたい」と言いながらも仕方なく耐えました。周囲の人たちのおかげもあって苦しみはいつかなくなるという希望は捨てずにすみました。

 そして今では生きるのが楽になってきました。

 時のおかげか本人の努力の成果かはっきり分かりませんが勝ちとか負けとかにあまりこだわらずに生きられるようになったおかげだと思います。

 ストレスの多い競争社会です。僕が病んだのはストレスのせいだと思います。氾濫する情報にふりまわされないためには自分の基準(自分なりの価値観)を持つことが大切だと思います。他人からどう見られるかより、自分が心底納得できる生き方が大切ということです。

 経験は大切です。そして疑問に思うことはいちいち納得するまで確認していくことが必要だと思います。自分は何にこだわっているのかを知っておくことは自分を知る上で大切だと思います。この世界で自分の人生を代わって生きてくれられる人は一人もいないのです。

 障害のおかげで僕は新しい価値観を持つ必要にせまられました。生産活動の優劣を人間の価値をはかる唯一の尺度とすると僕はどうしても劣ります。社会的弱者です。でも自分を弱者として認めてしまうと、どうしても劣等感にとらわれてしまいます。そして他人を恨んでしまいます。幸せではありません。自分を愛せないから他人も愛せません。孤独から抜けられません。同じ障害を持った人たちと共に生きる。けれども社会からの疎外感は残ります。

 家族の愛情が僕にとって一番の救いでした。そして僕はさらに僕が障害を持ちながら幸せになるためには恨みから負け惜しみの理論で武装するのではなく、法律上の権利に安住するのでもなく、真に障害者である自分を受け入れられるようにならなければいけないと思いました。僕は自己完結するのではなく他人と本音で話しました。宗教や哲学や思想の本をたくさん読んでみました。

 そして僕は社会生活における出来事の根底にあるものがおぼろげながら見えるようになりました。なぜ人間は当たり前のことが当たり前のようにできないのか。なぜ人間は理論的には完全に正しいと思われることが実行できないのかが分かってきました。

 僕は感情的な人は理性のコントロールがあまり効かない未成熟な人だと思っていました。でも僕はある日湧き上がってくる感情ほど本人にとって真実なことはないということに気がつきました。感情的な人は一般的に自分を偽れない人だったのです。そうと分かって僕は以前より感情的な人が苦手ではなくなりました。

 僕は社会についても楽観できるようになりました。大切なのは自分がよければよい(自分だけがよければよいとは違う)ということに思い至りました。社会から悪は取り除けない。社会から悪を隠してはいけない。

 僕は今年(2002年)で37歳。肉体の衰えを感じることも時々あります。でも精神的には生きるのが楽になってきました。父の「自分を見捨てず」を信じてきて良かったと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

希望

2010年04月27日 09時19分06秒 | インポート

 僕は「人生に計画を立てるな」という言葉が好きです。何をばかなことを言っているのだ。そんな言葉を真に受けたら人生めちゃくちゃになってしまうではないかと思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし慢性の精神病を患っていて、そもそも健常者と同じような未来を予測しづらい僕としてはとても励みになる言葉なのです。

 人間は未来を一次関数的(直線的)に予測する宿命があります。それは精神病者も同じです。そして自殺という不幸な結果を招くのもそれゆえだと僕は思います。

 「人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)」。幸いと不幸は互い違いに訪れ、何がどうなるかわからないものだというたとえですが、このような考えが僕たち精神病者には特に必要なのではないでしょうか。

 また、そもそも自分の能力と相談して人生を設計することに僕は堅実というより自分の能力に対する一種の諦めを感じてしまうのです。計画的に生きている時、人は一見積極的で前向きな姿勢で生きているような印象を受けますが、実はそうしている時の心の中は怠け心が支配し始めているような気がするのです。

 とにかく先のことより今を大切に生きよう。ていねいに生活してみよう。

 希望というのは追うものではなく携えていくものではないだろうか。

 生きている。これが希望だと思う。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚無と精神病

2010年04月26日 19時26分32秒 | インポート

 僕は今、精神病の症状である幻聴と妄想の再発より恐れているものがあります。それは虚無です。僕は眠れない夜はいつも布団の中で僕が死んだら僕という存在はこのいとおしい世界から永遠に無くなってしまうのかなとか考えてしまいます。そうすると僕の精神は決まって不安定になりとても苦しくなります。窓を開け、部屋の外の夜の音と空気に触れると少しは和らぐのですが、一時しのぎに過ぎません。

 僕の現在の一番の関心は社会復帰といったものではなく、この虚無を克服することにあります。僕が今、一番欲しいものは生きる情熱です。

 本当の死つまり虚無に一対一で直面しても(というか虚無と直面する時はいつも一対一なのですが)神(光、希望)を本当に信じられている人は精神病にならないと思います。信じられている間は信仰が虚無を突き抜けているからです。そしてイエスはその代表格だと思います。僕はクリスチャンではありませんがイエスの生き方にはとても惹かれます。

 この世的な価値観を持った人から見たら他人のために死ぬ人は狂っているとしか映らないでしょうが僕はイエスほど人の子として最高の生き方ができた人はいないと思っています。

 なぜならイエスは虚無と直面しても逃げることもごまかすことも絶望することもなかったからです。彼はこの世的な価値観では一番大切と思われている自らの命を他人のために放棄することによって(なんて崇高な行為でしょう!僕にはできない)肉体の死を絶望から希望に変化させ結果的に虚無を乗り越えてしまったように見えます。

 精神病は虚無に直面した者がそれから逃れようとする試みによって引き起こされるというのが僕の持論です。僕は辛い現実を認めなくて済むようにする自我の無意識の試みは妄想を生み出し、惨めな自分を自分で無くしてしまおうという自我の無意識の試みは幻聴を生み出すのだと思っています。

 なぜ自我がそんなことをするのかというと、おそらくそうでもしなければ虚無に押しつぶされてしまいそうになるからでしょう。

 つまり精神病者は救われていないので虚無から自分自身の力を頼って逃れようとしているのです。この点がイエスと精神病者を分けるのだと思います。精神病者には希望すなわち神に対する確信はありません。

 それなら精神病にならないためには神を信じればいいのかと問われれば、そうであると答えます。しかし神を信じるということは簡単なようであってとても難しいのです。試しに行ってみてください。

 人が神を信じられるようになるためには、まず人が救われていなければなりません。人は、神を信じるから救われるのではなく、救われているから神を信じられるものだからです。

 ではどうすれば救われるのでしょうか。凡人である我々にとって、それは自分が愛すべき人に愛されることです。一人でもいいからそういう人がいればその人は救われます。神の国は愛ある人と人との間にあるとはそういうことだと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目次

2010年04月26日 19時22分39秒 | インポート

 この度はどうも。これからこのブログで紹介していく記事は僕が『統合失調症 再生ノート』というタイトルでいずれ書籍化しようと思っていた文章群(全部で6章ある)の一部(第2章)です。これらは1991年から続けてきた自己認識の作業の結果生まれたものです。精神病の理解に少しは役に立つと自負しております。どうかご自由にご覧ください。目次を載せます。これからこの順で掲載していくつもりですのでよろしくお願いします。

第二章

l  虚無と精神病

l  希望

l  人を恨まず、自分を見捨てず

l  旅の途中で

l  カミング・アウト

l  こだわり

l  許し

l  今にして思うこと

l  大人になれば

l  写真

l  優しさと易しさ

l  生まれ変わり

l  早朝の世界

l  粘土

l  名前

l  僕の父

l 

l  人間失格

l  恐れるな

l  感情

l  なりたい自分

l  純粋

l  ふたごころ

l  永遠

l  売春婦

l  後悔

l  営利

l  仮面

l  ヘラクレス

l  Xとしての人間

l  恋愛

l  富める者

l  ミロのヴィーナス

-->

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじめに

2010年04月26日 19時12分08秒 | インポート

 僕の弟が僕のためにブログの設定をしてくれたので今日からマイペースで記事を載せていきたいと思います。

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 統合失調症へ
にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする