僕の母さんによると「君のためなら死ねる」よりも「君がいないと生きられない」と言われる方がよいそうだ。
日頃から己の劣等性を表明している者は何か不祥事が起きた際には真っ先に罪を疑われてしまうものだ。
本人としてはそれによって周囲の優しさを期待していたのだろうが思惑は外れたわけだ。
食事をしながら悩み事の相談をする際には気をつけたい。
同じ土俵に立っているようでも悩みを打ち明ける者と打ち明けられる者とでは効果が違うからだ。
一方はおいしいものを食べながら苦い思いは吐き出せる(快+快)のに対しもう一方はおいしいものを食べながら苦い思いも受け入れなければならない(快+不快)からだ。
先週の金曜日Uさんという方の素敵な詩集が郵便で届きました。
1929年(世界大恐慌の年だな)生まれのUさんは今年94歳になる高齢男性なのですが確か息子さんが統合失調症でその関係で精神障害者の作業所でスタッフとして僕と一緒に働いていたことがあったのでした。
でも随分ご無沙汰していたので僕のことを覚えていてくれたことが何よりうれしかったです。
紳士的でニコニコしているイメージがある方でしたがUさんによって書かれた詩はそういう感じではなくずっしりとした味わいのあるものでした。
周囲の人を心の目で観察していたのだなということが窺える内容でした。
お礼として金銭の代わりに僕の本を3冊レターパックで送らせていただきました。
Uさんのご多幸をお祈りいたします。
マイバースデー。
今日は僕の誕生日です。
58歳になりました。
これにより58歳で逝去した父の行年に到達したわけです。
父は肺がんで亡くなったのですが当時の姿はおじいさんのようでした。
現在の僕と比較してよほど体を酷使していたのだなということがわかります。
僕がいま死に直面したらかなりジタバタすると思います。
心の準備などあったものじゃない。
それに比べてこの年齢で死に切った父は偉いと思います。
それにしても父方の家系は短命な人が多いのですが僕は何歳まで生きられるのかなあ。
ニュースを見ながら食事をとらないようにしている。
飯がまずくなるというより。
他人の不幸を知りながらおいしいものを食べるとだんだん邪悪になりそうだからだ。
パブロフの犬。
疑うのは信じたいから。
いえ、幻聴さんのことですがそういう言い方もできないことはないなと。
だけど疑い続けてそれ以上「疑えなくなる」ところまで行けば果たして「信じる」ことはできるのだろうか。
不毛な努力のような気がしてならない。
それは神経症的な否認ではないかと。
それとも幻聴さんは信じたくないのだろうか。
わかればもはや信じる必要はなくなるからね。
とにかくこちらとしては迷惑この上ないのでやめてほしい。
何にも信じられなくなった人の心は不安定になる。
すると知らぬ間に確認行為が多くなり生活に支障が出る。
その苦しみを何とかしようとして不信感を抱かせた相手を一方的に悪だと決めつける。
そしてそれ以上疑えなくなるというわけ。
信じているからこそ疑える。
信じているからこそ文句を言える。
大丈夫。
それでも神は許してくれるはずだと。
逆説的だけどそれが人の真実。
妄想者は絶対的なものにこだわってしまうためそれ以上疑えなくなる。
弱っているから絶対的なものを心の支えにせざるを得ないのだ。
だからその無謬性を脅かされると猛烈に怒るのだ。
試練。
今でも普通に使われる言葉ですが一体誰が与えるのかと。
そいつには何故他者に試練を与える権限など認められているのかと。
それは神だから問題にならない?
でも神は全知全能なので初めから結果をご存じのはず。
したがって試練とは神のためにあるわけではない。
ひとえに人のためにあるのだろう。
しかしそれなら何のために?
試練を乗り越えた先に何が待っているのだろう。
試練の後にはまた別の試練が待っているだけなのでは。
強くなるため?
しかし結局死んじゃうんだろ。
まあ、試練という発想が神という超越的な存在を想起させて虚無に耐えやすくしてくれるのは認めるが実際そのためにあるのだろう。
今朝、自宅の崩れたブロック塀から流出した土砂や瓦礫が道をふさぎ車の通行を妨害するという夢を見ました。
それを二階のベランダから眺めていたのですが回避しようとした薄紫色のコミューターの車体が傾いたところで夢から覚めました。
この夢にどんな意味がある?