先日、僕は教会の聖書研究会で『マルコによる福音書』一章四〇節から四五節を勉強しました。そこはイエスが重い皮膚病(ハンセン病)を患っている人を清めるという話なのですが、今回はそこで僕が気づかされたことを述べたいと思います。
僕が気になったのはイエスがその人の病気を治した後の四三節と四四節です。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献(ささ)げて、人々に証明しなさい。」
なぜイエスは自分が行ったわざを口止めしたのだろう?
それはイエスの謙遜のためだと思うとか、イエスは人々が彼の奇跡ばかりを求めて近づいてくるのを危惧したのではないかとかいう意見や敵対する勢力の妬みを危惧したのではないかという意見がありました。
またなぜ、重い皮膚病を患った人が、イエスに口止めされたにもかかわらず、大いにこの出来事(言葉)を人々に告げ、言い広め始めたかという疑問もありました。
それに対しては、人というものは秘密にしておいてと言われたことほど言いふらしたくなるものだとか、よほど病気を治してもらったことが嬉しかったのだろうとかいう意見がありました。
そして僕はこれらの意見に納得して家に帰ってきたのですが、しばらくして一つのことが頭に浮かんできました。
それは重い皮膚病を患っていた人のその後のことです。聖書には書かれていませんが、この人のその後が気になりました。
この人の病気は治りました。しかし、彼は彼の所属していた社会に無事復帰し、めでたし、めでたしで終わったのでしょうか?僕はそう簡単にはいかないのではないかと思ってしまうのです。この人はイエスの厳しい注意を破り自分に起こったことを他人に話したことにより、今は治っているとはいえ、過去に重い皮膚病を患っていたことを知られてしまったわけです。
本人は、かつて人に忌み嫌われている病気に罹っていたとはいえ、今はもう治ったのだからいいではないかと思っているとしましょう。でもそれを受ける周囲の人々も同じように思うとは限りません。他人にはあの人は人に忌み嫌われている病気に罹っていたのだという偏見を与えるのではないでしょうか?
そしてそれを知ったら彼は傷つくのではないでしょうか?それでも彼の傷は彼が彼を知る人々の中で生きる限り残り続けるのです。
聖書には書いてありませんがイエスはそのことを知っていたのだと僕は思いました。
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