本上まもる『〈ポストモダン〉とは何だったのか 1983―2007』という新書から引用。<o:p></o:p>
P144<o:p></o:p>
またラカンは自我心理学と呼ばれる学派には強烈な批判を浴びせた。自我心理学とは何か? 簡単に言うと、「心の病の原因は自我が弱いことだ」とする考え方である。その考えに従うなら、治療者は患者の自我と同盟を結び、患者の自我の強化を助け、無意識を制御して、社会に適応できるようにしなければならない。これはいわば理性と感情の二元論のヴァリエーションと考えることができる。多くの人々はこちらのほうこそ精神分析治療だと理解しているのではないだろうか。<o:p></o:p>
しかし、ラカンはそのような考えをとらない。たとえ、どんなに理性を強化しようとも、理性は間違いを起こすだろう。つまり超自我や無意識はそのような制御には従いえない。なぜなら、ラカンによれば、主体には構造的に穴が開いていて、意識の思うようにはいかないからだ。<o:p></o:p>
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僕も自我が弱かったから統合失調症になったとは思っていないので、自我心理学の理論は支持できません。<o:p></o:p>
現在、弱くなったことは認めますが、だからといって、自我が弱かったから心の病になったとするのは短絡的だと思います。<o:p></o:p>
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ある偉そうな有力者が「おい、あのバカをつまみ出せ!!」と命令し、その子分どもによって僕はそこから追い出される。<o:p></o:p>
最近、こういう状況が繰り返し頭に浮かんでいた。<o:p></o:p>
何故だろうなぁ・・・と疑問に思っていたが、でもさっき気がついた。<o:p></o:p>
ああ、実は僕はこんなふうに扱われたいのだなぁ・・・と。<o:p></o:p>
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当選金額1等5億円の宝くじを買ったら、当たったが、そこから葛藤してしまうような奴。<o:p></o:p>
迷った挙句、取った行動が、全部外にばら撒いてしまうような奴。<o:p></o:p>
「あはははは・・・あははははは・・・」と笑いながら。<o:p></o:p>
「オレは勝った!オレは自由だ!」などと叫びながら。<o:p></o:p>
その理由が、別に他人のためではなく、全部自分のためなのだという奴。<o:p></o:p>
生きている間に己の魂を救済しようとするような奴。<o:p></o:p>
間違いなく「狂人」という烙印を押されてしまうだろうが、こんな奴、いたらいいな~。<o:p></o:p>
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2011年3月11日の「東北地方太平洋沖地震」以後、僕の住む関東地方は地震が多い。<o:p></o:p>
正直言って、僕も地震は怖い。<o:p></o:p>
部屋がガタガタ揺れる度に、僕は身を硬くしてしまう。<o:p></o:p>
でも最近は、慣れてきたせいか、地震の最中、別なことが頭に浮かぶようになった。<o:p></o:p>
《ああ、こうして地震に揺らされているのは、僕だけではないのだろうなぁ》とか。<o:p></o:p>
《タイムラグはあるだろうけど、みんなも同じように揺らされているのだろうなぁ》とか。<o:p></o:p>
要するに、周囲との一体感?を感じるのだ。<o:p></o:p>
僕って変?<o:p></o:p>
こんな感じ方をするのは、普段、疎外感があるからかもしれない。<o:p></o:p>
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テレビでニュースを見ていると、時々、不快な効果音が流れる。<o:p></o:p>
注意して聴いてみると、問題人物が映っている時に、流れている。<o:p></o:p>
僕は、それを見て、嫌だな~と思う。<o:p></o:p>
いや、問題人物ではなくて、報道する側に対して。<o:p></o:p>
たぶん、大衆の心理を、情緒的に、操作しようとしているような気がするからだろう。<o:p></o:p>
こういう時、僕は、報道する側に、疑いの目を向けてしまうのだ。<o:p></o:p>
彼らは、正義の仮面を被っているが、実はとても邪悪な存在ではないかと。<o:p></o:p>
でもこういうことを言うと、立場上、被害妄想にされてしまいそうなので、あまり強く言えないのが悔しい。<o:p></o:p>
こういう現象は外国でもあるのだろうか?<o:p></o:p>
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忘れると、同じ間違いを、またくり返す。<o:p></o:p>
だから、忘れてはいけないのだ、と言う人がいる。<o:p></o:p>
一方で、人間の脳の容量には、限界がある。<o:p></o:p>
だから、忘れたほうがよい、と言う人がいる。<o:p></o:p>
忘れないと、新しいことが、入ってこないということらしい。<o:p></o:p>
では、どうしたらよいか。<o:p></o:p>
忘れても、よいことと、よくないことは、どこで決まるのか?<o:p></o:p>
ここまで来て、僕は思う。<o:p></o:p>
覚えていることは覚えているものだし、忘れてしまうことは忘れてしまうものだと。<o:p></o:p>
だから、覚えていて欲しい人は、訴えればよい。<o:p></o:p>
他人の心に届くまで、己の存在をかけて、訴え続ければよい。<o:p></o:p>
とにかく権力で、他人の心を、操作すべきではない。<o:p></o:p>
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不思議なものを前にして<o:p></o:p>
立ちすくむ<o:p></o:p>
少女のまあるい後頭部を<o:p></o:p>
斜め後から<o:p></o:p>
見るのが好きだ<o:p></o:p>
なぜだかは分からない<o:p></o:p>
でもとにかく美しいのだ<o:p></o:p>
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星の運行と人の運命を結びつける占星術は、単なる関係妄想に過ぎないので、信じるべきではない。<o:p></o:p>
その意見ももっともだと思います。<o:p></o:p>
でも本人はそれを「楽しんで」いるのです。<o:p></o:p>
だからどうか勘弁してください。<o:p></o:p>
ところで「冥王星」は西洋占星術では、蠍座の支配星で、死と再生を司る星とされています。<o:p></o:p>
この星が数年前、ホロスコープ(出生天球図)上で、僕の太陽星座の反対側の射手座を運行していました。<o:p></o:p>
つまり僕の太陽(双子座24.25度)と冥王星がオポジション(180度)のアスペクトを形成していたのです。<o:p></o:p>
オポジションとは最も緊張感のある凶座相とされています。<o:p></o:p>
実際、この時期の僕の人生は精神的にとてもハードなものでした。<o:p></o:p>
夜中になると、僕を非難する声(幻聴?)がして、寝つきの悪い日が続いていました。<o:p></o:p>
真の原因は勝手に断薬して統合失調症の症状が再発したためかもしれませんが、僕は星の影響もあったのではないかと疑っているわけです。<o:p></o:p>
そしてそれは判別困難です。<o:p></o:p>
でもその緊張関係も終わりました。<o:p></o:p>
オーブ(許容範囲)を前後10度としても、しばらく前に抜けました。<o:p></o:p>
やれやれです。<o:p></o:p>
ちなみに実際の冥王星って「赤味がかったピンク色」をしているそうです。<o:p></o:p>
かわいいじゃないの。<o:p></o:p>
イメージと全然違うけど、いいな~と思いました。<o:p></o:p>
僕の愚かな心<o:p></o:p>
社会の迷惑<o:p></o:p>
僕のことを愛していると思っていた彼女に結婚を約束した相手がいたなんて・・・<o:p></o:p>
焦って仕事を放り出し、訪ねた彼女の家の前で告白した僕は愚か者<o:p></o:p>
でもあれは、妄想だったけど、本気だったのだ<o:p></o:p>
それまで独りで必死に戦っていた悪魔たちに勝った結果だったのだ<o:p></o:p>
恋愛も仕事も能力も失った今の僕に存在価値があるかどうかは分からない<o:p></o:p>
けれども自分の物語は持っている<o:p></o:p>
それだけが幸い<o:p></o:p>
僕はこういう、愚かになれた、自分が好きだ<o:p></o:p>
道路に死んだ鳥を見つけたとき、《ああ、可哀相!》と、思う子は優しい子<o:p></o:p>
でもその子が弔ってあげようと、その鳥に触れようとしたとき、【死んだ鳥にはうかつに触れるな!】と大人は命令・禁止する<o:p></o:p>
なぜなら以前、そうした者が死んでいたからだ<o:p></o:p>
なぜだかは分からない<o:p></o:p>
でもそうなっているのだから仕方がない<o:p></o:p>
そういったことが実際この世にはある<o:p></o:p>
大人はその子が憎くて言っているわけではない<o:p></o:p>
むしろ愛しているから、厳しいことを言うのだ<o:p></o:p>
分かってくれ、優しい子よ<o:p></o:p>
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彼女、泣いたり、吼えたり<o:p></o:p>
僕、おろおろ、うろたえるばかり<o:p></o:p>
ああ、女って、生き物なんだなぁ<o:p></o:p>
取り扱いに注意<o:p></o:p>
大切にすれば、神のようになり<o:p></o:p>
粗末にすれば、悪魔のようになる<o:p></o:p>
それはそれでいいのだった<o:p></o:p>
下手に教化などしないこと<o:p></o:p>
女は命だから<o:p></o:p>
できるだけ、ありのままに<o:p></o:p>
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前島 誠『不在の神は〈風〉の中に』という本を読む。<o:p></o:p>
それによると、モーセに対する神の自己紹介、「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14)という日本語訳には重大な問題があり、それは動詞の時制が現在形に訳されてしまったことだそうだ。<o:p></o:p>
だけど、原典の古代ヘブライ語には、もともと現在形は存在していないそうだ。<o:p></o:p>
一般に使用される〈過去・現在・未来〉という三時制がヘブライ語にはなく、すべての行動の様態を基準にして考え、わざの内側から生み出される時としてとらえるそうだ。<o:p></o:p>
外側から人間を規制する枠ではなく、むしろわざの中にあるという感覚。<o:p></o:p>
そのわざが、完結しているかいないかによって、完了形と未完了形の二つの「相」に分かれるだけだそうだ。<o:p></o:p>
原文の「EHYH・AShR・EHYH(エヒイェー・アシェル・エヒイェー)」を見てみると、エヒイェーは英語のbe動詞に当たり、活用の相は一人称単数・未完了形だそうだ。<o:p></o:p>
未完了形は、まだ完了していない行為、くり返す行為、継続する行為の始まり、さらに願望、可能、命令の意味に使用されるそうだ。<o:p></o:p>
したがって、日本語に訳すなら「ある」ではなく、「あるだろう」とする方が順当で、神の自己紹介は「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」となるそうだ。<o:p></o:p>
アシェルは関係代名詞。<o:p></o:p>
こうなるとかなり受ける印象が違うな~。<o:p></o:p>
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「0(ゼロ)」の発見ってどういうコトだろう?<o:p></o:p>
「無いモノ」が有るってどういうコトだろう?<o:p></o:p>
たぶん初めから無かったら、それを見つけるコトも無かったのだろうな。<o:p></o:p>
順番としては、先ず「有るモノ」を認識してから、それが「無いコト」に気づくのだろうな。<o:p></o:p>
「分けるコト」、「分けて比較するコト」によって人間は「自分」を確立するのだろうけど、それが苦の原因ともなるのだろうな。<o:p></o:p>
でも全て同じにしてしまったら、「個」が育たなくなってしまうのだろうな。<o:p></o:p>
だから人間は、この矛盾を抱えつつ、生き続けなければならないのだろうな。<o:p></o:p>
内田 樹『寝ながら学べる構造主義』からの引用。<o:p></o:p>
ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。<o:p></o:p>
みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。<o:p></o:p>
ですから、精神分析の治療は、ふつうはエディプスの通過に失敗した被分析者を対象とするわけですが(鏡像段階を通過できなかった人には「私」がないので、おそらく分析にまでたどりつくことさえできないでしょう)、その作業は、標準的には、分析家を「父」と同定して、「自分についての物語」をその「父」と共有し、「父」に承認してもらうというかたちで進行することになります。<o:p></o:p>
さきに見たとおり、精神分析では、分析家はひたすら分析主体(ラカンの用語では「患者」とは呼ばずにこう呼ぶ)のことばに耳を傾けます。分析主体のことば以外のデータを排し、その言説の内部にとどまるのです。重要なのは分析主体の言説を理解しているかどうかではありません。語りかけと応答がテンポよく進行すればそれでよいのです。その「コール&レスポンス」が分析的対話の真の推進力なのです。分析家が分析主体に与えるのは「理解」ではなく、「返事」なのです。<o:p></o:p>
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精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。<o:p></o:p>